消えた灯りの理由
クレイヴェル領の朝は、鶏の鳴き声より早く始まる。
畑へ向かう農夫たちが道を行き、パン屋の煙突からは細い煙が上がる。水汲みをする人々の声が、まだ薄暗い通りに響いていた。
シオンは屋敷の窓から、その光景を眺めていた。
村の外れにある水車小屋。
そこだけ、昨夜は灯りがともらなかった。
普段なら、夕方から夜にかけて小さな光が見える場所だ。
昨夜、窓辺で村を眺めていたシオンは、そのことに気づいた。
けれど、何があったのかまでは分からない。
「……故障かな」
そう呟いたところで、扉が叩かれた。
「シオン、起きてるか?」
フィリップの声だった。
「起きてるよ、兄さん」
「じゃあ、ちょっと手伝ってくれない?」
扉を開けると、十二歳の兄が紙の束を抱えて立っていた。
「何、それ?」
「父上に頼まれた物資の一覧。数が合わないんだ」
「僕に聞いて分かるの?」
「二人で数えた方が早いだろ?」
フィリップは当然のように言った。
シオンは少し笑って、兄を部屋へ招き入れた。
◇
机の上に並べられたのは、倉庫の備品一覧だった。
釘、縄、油、工具。
それから、魔力灯の交換に使う星晶石。
「……これ、昨日の点検と関係ある?」
シオンが尋ねると、フィリップは頷いた。
「ダリオさんが、水車小屋の魔力灯を止めたんだって」
「やっぱり」
「知ってたの?」
「昨日の夜、灯りが消えてたから」
「へえ。よく見てるな」
フィリップは感心したように言った。
「石に亀裂があったらしいよ。だから、交換用の石があるか調べてる」
「予備は?」
「帳簿だと三個」
「三個もあるなら、すぐ交換できるんじゃない?」
「そう思うだろ?」
フィリップは苦笑した。
「でも、種類が違うんだ」
兄は一覧の一行を指差した。
『星晶石・新型 小型 二』
『星晶石・旧型 中型 一』
「水車小屋の灯りは旧型の中型。合うのは一個だけなんだって」
「じゃあ、それを使えば……」
「ところが、その一個は南の橋の灯り用に確保してあるんだ」
「橋?」
「夜に荷車が通るからね。あそこが消えると危ないんだよ」
シオンは黙り込んだ。
水車小屋の灯りも必要だ。
けれど、橋の灯りも必要だ。
どちらか一つを選ばなければならない。
「……新しい石は使えないの?」
「取り付け部分が違うらしい。無理に使うと危ないんだって」
フィリップは紙をめくった。
「父上は、新しい石を追加で買えないか調べてる。でも、すぐには届かないみたい」
「どれくらい?」
「早くても十日くらいかな」
「十日……」
シオンは窓の外を見た。
水車小屋の周囲には、いくつかの家がある。
夜に灯りがなければ、不便だろう。
けれど、橋の灯りを外せば、別の人たちが困る。
前世なら、どうしただろう。
そんなことを考えて、シオンはすぐに首を振った。
日本の街灯と、この世界の魔力灯は違う。
電気も、道路も、予算の仕組みも。
知っているような気になってはいけない。
「フィリップ兄さん」
「ん?」
「水車小屋って、夜も仕事するの?」
「時々ね。収穫期なんかは遅くまで動かすこともあるよ」
「じゃあ、灯りがないと困るね」
「そうなんだよ」
フィリップは頷いた。
「だから、別の方法がないか考えてる」
「別の方法?」
「油灯を持っていくとか、夜の作業を減らすとか。できることはあるだろ?」
シオンは兄を見つめた。
フィリップは、魔力灯を直せない。
けれど、直るまでの間に何ができるかを考えている。
その姿が、少し眩しく見えた。
◇
朝食の席で、父エドガーは家族に状況を説明した。
「水車小屋の魔力灯は、当面停止することにした」
アルベルトが頷く。
「管理人には、夜間の作業を控えるよう伝えてあります。必要な場合は油灯を使うことになりますが、火の扱いには注意が必要です」
「油灯の数は足りるの?」
マリアが尋ねた。
「今のところは。ただ、長期間となると油の補充が必要です」
「なら、私の方でも確認しておきます」
母は静かに答えた。
エリシアが口を開く。
「水車小屋の周りには、小さな子どものいる家もあります。夜道が暗くなるなら、別の場所にも灯りが必要かもしれません」
「そうだな」
エドガーは頷いた。
「ダリオには、周辺の設備も確認してもらう」
シオンは食卓を見回した。
父は全体の判断をする。
アルベルト兄さんは現場の状況を確認する。
母さんは物資の手配を考える。
エリシア姉さんは住民の暮らしを気にかけている。
フィリップ兄さんは倉庫の在庫を調べている。
みんな、違うことを考えている。
けれど、目指しているものは同じだった。
「父上」
シオンは手を挙げた。
「何だ?」
「水車小屋の魔力灯って、止めた後も変な反応があったんだよね?」
エドガーは少し驚いた顔をした。
「ダリオから聞いたのか?」
「ううん。昨日の報告を聞いて、気になっただけ」
父は頷いた。
「確かに、停止後に測定板が反応したそうだ。ただし、一度きりで再現はしていない」
「それって、危ないの?」
「まだ分からない」
エドガーははっきり答えた。
「だから、設備は使わず、専門の者に確認してもらう」
「専門の人?」
「ダリオが詳しい職人に相談する予定だ。領内で分からないことなら、外に知恵を借りるしかない」
シオンは頷いた。
自分が何とかしなければ。
昨日まで、そんな気持ちがどこかにあった。
けれど、父は当然のように、他の人に頼ろうとしている。
それが少し意外だった。
◇
昼過ぎ、シオンはフィリップと一緒に倉庫へ向かった。
古い木の扉を開けると、乾いた木材と油の匂いがした。
棚には、道具や交換用の部品が整然と並べられている。
「ここが星晶石の棚」
フィリップが指差した。
小さな木箱が三つ置かれている。
「これが新型の小型。こっちが旧型の中型」
シオンは箱を覗き込んだ。
中には、布に包まれた透明な石が入っていた。
「……きれいだね」
「高いからね。落とすなよ」
「触らないよ」
シオンは苦笑した。
石の表面には、淡い模様が浮かんでいる。
昨日、魔力灯の中で見えた細い糸に、少し似ている気がした。
もっと近くで見れば、何か分かるだろうか。
そう思った瞬間、こめかみの奥が微かに疼いた。
昨日の頭痛を思い出す。
シオンは、石から目を離した。
「どうした?」
フィリップが尋ねる。
「ううん。何でも……」
言いかけて、止まった。
何でもない。
前世でも、何度も口にした言葉だった。
本当は気になることがあるのに。
心配をかけたくないから。
説明が面倒だから。
そうやって、何度も飲み込んできた。
「……ちょっと、昨日のことを思い出したんだ」
「昨日?」
「魔力灯を見てたら、頭が痛くなったこと」
フィリップの表情が変わった。
「今も痛いの?」
「少しだけ。でも、すぐ治まった」
「なら、今日はもう見ない方がいいよ」
「うん」
フィリップは箱の蓋を閉めた。
「父上たちに任せよう。僕らが無理しても仕方ないし」
シオンは頷いた。
その言葉は正しい。
けれど、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
任せることと、何もしないこと。
その違いは、どこにあるのだろう。
◇
夕方、シオンは庭の端にある古い石の腰掛けに座っていた。
手には、昨日から書き続けている紙片がある。
『水車小屋の魔力灯、停止』
『停止後も微弱な反応』
『交換用の星晶石は不足』
『専門家に相談予定』
書き終えたところで、シオンは筆を止めた。
情報は増えた。
けれど、分からないことも増えている。
魔力灯の中で見えた細い糸。
二回の揺れ。
停止後の反応。
これらは、同じ原因なのだろうか。
それとも、偶然似た現象が起きているだけなのか。
シオンには判断できなかった。
「……僕にできることって、何だろう」
小さく呟いた。
前世の自分は、慎重だった。
けれど、その慎重さが、時には逃げ道になっていた。
今世では、同じことを繰り返したくない。
だからといって、何でも自分で解決しようとするのも違う。
分からないことを、分からないと伝える。
危険かもしれないことを、黙って見過ごさない。
それが、今の自分にできることなのかもしれない。
シオンは紙片を折り畳んだ。
明日、ダリオにもう一度話を聞こう。
ただし、無理に魔力の流れを見ようとはしない。
そう決めた。
◇
その夜。
村の外れにある水車小屋は、静かな闇に包まれていた。
管理人の老人は、油灯を手に小屋の中を見回っていた。
水車は止まっている。
昼間の作業を終え、今夜は早めに休むことにしたのだ。
「やれやれ、不便なもんだ」
老人はため息をついた。
壁の魔力灯は、昨日から使えない。
ダリオに触るなと言われているため、手を出してはいない。
ただ、交換がいつになるのかは分からなかった。
「早く直るといいんだがな」
そう呟いて、小屋を出ようとした。
そのとき。
背後で、小さな音がした。
カチリ。
老人は振り向いた。
壁の魔力灯。
停止しているはずの星晶石が、ほんのわずかに光っていた。
「……何だ?」
老人は足を止めた。
光はすぐに消えた。
気のせいかと思い、もう一度目を凝らす。
何も起こらない。
老人はしばらく立ち尽くしていたが、やがて首を振った。
「明日、ダリオに伝えよう」
そう言って、小屋を出た。
扉が閉まり、辺りは再び静かになった。
誰もいなくなった水車小屋。
その壁の中で、星晶石がもう一度だけ、淡く光った。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
そして、光は消えた。
けれど、その奥にある何かは、まだ静かに動き続けていた。




