水車小屋の異変
翌朝、クレイヴェル家の食堂には、いつもより少し重たい空気が漂っていた。
原因は、父エドガーの前に置かれた一通の報告書だった。
「水車小屋の魔力灯が、停止後にも発光したそうだ」
その言葉に、シオンは思わず顔を上げた。
「止めた後なのに?」
「ああ。管理人が昨夜、確認したらしい」
エドガーは報告書を机に置いた。
「ダリオが今朝、再点検に向かっている」
アルベルトが眉を寄せる。
「停止操作をしても、魔力が残っているということですか?」
「可能性はある。ただ、詳しい原因は分かっていない」
マリアが静かに口を開いた。
「水車小屋の周りに住んでいる方々は、大丈夫なの?」
「今のところ、被害は報告されていない」
「それならいいけれど……」
母の声には、心配が滲んでいた。
シオンは黙って聞いていた。
停止しても光る魔力灯。
昨日、自分が見た細い糸のような魔力の流れ。
何か関係があるのだろうか。
けれど、確信はない。
今の自分にできるのは、気づいたことを伝えることだけだ。
「父上」
「何だ?」
「僕も、ダリオさんのところへ行っていい?」
エドガーは少し考えた。
「昨日、頭痛があったばかりだろう」
「今日は無理に魔力を見ようとしない。話を聞くだけにする」
「……約束できるか?」
「うん」
エドガーは頷いた。
「なら、アルベルトと一緒に行きなさい。ただし、危険があると判断されたら、すぐに離れること」
「分かった」
シオンは胸の奥で、小さく息を吐いた。
◇
水車小屋へ向かう道は、朝露で濡れていた。
アルベルトとシオンは、村の広場を抜けて川沿いの道を歩いていた。
水の流れる音が、少しずつ大きくなっていく。
「シオン」
アルベルトが声をかけた。
「何?」
「昨日から、ずいぶん魔力灯のことを気にしているな」
「……うん」
「何か、理由があるのか?」
シオンは少し迷った。
前世のことを話すべきだろうか。
別の世界で生きていた記憶がある。
その世界では、危険かもしれないことを伝えず、後悔したことがある。
だから、今回は黙っていたくない。
けれど、そんな話をしても、信じてもらえるだろうか。
いや。
そもそも、自分自身がまだ整理できていない。
「……前に、言わなくて後悔したことがあるんだ」
シオンは、そう答えた。
嘘ではない。
けれど、全部でもない。
アルベルトは少し驚いた顔をした。
「そうか」
それ以上、無理に聞こうとはしなかった。
「だったら、今回はちゃんと伝えようとしているんだな」
「……うん」
「それは悪いことじゃない」
アルベルトは穏やかに笑った。
「ただ、何でも一人で背負う必要はないぞ」
「分かってる」
そう答えながら、シオンは考えた。
本当に、分かっているのだろうか。
前世の自分は、責任を負うことを恐れていた。
今世では、その反動で、必要以上に責任を背負おうとしているのかもしれない。
その違いを、まだうまく見極められなかった。
◇
水車小屋に着くと、ダリオは既に点検を始めていた。
工具袋を床に広げ、壁の魔力灯に測定板をかざしている。
「おはようございます、アルベルト様。シオン坊ちゃんも」
「おはよう、ダリオ。状況は?」
「停止後にも発光したという話は、管理人から確認しました。ただ、今は光っていません」
「測定結果は?」
「通常の停止状態より、わずかに反応が残っています」
ダリオは測定板を見せた。
針は、ほとんど動いていない。
けれど、完全にゼロではなかった。
「これが異常なのかどうか、まだ判断できません。古い型ですから、停止後に魔力が残ること自体はあります」
「危険性は?」
「亀裂がある以上、使わない方がいいでしょう。取り外すのも、今は避けたいところです」
アルベルトは頷いた。
「父上には、そのように報告してくれ」
「承知しました」
シオンは壁の魔力灯を見上げた。
星晶石の表面には、細い亀裂が走っている。
昨日より広がっているようにも見えた。
けれど、近づいて確かめることはしなかった。
「ダリオさん」
「はい?」
「昨日、停止した後も、二回反応があったんだよね?」
「ええ。ほんの一瞬でしたが」
「他の魔力灯でも、同じことはあるの?」
ダリオは考え込んだ。
「古い設備なら、似た反応が出ることはあります。ただ、今回のように何か所も続くのは珍しいですね」
「……そうなんだ」
「シオン坊ちゃんは、何か気づいたことがありますか?」
シオンは少し迷った。
けれど、昨日までとは違った。
「魔力灯の中に、細い糸みたいなものが見えたんだ。何本も重なっていて、そのうちの一本が二回震えた」
ダリオは真剣な顔で聞いていた。
「魔力の流れ、でしょうか」
「分からない。でも、見ようとすると頭が痛くなる」
「それなら、無理に見ない方がいいですね」
ダリオは即座に答えた。
「魔力に敏感な人は、強い反応を受けると体調を崩すことがあります。詳しくは専門家に診てもらうべきでしょう」
「僕、魔力に敏感なのかな」
「その可能性はあります。ただ、今ここで決めつけることはできません」
シオンは頷いた。
分からないことは、分からない。
それでも、話してよかったと思えた。
◇
点検が一段落すると、ダリオは魔力灯の周囲に簡易の立入防止柵を設置した。
「管理人さんには、ここに近づかないよう伝えておきます」
「水車の作業は続けられるのか?」
アルベルトが尋ねる。
「灯りから離れた場所なら、今のところ問題は確認されていません。ただし、念のため夜間作業は控えてもらった方がいいでしょう」
「分かった」
アルベルトは頷いた。
そのとき、管理人の老人が小屋の奥から出てきた。
「アルベルト様、ひとつお願いがあるんですがね」
「何でしょう?」
「灯りの交換がいつになるか、分かりませんか?」
老人は困ったように笑った。
「夜の作業を止めると、どうしても仕事が遅れまして。今はまだ何とかなりますが、収穫が本格的に始まると厳しいんです」
アルベルトはすぐには答えなかった。
シオンは兄の横顔を見た。
昨日、フィリップ兄さんと確認した倉庫の在庫。
旧型の星晶石は一つだけ。
それは南の橋のために確保されている。
新しい石を買っても、届くまで十日ほどかかる。
簡単には決められない。
「すぐに交換できるとは約束できません」
アルベルトは正直に答えた。
「ですが、夜間作業ができないことで、どれほど影響が出るのか確認させてください。必要なら、作業の順番や人手の調整も考えます」
「……ありがたいことです」
老人は深く頭を下げた。
シオンは、そのやり取りを黙って見ていた。
魔力灯を止めれば、安全になる。
けれど、仕事が遅れる。
仕事が遅れれば、困る人がいる。
どちらか一つだけを考えればいいわけではない。
それが、少しずつ分かってきた。
◇
帰り道。
シオンは川の流れを見つめながら歩いていた。
水車が回る音が、遠くなっていく。
「アルベルト兄さん」
「何だ?」
「もし、魔力灯が危ないって分かったら、全部止めるの?」
アルベルトは少し考えた。
「危険の程度によるだろうな」
「全部、古いのに?」
「古いからといって、必ず危険とは限らない」
「でも、何かあったら……」
「だから調べるんだ」
アルベルトは立ち止まった。
「シオン。領内には、魔力灯が何十もある。全部止めれば、夜道が暗くなる。橋も、作業場も、家々も困る」
「……うん」
「それでも、危険が大きいと分かれば止めなければならない。けれど、何も分からないうちに全部止めれば、それによって別の事故が起きるかもしれない」
シオンは黙った。
前世でも、似たようなことを考えた記憶がある。
危険を避けようとして、別の問題を生む。
慎重に判断しようとして、時間を失う。
何が正しいのか分からない。
「……難しいね」
「ああ。難しい」
アルベルトは頷いた。
「だから、父上も悩んでいるんだと思う」
シオンは兄を見上げた。
「父上も?」
「もちろん。領主だからといって、何でも簡単に決められるわけじゃない」
アルベルトは少し笑った。
「むしろ、決めなければならないことが多い分、悩むことも多いだろうな」
シオンは頷いた。
父はいつも落ち着いている。
けれど、その裏では、たくさんのことを考えているのだろう。
自分が見ているのは、そのほんの一部にすぎない。
◇
その夜。
シオンは机に向かい、今日の出来事を書き留めていた。
『水車小屋の魔力灯、停止後も微弱な反応あり』
『星晶石に亀裂』
『ダリオさんは取り外しを保留』
『管理人さんは夜間作業ができず困っている』
『危険かどうかは、まだ不明』
最後の一行を書き終え、筆を置く。
分からないことばかりだった。
それでも、以前よりは少しだけ落ち着いて考えられるようになった気がする。
自分が全部を解決する必要はない。
けれど、気づいたことを黙っていていいわけでもない。
その間にある、ちょうどいい場所。
今はまだ、そこを探している途中だった。
シオンは窓の外を見た。
村の灯りが、夜の闇に浮かんでいる。
その一つひとつが、誰かの生活を支えている。
前世の世界でも、きっと同じだった。
何気なく使っていた電灯も、電車も、水道も。
誰かが点検し、修理し、費用を考え、動かしていた。
自分は、そのことをどれほど意識していただろう。
「……知らなかったことばかりだな」
シオンは小さく笑った。
前世の記憶が戻ったことで、世界が分かるようになったわけではない。
むしろ、分からないことが増えた。
それでも、今度は目を逸らしたくなかった。
シオンは紙を折り畳み、引き出しにしまった。
明日も、できることを一つずつ確かめよう。
そう決めて、灯りを消した。
◇
同じ頃。
水車小屋では、ダリオが残していった立入防止柵が、静かに壁の前に置かれていた。
管理人の老人は、既に帰宅している。
小屋の中には、誰もいない。
停止した魔力灯は、暗いままだった。
しばらくして。
カチリ。
小さな音がした。
星晶石の奥で、淡い光が揺れる。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
そして、亀裂の奥に、細い光の筋が浮かんだ。
それは、石の表面ではなく、さらに奥へと続いているように見えた。
やがて光は消えた。
水車小屋は、再び静寂に包まれた。
ただ、誰も知らない場所で。
何かが、少しずつ変わり始めていた。




