↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
群星のヴェルシェリア  作者: セイ
第一部 目覚めの灯火

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/117

言えなかった言葉

 その日の夕方、シオンは自室の机に向かっていた。


 窓の外では、庭師が最後の道具を片づけている。西日を受けた木々の影が、床の上をゆっくりと伸びていた。


 机には、三枚の紙が並んでいる。


 一枚目には、魔力灯の異常を目撃した場所。


 二枚目には、設備職人ダリオから聞いた話。


 そして三枚目には、今日初めて見えたものを、どうにか言葉にしようとした跡が残っていた。


『星晶石の中に、細い糸のようなもの』


『何本も重なっている』


『一本が震えた』


『その後、頭が痛くなった』


 シオンは筆を置いた。


「……これじゃ、何も分からないな」


 書いてあるのは、自分にしか分からないことばかりだった。


 魔力の流れを見たのか、それとも目の錯覚なのか。


 確かめる方法すら分からない。


 前世の記憶が戻ったとき、シオンは少しだけ期待した。


 別の世界で生きた経験があるなら、何か役に立つことを知っているかもしれない、と。


 けれど、現実は違った。


 前世の自分は、魔法など知らない。


 機械の仕組みに詳しかったわけでも、特別に頭がよかったわけでもない。


 ただ、毎日働いていた。


 朝、決まった時間に起きて、混み合う電車に乗り、机に向かう。


 書類を確認し、誰かに連絡し、間違いがないか確かめる。


 そんな日々だった。


 それが無意味だったとは思わない。


 けれど、今の自分を助けてくれる知識が、すぐに出てくるわけでもなかった。


「……大人だったのにな」


 呟いてから、シオンは苦笑した。


 大人だった。


 だから何だというのだろう。


 年齢を重ねれば、何でも分かるようになるわけではない。


 そんなことは、前世でも知っていたはずだった。


     ◇


 記憶の中に、ひとつの光景が浮かんだ。


 白い壁。


 蛍光灯の明かり。


 机の上に積まれた書類。


 向かいの席に座る同僚が、困った顔をしていた。


『これ、確認した方がいいと思うんですけど』


 何の書類だったのかは、もう曖昧だ。


 ただ、数字が合っていなかったことは覚えている。


 同僚は何かに気づいていた。


 自分も、気になっていた。


 けれど、締め切りが迫っていた。


 確認を求めれば、仕事が止まる。


 自分たちの勘違いだったら、余計な手間をかけることになる。


『もう少し調べてからにしよう』


 そう答えた。


 その場では、間違った判断だと思わなかった。


 慎重に進めようとしただけだった。


 けれど、結局、確認は間に合わなかった。


 後から修正が必要になり、何人もの予定が狂った。


 取り返しのつかない大事故ではなかった。


 誰かが命を落としたわけでもない。


 それでも、あのとき声を上げていれば、避けられた負担があった。


 後になって、何度も考えた。


 なぜ、あのとき言わなかったのか。


 そして、もっと嫌だったのは――。


 似たようなことを、その後も繰り返したことだった。


 確信がない。


 もう少し待とう。


 自分より詳しい人が判断するだろう。


 その言葉は、いつも正しい理由に聞こえた。


 実際、待つべき場面だってあった。


 けれど、自分は本当に慎重だったのだろうか。


 ただ、間違えた人間になりたくなかっただけではないのか。


「……っ」


 シオンは目を閉じた。


 記憶はそこで途切れた。


 前世の仕事の内容も、同僚の名前も、まだはっきりとは思い出せない。


 それなのに、胸の奥に残った後悔だけは鮮明だった。


 九歳の身体には、少し重すぎる感情だった。


     ◇


「シオン、入ってもいい?」


 扉の向こうから声がした。


「うん、どうぞ」


 入ってきたのはエリシアだった。


 十四歳の姉は、小さな盆に茶器を載せている。


「アルベルト兄さんから聞いたわ。村で具合が悪くなったんですって?」


「少し頭が痛くなっただけだよ」


「それを具合が悪いって言うの」


 エリシアは呆れたように言い、机の端へ盆を置いた。


「母上には?」


「まだ」


「もう」


 叱られるかと思ったが、姉はそれ以上責めなかった。


 代わりに椅子を引き寄せ、シオンの向かいに座る。


「何を調べているの?」


「魔力灯のこと」


「まだ気になってるのね」


「うん」


 エリシアは紙に目を落とした。


「……細い糸?」


「そう見えたんだ」


「石の中に?」


「うん。でも、本当に見えたのかは分からない」


 エリシアはしばらく考えた。


「だったら、分からないって言えばいいんじゃない?」


「え?」


「ダリオさんにも、父上にも。見えたような気がするけど、確信はないって」


「そんな曖昧なことを言っても、困らせるだけじゃないかな」


「困るかどうかは、聞いた人が決めることでしょう?」


 シオンは言葉に詰まった。


 エリシアは茶を注ぎながら続けた。


「もちろん、何でもかんでも人に任せればいいわけじゃないわ。でも、自分で分からないことを、全部自分だけで何とかしようとする必要もないと思う」


「……そうかな」


「少なくとも、九歳の弟が魔力灯の修理まで背負う必要はないわね」


 シオンは思わず笑った。


「修理するつもりはないよ」


「なら、なおさらよ」


 姉は茶杯を差し出した。


「気になることがあるなら、ちゃんと伝えなさい。あとは大人たちにも仕事をさせてあげて」


「アルベルト兄さんみたいなこと言うね」


「あら。褒め言葉として受け取っておくわ」


 エリシアは得意げに微笑んだ。


 シオンは茶を一口飲んだ。


 温かかった。


 その温かさに、なぜか少しだけ泣きたくなった。


 前世の記憶が戻ってから、自分は時々、家族を年下のように感じてしまう。


 けれど、目の前の姉は、自分よりずっと多くのことを知っている。


 この家で暮らしてきた九年間も、姉に教わったことは数え切れない。


 それを、忘れたくなかった。


「エリシア姉さん」


「何?」


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 姉は微笑んだ。


「それから、頭痛のことは母上に伝えるわよ」


「えっ」


「当然でしょう?」


 シオンは反論しかけたが、結局、諦めて頷いた。


     ◇


 翌朝。


 クレイヴェル家の食堂は、いつもより少し騒がしかった。


「だから、僕は寝坊したわけじゃないって!」


 フィリップが声を上げる。


「起きたときには、もう朝食が始まっていたのでしょう?」


 エリシアが冷静に返した。


「それはそうだけど!」


「なら寝坊よ」


「昨日は遅くまで本を読んでたんだよ!」


「それを寝坊の理由と言うのよ」


 アルベルトが横から口を挟む。


「兄さんまで!」


 フィリップは不満そうにパンをかじった。


 ミリアが楽しそうに笑う。


「フィリップ兄さま、また負けた!」


「勝ち負けじゃないよ、ミリア」


「でも、エリシア姉さまの勝ち!」


 食卓に笑い声が広がった。


 シオンもつられて笑った。


 こういう時間が好きだった。


 前世の記憶が戻る前から、ずっと。


 だからこそ、時々怖くなる。


 別の人生の記憶を持つ自分は、いつかこの家族との距離を感じるようになるのではないか。


 何気ない会話を、子どもじみていると思うようになるのではないか。


 そんな未来は嫌だった。


 けれど、今はまだ、笑える。


 フィリップ兄さんの言い訳も、エリシア姉さんの容赦ない指摘も、ミリアの無邪気な声も。


 全部、自分の大切な日常だった。


「シオン」


 父エドガーに呼ばれ、顔を上げる。


「昨日の魔力灯の件だが、ダリオから追加の報告が来た」


「何か分かったの?」


「北の通りの灯りも、古い型の星晶石を使っているそうだ」


「西の通りと同じ?」


「基本的にはな。ただし、屋敷のものとは製造時期が違うらしい」


 シオンは考え込んだ。


 古い設備。


 似たような明滅。


 けれど、原因は分からない。


「ダリオは、どうするって?」


「今週中に古い設備を順番に調べる予定だ。危険が見つかれば使用を止める」


「全部?」


「危険が確認されたものからだ」


 エドガーは静かに答えた。


「領内の魔力灯を一度に交換することはできない。だからこそ、どこを優先すべきか見極めなければならない」


 シオンは頷いた。


 昨日、帳簿で見た数字が頭に浮かぶ。


 橋の修理。


 水路の整備。


 井戸の補修。


 そして、魔力灯。


 どれも必要なものだ。


 けれど、使える金には限りがある。


「父上」


「何だ?」


「……僕、昨日、魔力灯の中に変なものが見えたんだ」


 食卓が少し静かになった。


 シオンは胸の奥で緊張が膨らむのを感じた。


 何を見たのか、まだ説明できない。


 間違っているかもしれない。


 けれど、言わなければ何も始まらない。


「細い糸みたいなものが、何本も重なっていて……そのうちの一本が震えたんだ。二回」


 エドガーは真剣に聞いていた。


「魔力の流れ、なのかなって思った。でも、分からない」


「それを見たとき、何か身体に変化はあったか?」


「頭が痛くなった」


 母マリアがすぐに顔を上げた。


「シオン、それは昨日のこと?」


「……うん」


「どうして言わなかったの?」


「大したことないと思って」


 マリアはため息をついた。


「大したことがあるかどうかは、きちんと確かめないと分からないでしょう?」


「……ごめんなさい」


 母の声は厳しかった。


 けれど、怒っているというより、心配しているのだと分かった。


「今日は無理をしないこと。続くようなら医師に診てもらいましょう」


「うん」


 エドガーはしばらく考えた後、口を開いた。


「シオン。お前が感じたことは、ダリオにも伝えておこう」


「信じてくれるの?」


「信じるかどうかと、事実かどうかは別の話だ」


 父は落ち着いた声で言った。


「お前が何かを感じたことは事実だろう。それが何を意味するのかは、これから調べればいい」


 シオンは父を見つめた。


 昨日、アルベルト兄さんも似たことを言っていた。


 分からないなら、確かめる。


 自分一人で抱え込まない。


 そんな当たり前のことが、どうして前世では難しかったのだろう。


 シオンには、まだ答えが出せなかった。


     ◇


 その日の午後。


 ダリオは村の外れにある水車小屋へ向かっていた。


 北の通りの点検を終えた帰り道だった。


 工具袋を肩にかけ、古い石畳を歩く。


 水車小屋の管理人から、魔力灯の調子が悪いと伝言が届いていた。


「また灯りか……」


 ダリオは小さく呟いた。


 ここ数日、似た報告が続いている。


 古い設備が多い領地だ。


 不具合そのものは珍しくない。


 それでも、短い間にこれだけ重なるのは気になった。


 水車小屋に近づくと、軋むような音が聞こえてきた。


 水車が回っている。


 その音に混じって、時折、金属が擦れるような響きがあった。


「おーい、いるか?」


 ダリオが声をかけると、中から老人が顔を出した。


「おお、ダリオ。ちょうどよかった」


「灯りがおかしいそうですね」


「ああ。昨夜から、妙にちらつくんだ」


「見せてもらいますよ」


 ダリオは小屋の中へ入った。


 壁に取り付けられた魔力灯を見上げる。


 星晶石の表面には、細い亀裂が走っていた。


「……これは」


 ダリオの表情が変わった。


「いつから割れていました?」


「昨日気づいた。もっと前からあったかもしれん」


「点灯は?」


「しているよ。少し明るくなったり暗くなったりするが」


 ダリオは工具袋から測定板を取り出した。


 魔力灯の下にかざす。


 針がゆっくりと動いた。


 基準の範囲内。


 ただし、針先が時折、小刻みに揺れている。


「……妙だな」


「危ないのか?」


「まだ断定できません。ただ、石に亀裂があります。このまま使うのはやめましょう」


 ダリオは灯りの停止操作を行った。


 淡い光が消える。


「交換用の石は?」


「手元にはありません。屋敷の倉庫に予備があったはずですから、確認してきます」


「そうかい。すまんな」


「いえ。こちらこそ、もっと早く見に来られればよかったんですが」


 ダリオは亀裂の位置を帳面に書き込んだ。


 それから、もう一度測定板を見た。


 灯りを止めたはずなのに、針がわずかに震えていた。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


「……?」


 ダリオは眉をひそめた。


 もう一度確かめようとしたが、針は動かなかった。


 測定板の不調だろうか。


 それとも、灯りの中に何か残っているのか。


 判断できない。


 ダリオは帳面に、今の現象も書き加えた。


『停止後、微弱な反応あり。再現せず』


 それから管理人に向き直った。


「この灯りには、私が戻るまで触れないでください」


「分かった」


「水車の軸も音が気になります。そちらは別に確認が必要ですね」


「金がかかる話ばかりだなあ」


 老人は困ったように笑った。


 ダリオも苦笑した。


 しかし、魔力灯を見上げる目は笑っていなかった。


     ◇


 夕暮れ。


 屋敷の庭で、シオンは一人、空を見上げていた。


 遠くの村に、ぽつぽつと灯りがともり始めている。


 いつもと変わらない景色だった。


 けれど、今のシオンには少し違って見えた。


 あの光の一つひとつに、誰かの暮らしがある。


 帰り道を照らす灯り。


 仕事を続けるための灯り。


 家族が食卓を囲むための灯り。


 それが当たり前に使えるように、ダリオのような職人が働いている。


 父や兄たちは、限られた金の使い道を考えている。


 自分は、まだ何もできない。


 九歳の子どもだ。


 前世の記憶があっても、魔力灯を直せるわけではない。


 それでも。


「……言うことくらいは、できる」


 シオンは小さく呟いた。


 前世の自分は、何度も言葉を飲み込んだ。


 間違っていたらどうしよう。


 迷惑になるかもしれない。


 誰かが気づくだろう。


 そう考えているうちに、伝える機会を失った。


 今度は、そうしたくなかった。


 もちろん、何でも思いつくままに言えばいいわけではない。


 分からないことは、分からないと伝える。


 間違っていたら、確かめ直す。


 それだけでいいのかもしれない。


「シオン兄さま!」


 振り向くと、ミリアが庭を駆けてきた。


「見て! お花!」


 小さな手には、白い花が一輪握られていた。


「きれいだね」


「兄さまにあげる!」


「僕に?」


「うん!」


 シオンは花を受け取った。


「ありがとう」


 ミリアは嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見ながら、シオンは思った。


 前世の自分がどういう人間だったとしても。


 今、ここにいる自分は、この子の兄なのだ。


 それだけは、誰にも奪われたくない。


 そして、自分自身も忘れたくない。


 シオンは花を大切に握った。


 夕暮れの空の下で、村の灯りが一つ、また一つと増えていく。


 そのうちのいくつかが、ほんの一瞬だけ揺れたことに。


 このときのシオンは、まだ気づかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。