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群星のヴェルシェリア  作者: セイ
第一部 目覚めの灯火

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3/115

灯りの向こう側

 翌朝、シオン・クレイヴェルは、いつもより早く目を覚ました。


 窓の外はまだ薄暗い。


 東の空がわずかに白み始め、庭の木々が黒い影となって浮かんでいる。


 枕元には、昨夜書いた紙片が置かれていた。


『朝。屋敷の門の魔力灯が二回揺れた』


『少し後。廊下の魔力灯も同じように点滅』


『昼。村の西の通りで、同じ揺れを感じた』


『明日、もう一度ダリオさんに聞く』


 シオンは最後の一行を指でなぞった。


 昨日の自分が決めたことだ。


 たったそれだけのことなのに、少し緊張する。


 ダリオは領内の設備を見回る職人で、いつも忙しそうにしている。九歳の子どもが仕事中に何度も話しかけては、迷惑になるかもしれない。


 それでも、確かめておきたかった。


 魔力灯の中で感じた、あの奇妙な揺らぎ。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


 あれは本当に魔力だったのだろうか。


「……よし」


 小さく呟いて、シオンは寝台から降りた。


 着替えを済ませ、紙片を折り畳んで胸元のポケットにしまう。


 そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「シオン兄さま?」


 ミリアの声だった。


「起きてるよ」


 扉を開けると、寝間着姿の妹が立っていた。


 少し乱れた髪を片手で押さえ、もう片方の手には小さな布人形を抱えている。


「もう起きてたの?」


「うん。ミリアこそ、早いね」


「お庭の鳥さんが、うるさかったの」


 ミリアは不満そうに唇を尖らせた。


「それでね、シオン兄さまにお願いがあるの」


「何?」


「髪、結んで」


 シオンは目を瞬かせた。


「母さんは?」


「まだお仕事してるの。エリシア姉さまも、アルベルト兄さまとお話ししてる」


「フィリップ兄さんは?」


「寝てる」


「だろうね」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 シオンは妹を部屋に招き入れ、椅子に座らせた。


 棚から櫛を取り出し、柔らかな髪を梳いていく。


 ミリアの髪を結ぶのは、初めてではない。


 けれど、得意でもなかった。


「痛くない?」


「うん」


「引っ張ったら言ってね」


「うん」


 しばらくして、ミリアが鏡を覗き込んだ。


 右側の髪が少しだけ高く結ばれている。


「……曲がってる」


「ごめん」


「でも、いいよ」


 ミリアは振り向いて笑った。


「シオン兄さまが結んでくれたから」


 その言葉に、シオンは何も返せなくなった。


 胸の奥が、ふっと温かくなる。


 前世の記憶が戻ってから、時々考えることがある。


 自分は、本当にシオン・クレイヴェルなのだろうか。


 九年間の記憶はある。


 この家族を大切に思う気持ちも、何ひとつ変わっていない。


 それでも、別の人生を知っている自分が、以前と同じ人間なのか分からなくなる瞬間があった。


 けれど、ミリアはそんなことを気にしない。


 彼女にとって自分は、少し不器用な兄でしかないのだ。


「……ありがとう、ミリア」


「どうして兄さまがお礼を言うの?」


「何となく」


「変なの」


 ミリアはくすくす笑った。


 シオンも笑った。


 その朝、前世の記憶について考える時間は、それきりになった。


     ◇


 朝食の後、シオンは父エドガーに村へ行きたいと申し出た。


「ダリオに会うのか?」


「うん。昨日の魔力灯のこと、もう少し聞きたいんだ」


 エドガーは手にしていた書類を置いた。


「何か気になることでもあるのか?」


 昨日なら、ここで言葉に詰まっていただろう。


 だが、今朝のシオンはポケットから紙片を取り出した。


「これ」


 父は紙を受け取り、目を通した。


「……なるほど。複数の場所で似た現象があった、と」


「うん。たぶん、だけど」


「自分で確かめたのか?」


「門と村の灯りは見た。屋敷の廊下も。でも、僕が見間違えたのかもしれない」


 エドガーはもう一度紙を読んだ。


「よく書けている」


「本当?」


「ああ。見たことと、まだ分からないことを分けて考えようとしている。それは大事なことだ」


 褒められるとは思っていなかった。


 シオンは少し照れくさくなった。


「ただし、一人で設備を触ってはいけない」


「分かってる」


「ダリオの仕事の邪魔にもならないようにな」


「うん」


「それと、今日はアルベルトが村へ行く。同行させてもらいなさい」


 シオンは頷いた。


 父は紙片を返しながら、少しだけ表情を引き締めた。


「何か分かったら、私にも教えてくれ」


「……うん!」


 今度は、言えた。


 それが嬉しかった。


     ◇


 アルベルト・クレイヴェルは、十七歳にして既に領主の仕事の一部を手伝っている。


 父に似た落ち着いた性格で、滅多に声を荒らげない。


 ただし、時間には厳しかった。


「シオン、準備はできたか?」


「できたよ、アルベルト兄さん」


「なら出発しよう。午前中に水路を見ておきたい」


「水路?」


「昨日、下流の農家から水の流れが弱いと報告があった。詰まりがないか確かめる」


「兄さんも忙しいね」


「父上ほどではないさ」


 アルベルトは笑った。


 村へ向かう道すがら、シオンは兄の横顔を見上げた。


「アルベルト兄さん」


「何だ?」


「領主の仕事って、大変?」


「大変だと思う」


「嫌にならない?」


「嫌になる日もあるだろうな」


 あまりにあっさり答えるので、シオンは驚いた。


「でも、兄さんはいつも平気そうにしてる」


「平気そうに見えるだけだよ」


 アルベルトは足元の小石を避けながら続けた。


「分からないことは多いし、間違えることもある。昨日だって、水路の修理に必要な人数を少なく見積もってしまった」


「そうなの?」


「ああ。だから今日は、現場を見て考え直す」


 シオンは黙って聞いていた。


「父上も、私も、何でも知っているわけじゃない。領民の方が詳しいことだってたくさんある。大切なのは、知らないことを知らないままにしないことだと思う」


「……そっか」


「どうした? 難しい話だったか?」


「ううん」


 シオンは首を振った。


 知らないことを、知らないままにしない。


 それは、今の自分に必要な言葉のように思えた。


 けれど、知らないことがあると認めるのと、分からないまま何かを決めるのは、きっと別の話なのだろう。


 シオンには、その違いがまだよく分からなかった。


     ◇


 村の広場に着くと、ダリオは井戸のそばで工具を整理していた。


「おはようございます、アルベルト様。シオン坊ちゃんも」


「おはよう、ダリオ。昨日の魔力灯について少し聞きたいんだ」


 アルベルトが言うと、ダリオは頷いた。


「ええ。ちょうど、追加で確認しようと思っていたところです」


「追加?」


 シオンが尋ねる。


「昨夜、北の通りでも灯りがちらついたそうでして」


「北の通りも?」


「ええ。もっとも、あちらも古い設備ですからね」


 ダリオは工具袋から一冊の小さな帳面を取り出した。


 そこには、日付と設備の番号が並んでいた。


「昨日の西の通り、今朝の北の通り。それから屋敷周辺。今のところ、報告があるのはこの三か所です」


「同じ日に、三か所か」


 アルベルトが眉を寄せる。


「ただ、原因が同じとは限りません」


 ダリオはすぐに付け加えた。


「どの設備も古くなっています。偶然、似た不具合が続いただけということもありますから」


「確かにそうだな」


 アルベルトは頷いた。


 シオンは帳面を覗き込んだ。


 西の通り。


 北の通り。


 屋敷周辺。


 場所は離れている。


 けれど、揺れ方が同じなら――。


「ダリオさん」


「はい?」


「北の通りの灯りも、二回点滅したの?」


 ダリオは帳面を見直した。


「そこまでは聞いていませんね。少しちらついた、とだけ」


「そっか……」


「気になりますか?」


「うん。昨日見た灯りは、どれも同じ感じだったから」


 ダリオは少し考えた。


「それなら、今度は点滅の回数も聞いておきましょう」


「ありがとう」


「いえいえ。職人の仕事というのは、案外こういう細かい話が大事なんですよ」


 ダリオは笑った。


 その横で、アルベルトが腕を組んだ。


「ダリオ。点検の結果、危険があると分かったら、すぐに父上へ報告してくれ」


「もちろんです」


「交換が必要なら、費用も出してほしい」


「承知しました」


 シオンは兄を見上げた。


 アルベルトは、設備の仕組みを詳しく知っているわけではない。


 それでも、何を確認すべきか考え、必要なことを職人に頼んでいる。


 自分とは違う。


 けれど、それが少し羨ましかった。


     ◇


 水路の点検を終えた頃には、昼を過ぎていた。


 アルベルトは農家の男たちと修理の日程について話し合っている。


 シオンは少し離れた木陰に座り、持ってきた紙片を広げていた。


 ダリオから聞いた内容を書き足す。


『北の通りでも明滅の報告あり。回数は不明』


 書き終えたところで、ふと顔を上げた。


 広場の向こうに、古い魔力灯が立っている。


 昼間なので、ほとんど光っていない。


 けれど、昨日から何度も見ているせいか、どうしても気になってしまう。


 シオンは立ち上がり、灯りの方へ歩いた。


 触るつもりはなかった。


 ただ、近くで見たかっただけだ。


 金属の枠には細かな傷があり、星晶石の表面にも曇りが見える。


 長い間、使われてきたのだろう。


「……古いな」


 小さく呟いた。


 その瞬間。


 石の奥で、何かが動いた。


 シオンは息を止めた。


 見える。


 昨日よりも、はっきりと。


 細い糸のようなものが、石の内部を通っている。


 それは一本ではなかった。


 幾重にも重なり、複雑に絡み合っている。


 そして、そのうちの一本が――。


 震えた。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


「……っ」


 シオンは思わず目を閉じた。


 こめかみの奥に、鈍い痛みが走る。


 何かを見ようとしすぎたときのような、ひどい疲労感。


 慌てて灯りから視線を外す。


「……何だよ、今の」


 心臓が早鐘を打っていた。


 今のは、ただの光ではない。


 魔力の流れ。


 あるいは、術式の一部。


 名前は分からない。


 けれど、確かに何かを感じた。


 シオンはもう一度、魔力灯を見上げた。


 今度は何も見えない。


 ただ、頭の奥に重たい感覚だけが残っている。


「シオン!」


 アルベルトの声がした。


 振り向くと、兄がこちらへ歩いてくる。


「どうした? 顔色が悪いぞ」


「……ちょっと、目が疲れたみたい」


「目?」


「うん。灯りを見てたら、変な感じがして」


 アルベルトは魔力灯を見上げた。


「昨日話していたことか?」


「たぶん」


「何か分かったのか?」


 シオンは迷った。


 どう説明すればいいのか、分からない。


 細い糸が見えた。


 魔力が震えた。


 そんなことを言って、信じてもらえるだろうか。


 それでも。


「……魔力の流れみたいなものが、見えた気がする」


 言ってしまった。


 アルベルトは驚いたように目を見開いた。


 けれど、笑わなかった。


「そうか」


 ただ、それだけを言った。


「信じるの?」


「お前が嘘をつく理由はないだろう」


「でも、見間違いかもしれないよ」


「その可能性もあるな」


 アルベルトは落ち着いた声で答えた。


「だから、確かめればいい。ただし、無理はするな」


 兄はシオンの肩に手を置いた。


「今は休もう。顔色が戻るまで、ここで座っていなさい」


「……うん」


 シオンは素直に頷いた。


 木陰へ戻ると、アルベルトが水筒を差し出してくれた。


 水を飲みながら、シオンは考える。


 前世の記憶が戻ったことと、今の現象は関係があるのだろうか。


 分からない。


 そもそも、自分に特別な力があると決まったわけでもない。


 ただ、もし本当に魔力の流れを感じ取れるのなら。


 この奇妙な明滅の原因を、少しは調べられるかもしれない。


 シオンは膝の上の紙片を見つめた。


 まだ、何も分からない。


 けれど、昨日よりは一つだけ分かったことがある。


 魔力灯の中には、何かが流れている。


 そして、その流れが、ときどき不自然に震えている。


 それだけだった。


     ◇


 同じ頃。


 村の外れにある古い水車小屋では、管理人の老人が首を傾げていた。


「……おかしいな」


 壁に取り付けられた魔力灯が、昼間だというのに弱く光っている。


 昨夜から、どうにも調子が悪い。


 老人は木箱を引き寄せ、その上に乗った。


 灯りを近くで見る。


 星晶石の表面には、細い亀裂が走っていた。


「こりゃ、替え時か」


 老人はため息をついた。


 交換を頼めば金がかかる。


 このところ水車の軸も軋んでいるし、修理したい場所はいくらでもあった。


「明日にでも、ダリオに見てもらうかね」


 そう呟いて、箱から降りようとした。


 そのとき。


 カチリ。


 小さな音がした。


 老人は振り向いた。


 魔力灯の光が、わずかに強くなる。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


 そして、亀裂の奥で淡い光が脈打った。


「……何だ?」


 老人は顔を近づけた。


 だが、次の瞬間には光は元に戻っていた。


 気のせいか。


 そう思い、老人は首を振る。


 水車は今日も回っている。


 仕事を止めるわけにはいかない。


 老人は魔力灯から離れ、再び作業に戻った。


 その背後で誰にも気づかれないまま、星晶石の亀裂が、ほんのわずかに広がった。

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