↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
群星のヴェルシェリア  作者: セイ
第一部 目覚めの灯火

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/117

貧乏男爵家の朝

 クレイヴェル家の財政は、決して豊かではない。


 それは九歳のシオンにも分かることだった。


 屋敷の廊下には雨漏りの跡があり、食堂の椅子は一脚だけ脚の長さが違う。冬になれば暖炉にくべる薪の量を気にしなければならないし、夕食に肉が出る日は少しばかり特別だった。


 もっとも、領主の一家が飢えているわけではない。


 食べるものはある。着るものもある。寒さをしのぐ家もある。


 ただ、それらを当たり前に維持することが、思いのほか難しいのだ。


「父上、また帳簿ですか?」


 朝食からしばらくして、シオンは父エドガーの執務室を覗いていた。


 開け放たれた扉の向こうで、父が机に向かっている。


 机には分厚い帳簿と、何枚もの紙が広げられていた。


「また、とは何だ。また、とは」


 エドガーは顔を上げずに答えた。


「昨日も一昨日も、同じ顔をしていたから」


「どんな顔だ?」


「難しい顔」


「領主というのは難しい顔をする仕事でもあるんだ」


「そうなの?」


「少なくとも、この領地ではな」


 父はようやく顔を上げ、苦笑した。


 シオンは扉の脇に立ったまま、机の上へ目を向ける。


 数字が並んでいた。


 収穫量。税収。街道の補修費。共同井戸の維持費。


 そして、その下に書かれた項目が目に留まった。


 ――魔力灯設備維持費。


「魔力灯って、お金がかかるの?」


「かかるとも」


 エドガーは椅子の背にもたれた。


「灯りをつけるには星晶石が必要だ。石そのものも安くはないし、術式を点検できる職人の手間賃もいる。壊れた部品を取り替えるにも金がかかる」


「でも、村の灯りが消えたら困るよね」


「もちろんだ。夜道で怪我をする者が出るかもしれん。仕事を終えて帰る者もいる。診療所の前の灯りなど、特に消すわけにはいかん」


 父は机の上の紙を一枚持ち上げた。


「問題は、直したいものが一つではないことだ」


 紙にはいくつもの項目が書かれていた。


 橋の補修。水路の土砂除去。倉庫の屋根の修理。


 どれも、シオンが普段目にしているものだった。


「全部直せないの?」


「直したい。だが、金にも人手にも限りがある」


「じゃあ、どうするの?」


「順番を決める」


 エドガーは静かに答えた。


「どれを先に直すか。どれなら少し待てるか。何を我慢して、何を守るか。それを決めるのが、領主の仕事の一つだ」


 シオンは黙って紙を見つめた。


 ――予算。


 不意に、別の人生の言葉が浮かんだ。


 限られた金を、どこに使うか。


 必要だと分かっていても、すべての希望が通るわけではない。


 そんな話を、自分もどこかで聞いたことがある。


 いや、聞いただけではない。


 誰かに説明するため、資料を作ったことがあったような――。


「シオン?」


「あ、うん」


 気がつくと、父がこちらを見ていた。


「どうした。難しかったか?」


「……少し」


「それでいい。九歳で領地の帳簿がすべて分かるなら、私の立場がない」


 エドガーは笑った。


 シオンもつられて笑う。


 けれど、机の上の魔力灯設備維持費という文字が、妙に気にかかった。


 昨日、ダリオが話していた。


 村の魔力灯の調子が悪い、と。


 そして今朝、自分は奇妙な揺らぎを見た。


「父上」


「何だ?」


「魔力灯が変になったら、すぐ直せるの?」


「程度によるな。石を替えれば済むものもあれば、術式を刻み直さねばならないものもある」


「たくさん壊れたら?」


「……困るな」


 父はあっさり認めた。


「だが、何かあったのか?」


 シオンは口を開いた。


 門柱の魔力灯が揺れたこと。


 屋敷の廊下の灯りも、同じ間隔で明滅したこと。


 話すなら、今だ。


 けれど。


 ――何を見たのか、自分でも説明できない。


 魔力が揺れた気がしただけだ。


 そんな曖昧な話で、忙しい父の手を止めていいのだろうか。


「……ダリオさんが、村の灯りを見に行くって言ってた」


「ああ。その報告なら受けている。西の通りの灯りだな」


「うん」


「心配するな。まずはダリオに確認させる」


 エドガーは帳簿へ視線を戻した。


 話は終わった。


 シオンはその場を離れようとして、もう一度だけ振り返った。


「父上」


「ん?」


「……何でもない」


 言えなかった。


 父は責めなかった。


 それがかえって、胸の奥に小さな棘を残した。


     ◇


 昼前、シオンは次兄フィリップに連れられて村へ出た。


「今日は市場を見に行くんだ」


 フィリップは機嫌よく言った。


「市場なら、この前も行ったよ」


「見るだけならな。今日は値段を調べる」


「値段?」


「小麦と塩と油。それから、余裕があれば干し肉」


「買うの?」


「買わない。値段を覚えるんだ」


 フィリップは得意げに胸を張った。


「同じ品物でも、店によって値段が違う。時期によっても変わる。それを知っていれば、買うときに損をしにくいだろ?」


「フィリップ兄さんは商人になりたいの?」


「領地を豊かにしたいんだよ」


 その答えは、思いのほか真面目だった。


「父上は領地を守ってる。アルベルト兄さんは、いずれその仕事を継ぐ。エリシア姉さんは人をまとめるのが上手い。だったら、僕は金の流れを考えたっていいだろ?」


「……うん」


「それに、金があれば直せるものも増える」


 フィリップは道の先を指差した。


 村へ続く石畳の道には、ところどころひびが入っていた。


 荷車が通るたびに、車輪が大きく跳ねる。


「道が悪ければ、荷物を運ぶのに時間がかかる。時間がかかれば、運べる量が減る。そうすると、商売もしにくくなる」


「道を直すには、お金がいる」


「そう。だから、金を増やす方法を考える」


 フィリップはにやりと笑った。


「どうだ、立派だろう?」


「最後に自分で言わなければね」


「シオンまでエリシア姉さんみたいなことを言うなよ」


 二人は笑いながら坂を下った。


 村は小さい。


 広場を中心に、商店や工房、民家が並んでいる。


 遠くから鍛冶屋の槌音が聞こえ、パン屋の前には焼きたての香りが漂っていた。


 道を歩けば、誰かしらが声をかけてくる。


「フィリップ坊ちゃん、また値段を聞きに来たのかい?」


「今日は買ってくれるんでしょうね?」


「いつか大口の客になるから、今のうちに親切にしておいた方がいいよ!」


「その『いつか』は何年先だい!」


 店主たちの笑い声が広がる。


 シオンはその様子を眺めながら、少し安心していた。


 この村は、いつもどおりだ。


 朝から頭の中が落ち着かなかったけれど、ここに来ると自分がこの場所で育ったのだと実感できる。


 店の並びも、石畳の傷も、パン屋のおばさんの大きな声も、全部知っている。


 前世の記憶があっても、この九年間が消えるわけではない。


 それは、少し嬉しかった。


「おい、シオン」


 フィリップが足を止めた。


「何?」


「あれ、見てみろ」


 指差した先には、道端の魔力灯があった。


 金属の枠に収められた星晶石。


 その下で、ダリオが脚立に上って作業をしている。


「ダリオさん!」


 シオンが呼ぶと、男は顔を上げた。


「おや、坊ちゃん方。買い物ですか?」


「値段の調査!」


 フィリップが答える。


「そいつは熱心なことで」


 ダリオは工具を持ち替えた。


「魔力灯、壊れてるの?」


 シオンが尋ねる。


「壊れているというほどじゃありません。少し光が弱くなることがあるそうで」


「原因は?」


「石の消耗か、接続部の緩みでしょうな。古いものですから」


 ダリオは星晶石を指で軽く叩いた。


「今のところ、危ない状態ではありませんよ」


 シオンは灯りを見つめた。


 朝、門柱で見た揺らぎを思い出す。


 あのときは、何かが流れているように感じた。


 もう一度、見えるだろうか。


 目を凝らす。


 何も起きない。


 ただの透明な石だ。


 ――やっぱり、気のせいだったのかな。


 そう思った瞬間。


 石の奥で、細い波が走った。


「……っ」


 シオンは息を呑んだ。


 見えた。


 いや、見えたというより、感じた。


 光とは違う何かが、石の内部を通り抜けていく。


 まるで、目には見えない糸が震えたようだった。


 一度。


 そして、少し間を置いて、もう一度。


 朝と同じだった。


「ダリオさん!」


「はい?」


「今、変な感じがしなかった?」


「変な感じ?」


「魔力が……揺れたみたいな」


 ダリオは不思議そうな顔をした。


「坊ちゃん、魔力の流れが分かるんですか?」


「……分からない、と思う」


「そうですか」


 ダリオは笑った。


「まあ、古い灯りですからね。多少は不安定になることもあります」


「でも、朝も同じことがあって」


「朝も?」


「屋敷の灯りが、一瞬だけ点滅したんだ」


 ダリオの手が止まった。


「屋敷の?」


「うん。門の灯りも」


「……なるほど」


 男は少し考え込んだ。


 やがて、工具袋から小さな金属板を取り出した。


 板の表面には細い溝が刻まれている。


「少し確認してみましょう」


 ダリオは金属板を魔力灯の枠に当てた。


 板の溝が淡く光る。


「どう?」


「今のところ、供給量は基準の範囲内です。接続にも大きな問題はありません」


 ダリオは金属板を外した。


「ただ、屋敷の方でも同じようなことがあったなら、念のため記録しておきます」


「記録?」


「いつ、どこで、何が起きたか。後で同じことがあれば比べられますから」


 シオンは目を瞬かせた。


 記録。


 それは、なぜかひどく馴染みのある言葉だった。


 分からないことがあれば、まず記録する。


 原因が分からなくても、事実を残す。


 ――そうだ。


 前の人生でも、似たようなことをしていた。


 何かが起きたとき、後から確かめられるように。


「僕も、覚えておく」


「それは助かります」


 ダリオは笑った。


「ただし、危ないと思ったら近づかないでくださいよ。魔力灯は便利ですが、扱いを間違えると火傷することもありますから」


「うん」


 シオンは頷いた。


 今度は、何でもないと言わずに済んだ。


 それだけで、胸の奥の棘が少し小さくなった気がした。


     ◇


 夕方。


 執務室に戻ったエドガーのもとへ、ダリオから簡単な報告が届いた。


 西の通りの魔力灯は、目立った異常なし。


 星晶石の消耗は進んでいるが、直ちに交換が必要な状態ではない。


 接続部を清掃し、術式の反応も確認した。


 ただし、屋敷周辺でも類似の明滅があったとの話があり、経過観察とする。


「屋敷周辺、か」


 エドガーは報告書を読み返した。


 設備の老朽化は、以前から問題になっていた。


 魔力灯を一斉に交換できればいい。


 だが、それには相当な費用がかかる。


 今年は橋の補修も控えている。


 共同井戸の部品も、そろそろ取り替えなければならない。


 どれも後回しにはしにくい。


「……ダリオが見たなら、ひとまずは大丈夫だろう」


 エドガーは報告書を机に置いた。


 判断として、特別おかしなものではなかった。


 専門の職人が点検し、数値に大きな異常はなかったのだ。


 それでも、報告書の端に記された一文が気にかかった。


 ――同様の明滅、複数箇所で発生の可能性あり。


 エドガーはしばらくその文字を見つめていた。


 やがて、帳簿を開く。


 そこには、魔力灯の交換費用として見積もられた金額が記されていた。


 決して小さくない数字だった。


     ◇


 その夜、シオンは自分の部屋で、小さな紙片に文字を書いていた。


『朝。屋敷の門の魔力灯が二回揺れた』


『少し後。廊下の魔力灯も同じように点滅』


『昼。村の西の通りで、同じ揺れを感じた』


 書き終えて、筆を置く。


 こうして並べてみると、不思議だった。


 場所は違う。


 時間も違う。


 けれど、揺れ方は似ている。


 何か共通する原因があるのだろうか。


 シオンは紙を見つめた。


 もし、全部つながっていたら?


 そう考えた瞬間、胸が高鳴った。


 だが、すぐに首を振る。


 まだ何も分からない。


 たまたま似た不具合が起きただけかもしれない。


 そもそも、自分が感じたものが本当に魔力なのかさえ、確かではないのだ。


「……もっと確かめないと」


 小さく呟いた。


 前世でも、そんな言葉を何度も使った気がする。


 もっと確かめてから。


 もう少し準備してから。


 今は、まだ。


 シオンは筆を握り直した。


 あの記憶の中の男は、いつも何かを先延ばしにしていた。


 けれど、今の自分まで同じである必要はない。


 そう思いたかった。


 紙の下に、もう一行を書き足す。


『明日、もう一度ダリオさんに聞く』


 たったそれだけのことだった。


 それでも、書き終えたシオンは少しだけ満足した。


 窓の外では、村の魔力灯がひとつ、またひとつと夜道を照らし始めている。


 柔らかな光が、暗くなった畑の向こうに並んでいた。


 いつもと変わらない夜。


 シオンはその光を眺めながら、そっと窓を閉めた。


 その頃、村の外れにある古い水車小屋では、一基の魔力灯が静かに明滅していた。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


 そして、誰も見ていないところで、星晶石の表面に細い亀裂が走った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。