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群星のヴェルシェリア  作者: セイ
第一部 目覚めの灯火

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二つの記憶

 目を覚ましたとき、シオン・クレイヴェルは、自分が誰なのか分からなかった。


 いや、正確には違う。


 自分が誰なのか、二つの答えを知っていたのだ。


 ひとつは、シオン・クレイヴェル。


 アルセリア王国の片田舎に領地を持つ、貧乏男爵家の三男。今年で九歳になる少年。


 もうひとつは――。


「……会社?」


 口からこぼれた言葉に、シオン自身が驚いた。


 会社。


 知っている。


 けれど、知らない。


 頭の中には、見覚えのない景色が浮かんでいた。


 天井に並ぶ白い光。整然と置かれた机。薄い板のようなものに映し出される、無数の文字。


 窓の外には、夜になっても明るい街が広がっている。


 そこに座っている男がいた。


 疲れた顔をした、大人の男だ。


 男は何かを言いかけ、結局、口を閉じた。


 ――今は、やめておこう。


 そんな声が聞こえた気がした。


「……っ!」


 シオンは跳ね起きた。


 薄い毛布が膝から滑り落ちる。


 見慣れた木の天井。小さな窓。壁際に置かれた古い棚。


 窓から差し込む朝日が、床の傷を照らしていた。


 ここは自分の部屋だ。


 間違いない。


 なのに、さっきまでいたはずの別の場所も、確かに知っている。


「なんだよ、これ……」


 胸の奥が落ち着かない。


 夢にしては鮮明すぎた。


 あの白い光も、机も、窓の外の街も。


 何より、あの男が感じていた疲労や焦りが、まるで自分のもののように残っている。


 シオンは両手を見下ろした。


 小さな手だった。


 まだ剣の柄も満足に握れない、九歳の子どもの手。


 だが、その手を見た瞬間、別の手が脳裏に重なった。


 もっと大きく、骨ばっていて、指先に薄い傷のある手。


 その手は、何かを差し出そうとしていた。


 けれど――。


「シオン?」


 扉の向こうから声がした。


「起きているの?」


 母の声だ。


 その瞬間、頭の中に浮かんでいた見知らぬ景色が、霧のように薄れていった。


「お、起きてる!」


「そう。なら、そろそろ降りていらっしゃい。朝ご飯が冷めてしまうわ」


「うん!」


 返事をすると、廊下を歩く足音が遠ざかっていく。


 シオンはしばらく扉を見つめていた。


 母の名前はマリア・クレイヴェル。


 優しくて、少し心配性で、家族の誰かが無理をしているとすぐに気づく人だ。


 父はエドガー。


 領民からは慕われているが、領地の財政についてはいつも難しい顔をしている。


 長兄のアルベルトは真面目で、姉のエリシアはしっかり者。次兄のフィリップは商売の話になると目を輝かせる。


 妹のミリアは、まだ六歳だ。


 全部、知っている。


 昨日までのことも、その前の日のことも。


 九年間、ここで生きてきた記憶がある。


 それなのに。


「……俺は、誰だったんだ?」


 問いかけても、答えは返ってこなかった。


     ◇


 クレイヴェル家の朝食は、いつも賑やかだ。


 少なくとも、人数だけは。


「フィリップ! それは私のパンよ!」


「名前でも書いてあった?」


「今、私のお皿から取ったでしょう!」


「つまり、証拠はないと」


「目撃者が六人いるわ!」


 エリシアの声が食堂に響く。


 その向かいでは、フィリップが悪びれもせずにパンをかじっていた。


「朝から元気だな、お前たちは」


 父エドガーが苦笑する。


「あなた。注意してください」


 母マリアが静かに言った。


「フィリップ、人の皿から取ってはいけない。エリシアも、朝から大声を出さない」


「父上、先に手を出したのはフィリップです」


「パンに手を出しただけだよ、姉さん」


「同じことよ!」


「……うむ」


 父は困ったように唸った。


 その隣で、長兄アルベルトが何事もなかったかのように食事を続けている。


 慣れているのだ。


 シオンも、普段なら笑って眺めているところだった。


 けれど今日は、どうにも落ち着かなかった。


 食卓の上には、硬めに焼かれた黒パンと、野菜の入った薄いスープ。


 貴族の朝食としては質素だろう。


 だが、シオンにとっては慣れ親しんだ味だった。


 ――懐かしい。


 ふと、そんな感情が湧いた。


 何に対して?


 このスープに?


 それとも、別の何かに?


 脳裏に白い器が浮かんだ。


 湯気の立つ、見知らぬ料理。


 箸。


 そうだ。箸という道具があった。


 なぜ知っている?


「シオン兄さま?」


 隣から小さな声がした。


 ミリアだった。


「食べないの?」


「え?」


「スープ、冷めちゃうよ」


「ああ……うん。食べるよ」


 慌てて匙を持ち上げる。


 ミリアは不思議そうに首を傾げたが、すぐに自分のパンへと視線を戻した。


 シオンは胸を撫で下ろす。


 おかしい。


 何かがおかしい。


 自分は九歳のはずなのに、九歳ではないような気がする。


 この家族をずっと知っているのに、別の人生も知っている。


 しかも、その記憶はひどく曖昧だった。


 働いていたことは分かる。


 日本という国に住んでいたことも。


 けれど、何年生きたのか、どこで暮らしていたのか、すぐには思い出せない。


 名前さえ、霧の向こうに隠れている。


「シオン」


 父に呼ばれ、顔を上げた。


「具合でも悪いのか?」


「え?」


「先ほどから、ずいぶん静かだ」


「いつも静かじゃない?」


「いや。いつもはフィリップのくだらない冗談に、一番先に笑っている」


「父上、それはひどくない?」


 フィリップが抗議する。


 シオンは小さく笑った。


「大丈夫。ちょっと変な夢を見ただけ」


「怖い夢?」


 ミリアが心配そうに見上げてくる。


「怖くはなかったよ」


 嘘ではない。


 恐ろしいものを見たわけではなかった。


 ただ、どうしようもなく胸が苦しかった。


 何かを言うべきだった。


 何かを選ぶべきだった。


 そんな後悔だけが、理由も分からないまま残っている。


「なら、いいけれど」


 母はそう言って、シオンの額に手を当てた。


「熱はなさそうね。でも、無理をしては駄目よ」


「うん」


 その手は温かかった。


 シオンは目を閉じる。


 なぜだろう。


 その温かさに、泣きそうになった。


     ◇


 朝食の後、シオンは屋敷の裏庭に出た。


 屋敷、といっても立派なものではない。


 石造りの二階建てで、ところどころ修繕の跡が残っている。


 庭も広くはなく、片隅には薪が積まれ、古い農具が壁に立てかけられていた。


 男爵家の屋敷というより、少し大きな農家と言われた方が納得できるかもしれない。


 それでも、シオンはこの場所が好きだった。


 庭の向こうには畑が広がり、その先には小さな集落が見える。


 朝の煙が家々の屋根から立ち上っていた。


 いつもと変わらない風景。


 それを眺めていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。


「……日本」


 口に出してみる。


 不思議な響きだった。


 けれど、確かに知っている。


 自分は、そこにいた。


 学校に通って、働いて、毎日を過ごしていた。


 たぶん、特別な人間ではなかった。


 誰かに誇れるような大きなことを成し遂げた記憶もない。


 ただ、働いていた。


 何かに追われるように。


 そして、いつも考えていた。


 もう少し準備してから。


 もう少し確かめてから。


 今は、まだ。


「……嫌な感じだな」


 シオンは顔をしかめた。


 自分のことなのに、他人の失敗を見せられているようだった。


 それでいて、その失敗を笑う気にはなれない。


 今の自分だって、何かを決めるときには随分と迷う。


 失敗するのが怖いからだ。


 父に何かを相談するときも、兄に意見を言うときも、何度も頭の中で言葉を選んでしまう。


 そして、結局言わないことがある。


 ――同じだ。


 その考えが浮かんだ瞬間、背筋が冷えた。


 前の人生の自分と、今の自分。


 二人は別々の人間なのか。


 それとも、最初から同じなのか。


 考えても分からない。


 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 自分は今、シオン・クレイヴェルとして生きている。


 それだけは、疑いようがない。


「シオン坊ちゃん!」


 門の方から声がした。


 振り向くと、作業着姿の男が手を振っていた。


 領内の設備を見回っている職人、ダリオだ。


 日に焼けた顔に無精髭を生やした、気のいい男だった。


「おはよう、ダリオさん!」


「おはようございます。今日はずいぶん早いですね」


「もう朝ご飯は終わったよ」


「そいつは結構。うちの息子なんぞ、まだ布団の中ですよ」


 ダリオは笑いながら、肩に担いでいた工具袋を持ち直した。


「今日は何の仕事?」


「村の魔力灯を見に行くところです。昨日、また調子が悪いって話がありましてね」


「また?」


「ええ。古い設備ですから。まあ、いつものことでしょう」


 シオンは門柱に取り付けられた魔力灯を見上げた。


 拳ほどの透明な石が、金属製の枠に収まっている。


 夜になれば、石に刻まれた術式が魔力を受け、柔らかな光を放つ仕組みだ。


 今は昼間なので、ほとんど光っていない。


 けれど。


「……あれ?」


 シオンは目を細めた。


 石の奥で、何かが揺れた気がした。


 光ではない。


 もっと別の、目に見えない何か。


 水面に小石を落としたときのような、かすかな波。


 それが、一度。


 少し間を置いて、もう一度。


「どうしました?」


 ダリオが不思議そうに尋ねる。


「この灯り、今……」


 言いかけて、シオンは口を閉じた。


 何を説明すればいい?


 魔力が揺れた?


 そもそも、魔力の流れなんて自分に見えただろうか。


 これまでそんな経験はなかったはずだ。


 朝から変な記憶が浮かんでいる。


 そのせいで、妙なものを見た気になっているだけかもしれない。


「……ううん。何でもない」


「そうですか?」


「うん」


 ダリオは特に気にした様子もなく、門を出ていった。


 シオンは再び魔力灯を見上げる。


 もう、何も感じない。


 ただの古い魔力灯だ。


 ――気のせいだろう。


 そう思おうとした。


 そのときだった。


 屋敷の奥から、小さな音が響いた。


 カチリ。


 続いて、廊下の魔力灯が一瞬だけ明滅する。


 シオンは振り向いた。


 昼間の屋敷は明るい。


 誰も、そのわずかな変化に気づかなかったようだった。


 けれど、シオンには分かった。


 門柱の魔力灯と、まったく同じ間隔だった。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


「……なんだ、これ」


 風が吹き抜けた。


 庭の木々が揺れ、遠くから村人たちの笑い声が聞こえてくる。


 何も変わらない朝だった。


 少なくとも、シオンにはそう見えた。


 この小さな異常が、やがて領地全体を揺るがすことになるなど、このときの彼はまだ知らなかった。


 そして、その異常を見過ごしたことを、何度も思い返す日が来ることも。


 シオン・クレイヴェル、九歳。


 二つの人生の記憶が重なった朝。


 彼の新しい物語は、誰にも気づかれない小さな灯りの揺らぎから始まった。

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