貧乏男爵家の朝
クレイヴェル家の財政は、決して豊かではない。
それは九歳のシオンにも分かることだった。
屋敷の廊下には雨漏りの跡があり、食堂の椅子は一脚だけ脚の長さが違う。冬になれば暖炉にくべる薪の量を気にしなければならないし、夕食に肉が出る日は少しばかり特別だった。
もっとも、領主の一家が飢えているわけではない。
食べるものはある。着るものもある。寒さをしのぐ家もある。
ただ、それらを当たり前に維持することが、思いのほか難しいのだ。
「父上、また帳簿ですか?」
朝食からしばらくして、シオンは父エドガーの執務室を覗いていた。
開け放たれた扉の向こうで、父が机に向かっている。
机には分厚い帳簿と、何枚もの紙が広げられていた。
「また、とは何だ。また、とは」
エドガーは顔を上げずに答えた。
「昨日も一昨日も、同じ顔をしていたから」
「どんな顔だ?」
「難しい顔」
「領主というのは難しい顔をする仕事でもあるんだ」
「そうなの?」
「少なくとも、この領地ではな」
父はようやく顔を上げ、苦笑した。
シオンは扉の脇に立ったまま、机の上へ目を向ける。
数字が並んでいた。
収穫量。税収。街道の補修費。共同井戸の維持費。
そして、その下に書かれた項目が目に留まった。
――魔力灯設備維持費。
「魔力灯って、お金がかかるの?」
「かかるとも」
エドガーは椅子の背にもたれた。
「灯りをつけるには星晶石が必要だ。石そのものも安くはないし、術式を点検できる職人の手間賃もいる。壊れた部品を取り替えるにも金がかかる」
「でも、村の灯りが消えたら困るよね」
「もちろんだ。夜道で怪我をする者が出るかもしれん。仕事を終えて帰る者もいる。診療所の前の灯りなど、特に消すわけにはいかん」
父は机の上の紙を一枚持ち上げた。
「問題は、直したいものが一つではないことだ」
紙にはいくつもの項目が書かれていた。
橋の補修。水路の土砂除去。倉庫の屋根の修理。
どれも、シオンが普段目にしているものだった。
「全部直せないの?」
「直したい。だが、金にも人手にも限りがある」
「じゃあ、どうするの?」
「順番を決める」
エドガーは静かに答えた。
「どれを先に直すか。どれなら少し待てるか。何を我慢して、何を守るか。それを決めるのが、領主の仕事の一つだ」
シオンは黙って紙を見つめた。
――予算。
不意に、別の人生の言葉が浮かんだ。
限られた金を、どこに使うか。
必要だと分かっていても、すべての希望が通るわけではない。
そんな話を、自分もどこかで聞いたことがある。
いや、聞いただけではない。
誰かに説明するため、資料を作ったことがあったような――。
「シオン?」
「あ、うん」
気がつくと、父がこちらを見ていた。
「どうした。難しかったか?」
「……少し」
「それでいい。九歳で領地の帳簿がすべて分かるなら、私の立場がない」
エドガーは笑った。
シオンもつられて笑う。
けれど、机の上の魔力灯設備維持費という文字が、妙に気にかかった。
昨日、ダリオが話していた。
村の魔力灯の調子が悪い、と。
そして今朝、自分は奇妙な揺らぎを見た。
「父上」
「何だ?」
「魔力灯が変になったら、すぐ直せるの?」
「程度によるな。石を替えれば済むものもあれば、術式を刻み直さねばならないものもある」
「たくさん壊れたら?」
「……困るな」
父はあっさり認めた。
「だが、何かあったのか?」
シオンは口を開いた。
門柱の魔力灯が揺れたこと。
屋敷の廊下の灯りも、同じ間隔で明滅したこと。
話すなら、今だ。
けれど。
――何を見たのか、自分でも説明できない。
魔力が揺れた気がしただけだ。
そんな曖昧な話で、忙しい父の手を止めていいのだろうか。
「……ダリオさんが、村の灯りを見に行くって言ってた」
「ああ。その報告なら受けている。西の通りの灯りだな」
「うん」
「心配するな。まずはダリオに確認させる」
エドガーは帳簿へ視線を戻した。
話は終わった。
シオンはその場を離れようとして、もう一度だけ振り返った。
「父上」
「ん?」
「……何でもない」
言えなかった。
父は責めなかった。
それがかえって、胸の奥に小さな棘を残した。
◇
昼前、シオンは次兄フィリップに連れられて村へ出た。
「今日は市場を見に行くんだ」
フィリップは機嫌よく言った。
「市場なら、この前も行ったよ」
「見るだけならな。今日は値段を調べる」
「値段?」
「小麦と塩と油。それから、余裕があれば干し肉」
「買うの?」
「買わない。値段を覚えるんだ」
フィリップは得意げに胸を張った。
「同じ品物でも、店によって値段が違う。時期によっても変わる。それを知っていれば、買うときに損をしにくいだろ?」
「フィリップ兄さんは商人になりたいの?」
「領地を豊かにしたいんだよ」
その答えは、思いのほか真面目だった。
「父上は領地を守ってる。アルベルト兄さんは、いずれその仕事を継ぐ。エリシア姉さんは人をまとめるのが上手い。だったら、僕は金の流れを考えたっていいだろ?」
「……うん」
「それに、金があれば直せるものも増える」
フィリップは道の先を指差した。
村へ続く石畳の道には、ところどころひびが入っていた。
荷車が通るたびに、車輪が大きく跳ねる。
「道が悪ければ、荷物を運ぶのに時間がかかる。時間がかかれば、運べる量が減る。そうすると、商売もしにくくなる」
「道を直すには、お金がいる」
「そう。だから、金を増やす方法を考える」
フィリップはにやりと笑った。
「どうだ、立派だろう?」
「最後に自分で言わなければね」
「シオンまでエリシア姉さんみたいなことを言うなよ」
二人は笑いながら坂を下った。
村は小さい。
広場を中心に、商店や工房、民家が並んでいる。
遠くから鍛冶屋の槌音が聞こえ、パン屋の前には焼きたての香りが漂っていた。
道を歩けば、誰かしらが声をかけてくる。
「フィリップ坊ちゃん、また値段を聞きに来たのかい?」
「今日は買ってくれるんでしょうね?」
「いつか大口の客になるから、今のうちに親切にしておいた方がいいよ!」
「その『いつか』は何年先だい!」
店主たちの笑い声が広がる。
シオンはその様子を眺めながら、少し安心していた。
この村は、いつもどおりだ。
朝から頭の中が落ち着かなかったけれど、ここに来ると自分がこの場所で育ったのだと実感できる。
店の並びも、石畳の傷も、パン屋のおばさんの大きな声も、全部知っている。
前世の記憶があっても、この九年間が消えるわけではない。
それは、少し嬉しかった。
「おい、シオン」
フィリップが足を止めた。
「何?」
「あれ、見てみろ」
指差した先には、道端の魔力灯があった。
金属の枠に収められた星晶石。
その下で、ダリオが脚立に上って作業をしている。
「ダリオさん!」
シオンが呼ぶと、男は顔を上げた。
「おや、坊ちゃん方。買い物ですか?」
「値段の調査!」
フィリップが答える。
「そいつは熱心なことで」
ダリオは工具を持ち替えた。
「魔力灯、壊れてるの?」
シオンが尋ねる。
「壊れているというほどじゃありません。少し光が弱くなることがあるそうで」
「原因は?」
「石の消耗か、接続部の緩みでしょうな。古いものですから」
ダリオは星晶石を指で軽く叩いた。
「今のところ、危ない状態ではありませんよ」
シオンは灯りを見つめた。
朝、門柱で見た揺らぎを思い出す。
あのときは、何かが流れているように感じた。
もう一度、見えるだろうか。
目を凝らす。
何も起きない。
ただの透明な石だ。
――やっぱり、気のせいだったのかな。
そう思った瞬間。
石の奥で、細い波が走った。
「……っ」
シオンは息を呑んだ。
見えた。
いや、見えたというより、感じた。
光とは違う何かが、石の内部を通り抜けていく。
まるで、目には見えない糸が震えたようだった。
一度。
そして、少し間を置いて、もう一度。
朝と同じだった。
「ダリオさん!」
「はい?」
「今、変な感じがしなかった?」
「変な感じ?」
「魔力が……揺れたみたいな」
ダリオは不思議そうな顔をした。
「坊ちゃん、魔力の流れが分かるんですか?」
「……分からない、と思う」
「そうですか」
ダリオは笑った。
「まあ、古い灯りですからね。多少は不安定になることもあります」
「でも、朝も同じことがあって」
「朝も?」
「屋敷の灯りが、一瞬だけ点滅したんだ」
ダリオの手が止まった。
「屋敷の?」
「うん。門の灯りも」
「……なるほど」
男は少し考え込んだ。
やがて、工具袋から小さな金属板を取り出した。
板の表面には細い溝が刻まれている。
「少し確認してみましょう」
ダリオは金属板を魔力灯の枠に当てた。
板の溝が淡く光る。
「どう?」
「今のところ、供給量は基準の範囲内です。接続にも大きな問題はありません」
ダリオは金属板を外した。
「ただ、屋敷の方でも同じようなことがあったなら、念のため記録しておきます」
「記録?」
「いつ、どこで、何が起きたか。後で同じことがあれば比べられますから」
シオンは目を瞬かせた。
記録。
それは、なぜかひどく馴染みのある言葉だった。
分からないことがあれば、まず記録する。
原因が分からなくても、事実を残す。
――そうだ。
前の人生でも、似たようなことをしていた。
何かが起きたとき、後から確かめられるように。
「僕も、覚えておく」
「それは助かります」
ダリオは笑った。
「ただし、危ないと思ったら近づかないでくださいよ。魔力灯は便利ですが、扱いを間違えると火傷することもありますから」
「うん」
シオンは頷いた。
今度は、何でもないと言わずに済んだ。
それだけで、胸の奥の棘が少し小さくなった気がした。
◇
夕方。
執務室に戻ったエドガーのもとへ、ダリオから簡単な報告が届いた。
西の通りの魔力灯は、目立った異常なし。
星晶石の消耗は進んでいるが、直ちに交換が必要な状態ではない。
接続部を清掃し、術式の反応も確認した。
ただし、屋敷周辺でも類似の明滅があったとの話があり、経過観察とする。
「屋敷周辺、か」
エドガーは報告書を読み返した。
設備の老朽化は、以前から問題になっていた。
魔力灯を一斉に交換できればいい。
だが、それには相当な費用がかかる。
今年は橋の補修も控えている。
共同井戸の部品も、そろそろ取り替えなければならない。
どれも後回しにはしにくい。
「……ダリオが見たなら、ひとまずは大丈夫だろう」
エドガーは報告書を机に置いた。
判断として、特別おかしなものではなかった。
専門の職人が点検し、数値に大きな異常はなかったのだ。
それでも、報告書の端に記された一文が気にかかった。
――同様の明滅、複数箇所で発生の可能性あり。
エドガーはしばらくその文字を見つめていた。
やがて、帳簿を開く。
そこには、魔力灯の交換費用として見積もられた金額が記されていた。
決して小さくない数字だった。
◇
その夜、シオンは自分の部屋で、小さな紙片に文字を書いていた。
『朝。屋敷の門の魔力灯が二回揺れた』
『少し後。廊下の魔力灯も同じように点滅』
『昼。村の西の通りで、同じ揺れを感じた』
書き終えて、筆を置く。
こうして並べてみると、不思議だった。
場所は違う。
時間も違う。
けれど、揺れ方は似ている。
何か共通する原因があるのだろうか。
シオンは紙を見つめた。
もし、全部つながっていたら?
そう考えた瞬間、胸が高鳴った。
だが、すぐに首を振る。
まだ何も分からない。
たまたま似た不具合が起きただけかもしれない。
そもそも、自分が感じたものが本当に魔力なのかさえ、確かではないのだ。
「……もっと確かめないと」
小さく呟いた。
前世でも、そんな言葉を何度も使った気がする。
もっと確かめてから。
もう少し準備してから。
今は、まだ。
シオンは筆を握り直した。
あの記憶の中の男は、いつも何かを先延ばしにしていた。
けれど、今の自分まで同じである必要はない。
そう思いたかった。
紙の下に、もう一行を書き足す。
『明日、もう一度ダリオさんに聞く』
たったそれだけのことだった。
それでも、書き終えたシオンは少しだけ満足した。
窓の外では、村の魔力灯がひとつ、またひとつと夜道を照らし始めている。
柔らかな光が、暗くなった畑の向こうに並んでいた。
いつもと変わらない夜。
シオンはその光を眺めながら、そっと窓を閉めた。
その頃、村の外れにある古い水車小屋では、一基の魔力灯が静かに明滅していた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
そして、誰も見ていないところで、星晶石の表面に細い亀裂が走った。




