灯りの向こう側
翌朝、シオン・クレイヴェルは、いつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。
東の空がわずかに白み始め、庭の木々が黒い影となって浮かんでいる。
枕元には、昨夜書いた紙片が置かれていた。
『朝。屋敷の門の魔力灯が二回揺れた』
『少し後。廊下の魔力灯も同じように点滅』
『昼。村の西の通りで、同じ揺れを感じた』
『明日、もう一度ダリオさんに聞く』
シオンは最後の一行を指でなぞった。
昨日の自分が決めたことだ。
たったそれだけのことなのに、少し緊張する。
ダリオは領内の設備を見回る職人で、いつも忙しそうにしている。九歳の子どもが仕事中に何度も話しかけては、迷惑になるかもしれない。
それでも、確かめておきたかった。
魔力灯の中で感じた、あの奇妙な揺らぎ。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
あれは本当に魔力だったのだろうか。
「……よし」
小さく呟いて、シオンは寝台から降りた。
着替えを済ませ、紙片を折り畳んで胸元のポケットにしまう。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「シオン兄さま?」
ミリアの声だった。
「起きてるよ」
扉を開けると、寝間着姿の妹が立っていた。
少し乱れた髪を片手で押さえ、もう片方の手には小さな布人形を抱えている。
「もう起きてたの?」
「うん。ミリアこそ、早いね」
「お庭の鳥さんが、うるさかったの」
ミリアは不満そうに唇を尖らせた。
「それでね、シオン兄さまにお願いがあるの」
「何?」
「髪、結んで」
シオンは目を瞬かせた。
「母さんは?」
「まだお仕事してるの。エリシア姉さまも、アルベルト兄さまとお話ししてる」
「フィリップ兄さんは?」
「寝てる」
「だろうね」
二人は顔を見合わせて笑った。
シオンは妹を部屋に招き入れ、椅子に座らせた。
棚から櫛を取り出し、柔らかな髪を梳いていく。
ミリアの髪を結ぶのは、初めてではない。
けれど、得意でもなかった。
「痛くない?」
「うん」
「引っ張ったら言ってね」
「うん」
しばらくして、ミリアが鏡を覗き込んだ。
右側の髪が少しだけ高く結ばれている。
「……曲がってる」
「ごめん」
「でも、いいよ」
ミリアは振り向いて笑った。
「シオン兄さまが結んでくれたから」
その言葉に、シオンは何も返せなくなった。
胸の奥が、ふっと温かくなる。
前世の記憶が戻ってから、時々考えることがある。
自分は、本当にシオン・クレイヴェルなのだろうか。
九年間の記憶はある。
この家族を大切に思う気持ちも、何ひとつ変わっていない。
それでも、別の人生を知っている自分が、以前と同じ人間なのか分からなくなる瞬間があった。
けれど、ミリアはそんなことを気にしない。
彼女にとって自分は、少し不器用な兄でしかないのだ。
「……ありがとう、ミリア」
「どうして兄さまがお礼を言うの?」
「何となく」
「変なの」
ミリアはくすくす笑った。
シオンも笑った。
その朝、前世の記憶について考える時間は、それきりになった。
◇
朝食の後、シオンは父エドガーに村へ行きたいと申し出た。
「ダリオに会うのか?」
「うん。昨日の魔力灯のこと、もう少し聞きたいんだ」
エドガーは手にしていた書類を置いた。
「何か気になることでもあるのか?」
昨日なら、ここで言葉に詰まっていただろう。
だが、今朝のシオンはポケットから紙片を取り出した。
「これ」
父は紙を受け取り、目を通した。
「……なるほど。複数の場所で似た現象があった、と」
「うん。たぶん、だけど」
「自分で確かめたのか?」
「門と村の灯りは見た。屋敷の廊下も。でも、僕が見間違えたのかもしれない」
エドガーはもう一度紙を読んだ。
「よく書けている」
「本当?」
「ああ。見たことと、まだ分からないことを分けて考えようとしている。それは大事なことだ」
褒められるとは思っていなかった。
シオンは少し照れくさくなった。
「ただし、一人で設備を触ってはいけない」
「分かってる」
「ダリオの仕事の邪魔にもならないようにな」
「うん」
「それと、今日はアルベルトが村へ行く。同行させてもらいなさい」
シオンは頷いた。
父は紙片を返しながら、少しだけ表情を引き締めた。
「何か分かったら、私にも教えてくれ」
「……うん!」
今度は、言えた。
それが嬉しかった。
◇
アルベルト・クレイヴェルは、十七歳にして既に領主の仕事の一部を手伝っている。
父に似た落ち着いた性格で、滅多に声を荒らげない。
ただし、時間には厳しかった。
「シオン、準備はできたか?」
「できたよ、アルベルト兄さん」
「なら出発しよう。午前中に水路を見ておきたい」
「水路?」
「昨日、下流の農家から水の流れが弱いと報告があった。詰まりがないか確かめる」
「兄さんも忙しいね」
「父上ほどではないさ」
アルベルトは笑った。
村へ向かう道すがら、シオンは兄の横顔を見上げた。
「アルベルト兄さん」
「何だ?」
「領主の仕事って、大変?」
「大変だと思う」
「嫌にならない?」
「嫌になる日もあるだろうな」
あまりにあっさり答えるので、シオンは驚いた。
「でも、兄さんはいつも平気そうにしてる」
「平気そうに見えるだけだよ」
アルベルトは足元の小石を避けながら続けた。
「分からないことは多いし、間違えることもある。昨日だって、水路の修理に必要な人数を少なく見積もってしまった」
「そうなの?」
「ああ。だから今日は、現場を見て考え直す」
シオンは黙って聞いていた。
「父上も、私も、何でも知っているわけじゃない。領民の方が詳しいことだってたくさんある。大切なのは、知らないことを知らないままにしないことだと思う」
「……そっか」
「どうした? 難しい話だったか?」
「ううん」
シオンは首を振った。
知らないことを、知らないままにしない。
それは、今の自分に必要な言葉のように思えた。
けれど、知らないことがあると認めるのと、分からないまま何かを決めるのは、きっと別の話なのだろう。
シオンには、その違いがまだよく分からなかった。
◇
村の広場に着くと、ダリオは井戸のそばで工具を整理していた。
「おはようございます、アルベルト様。シオン坊ちゃんも」
「おはよう、ダリオ。昨日の魔力灯について少し聞きたいんだ」
アルベルトが言うと、ダリオは頷いた。
「ええ。ちょうど、追加で確認しようと思っていたところです」
「追加?」
シオンが尋ねる。
「昨夜、北の通りでも灯りがちらついたそうでして」
「北の通りも?」
「ええ。もっとも、あちらも古い設備ですからね」
ダリオは工具袋から一冊の小さな帳面を取り出した。
そこには、日付と設備の番号が並んでいた。
「昨日の西の通り、今朝の北の通り。それから屋敷周辺。今のところ、報告があるのはこの三か所です」
「同じ日に、三か所か」
アルベルトが眉を寄せる。
「ただ、原因が同じとは限りません」
ダリオはすぐに付け加えた。
「どの設備も古くなっています。偶然、似た不具合が続いただけということもありますから」
「確かにそうだな」
アルベルトは頷いた。
シオンは帳面を覗き込んだ。
西の通り。
北の通り。
屋敷周辺。
場所は離れている。
けれど、揺れ方が同じなら――。
「ダリオさん」
「はい?」
「北の通りの灯りも、二回点滅したの?」
ダリオは帳面を見直した。
「そこまでは聞いていませんね。少しちらついた、とだけ」
「そっか……」
「気になりますか?」
「うん。昨日見た灯りは、どれも同じ感じだったから」
ダリオは少し考えた。
「それなら、今度は点滅の回数も聞いておきましょう」
「ありがとう」
「いえいえ。職人の仕事というのは、案外こういう細かい話が大事なんですよ」
ダリオは笑った。
その横で、アルベルトが腕を組んだ。
「ダリオ。点検の結果、危険があると分かったら、すぐに父上へ報告してくれ」
「もちろんです」
「交換が必要なら、費用も出してほしい」
「承知しました」
シオンは兄を見上げた。
アルベルトは、設備の仕組みを詳しく知っているわけではない。
それでも、何を確認すべきか考え、必要なことを職人に頼んでいる。
自分とは違う。
けれど、それが少し羨ましかった。
◇
水路の点検を終えた頃には、昼を過ぎていた。
アルベルトは農家の男たちと修理の日程について話し合っている。
シオンは少し離れた木陰に座り、持ってきた紙片を広げていた。
ダリオから聞いた内容を書き足す。
『北の通りでも明滅の報告あり。回数は不明』
書き終えたところで、ふと顔を上げた。
広場の向こうに、古い魔力灯が立っている。
昼間なので、ほとんど光っていない。
けれど、昨日から何度も見ているせいか、どうしても気になってしまう。
シオンは立ち上がり、灯りの方へ歩いた。
触るつもりはなかった。
ただ、近くで見たかっただけだ。
金属の枠には細かな傷があり、星晶石の表面にも曇りが見える。
長い間、使われてきたのだろう。
「……古いな」
小さく呟いた。
その瞬間。
石の奥で、何かが動いた。
シオンは息を止めた。
見える。
昨日よりも、はっきりと。
細い糸のようなものが、石の内部を通っている。
それは一本ではなかった。
幾重にも重なり、複雑に絡み合っている。
そして、そのうちの一本が――。
震えた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
「……っ」
シオンは思わず目を閉じた。
こめかみの奥に、鈍い痛みが走る。
何かを見ようとしすぎたときのような、ひどい疲労感。
慌てて灯りから視線を外す。
「……何だよ、今の」
心臓が早鐘を打っていた。
今のは、ただの光ではない。
魔力の流れ。
あるいは、術式の一部。
名前は分からない。
けれど、確かに何かを感じた。
シオンはもう一度、魔力灯を見上げた。
今度は何も見えない。
ただ、頭の奥に重たい感覚だけが残っている。
「シオン!」
アルベルトの声がした。
振り向くと、兄がこちらへ歩いてくる。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「……ちょっと、目が疲れたみたい」
「目?」
「うん。灯りを見てたら、変な感じがして」
アルベルトは魔力灯を見上げた。
「昨日話していたことか?」
「たぶん」
「何か分かったのか?」
シオンは迷った。
どう説明すればいいのか、分からない。
細い糸が見えた。
魔力が震えた。
そんなことを言って、信じてもらえるだろうか。
それでも。
「……魔力の流れみたいなものが、見えた気がする」
言ってしまった。
アルベルトは驚いたように目を見開いた。
けれど、笑わなかった。
「そうか」
ただ、それだけを言った。
「信じるの?」
「お前が嘘をつく理由はないだろう」
「でも、見間違いかもしれないよ」
「その可能性もあるな」
アルベルトは落ち着いた声で答えた。
「だから、確かめればいい。ただし、無理はするな」
兄はシオンの肩に手を置いた。
「今は休もう。顔色が戻るまで、ここで座っていなさい」
「……うん」
シオンは素直に頷いた。
木陰へ戻ると、アルベルトが水筒を差し出してくれた。
水を飲みながら、シオンは考える。
前世の記憶が戻ったことと、今の現象は関係があるのだろうか。
分からない。
そもそも、自分に特別な力があると決まったわけでもない。
ただ、もし本当に魔力の流れを感じ取れるのなら。
この奇妙な明滅の原因を、少しは調べられるかもしれない。
シオンは膝の上の紙片を見つめた。
まだ、何も分からない。
けれど、昨日よりは一つだけ分かったことがある。
魔力灯の中には、何かが流れている。
そして、その流れが、ときどき不自然に震えている。
それだけだった。
◇
同じ頃。
村の外れにある古い水車小屋では、管理人の老人が首を傾げていた。
「……おかしいな」
壁に取り付けられた魔力灯が、昼間だというのに弱く光っている。
昨夜から、どうにも調子が悪い。
老人は木箱を引き寄せ、その上に乗った。
灯りを近くで見る。
星晶石の表面には、細い亀裂が走っていた。
「こりゃ、替え時か」
老人はため息をついた。
交換を頼めば金がかかる。
このところ水車の軸も軋んでいるし、修理したい場所はいくらでもあった。
「明日にでも、ダリオに見てもらうかね」
そう呟いて、箱から降りようとした。
そのとき。
カチリ。
小さな音がした。
老人は振り向いた。
魔力灯の光が、わずかに強くなる。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
そして、亀裂の奥で淡い光が脈打った。
「……何だ?」
老人は顔を近づけた。
だが、次の瞬間には光は元に戻っていた。
気のせいか。
そう思い、老人は首を振る。
水車は今日も回っている。
仕事を止めるわけにはいかない。
老人は魔力灯から離れ、再び作業に戻った。
その背後で誰にも気づかれないまま、星晶石の亀裂が、ほんのわずかに広がった。




