石橋の約束
約束の夕刻まで、あと二時間。
オルド・バッケンは、宿屋の部屋で工具袋を開けたり閉じたりしていた。
中身は、古い検査装置から落ちた金属片が一つ。それと、十数年前の運搬記録を書き写した紙が一枚。
昨夜から何度も確かめている。
どちらも、そこにあった。
「……何やってんだ、俺は」
自分の手が震えていることに気づき、オルドは苦笑した。
騎士団へ手紙を出した。
それだけのことが、これほど恐ろしいとは思わなかった。
昔の仕事仲間には、もう何年も会っていない。あの夜の依頼主が誰だったのかも知らない。
そもそも、十数年前の出来事を話したところで、何かが変わる保証などない。
それでも、東区の事故を報じた新聞が頭から離れなかった。
騎士が間に合わなければ、少年は死んでいたかもしれない。
そして、もし自分が運んだ装置が、あの事故に関係していたとしたら。
「……知らなかったじゃ、済まねえよな」
オルドは工具袋の口を結んだ。
窓の外では、夕暮れの光が屋根を赤く染め始めていた。
もう、引き返せない。
◇
「旧西門周辺の配置は、こちらです」
魔導騎士団本部。
ユリウス・フォン・エーデルは、机の上に広げた地図を指さした。
雪白の長い髪が肩から流れ、紫色の瞳が橋の周辺を追っている。
「橋の北側には二名。南側の路地に二名。川沿いの倉庫には、連絡役を配置します」
アイリス・フェルディアは、地図を見つめていた。
「相手が周囲を警戒している場合、気づかれる可能性はありませんか?」
「あります」
ユリウスは率直に答えた。
「ですから、全員に普段の服装をさせます。接触するのは、あくまであなた一人です」
「承知しました」
「ただし、相手が移動を求めても、その場で応じないこと。まず身元と証言内容を確認してください」
「はい」
ガルド・ヴァレンシュタインが、腕を組んだ。
「それと、怪しい動きがあったら無理するなよ」
「承知しています、団長」
「本当か?」
ガルドは、じろりとアイリスを見た。
「お前、危なくなると自分で何とかしようとするだろ」
「……必要な場合は、そうすることもあります」
「ほらな!」
ユリウスが、小さく息を吐いた。
「団長。アイリスも十分理解しています」
「だといいがな」
ガルドは、アイリスへ視線を戻した。
「証言を取るのは大事だ。だが、命を懸けてまでその場で全部聞き出す必要はねえ。分かったな?」
「……はい」
アイリスは、今度は迷わず頷いた。
ユリウスが地図を畳む。
「では、予定どおりに」
◇
「……本当に、私はここで待っているだけなんですね」
出発前の廊下で、フィオナ・リュミエールが言った。
淡い銀金色の髪が、肩先で揺れる。
アイリスは彼女を見た。
「そうだ。今回は証言を聞くのが目的だからな」
「それは分かっています」
フィオナは、少し困ったように笑った。
「でも、検査装置のことなら、私もその場で質問できるかと思って」
「相手が誰なのかも分からない。まずは安全な場所へ来てもらう方がいい」
「……はい」
フィオナは頷いた。
それから、アイリスの左腕へ視線を落とした。
「傷は、もう大丈夫ですか?」
北区の倉庫で、暴走した魔導回路からフィオナを庇ったときの傷だ。
アイリスは、自分の腕を軽く動かしてみせた。
「ああ。浅い傷だったから、もう問題ない」
「……そうですか」
フィオナは安堵したように息を吐いた。
アイリスは、その表情を見て少し笑った。
「フィオナさんは心配性だな」
「……アイリスさんが無茶をするからです」
「私は、そんなに無茶をしているつもりはないんだが」
「それが心配なんです」
思いがけず強い言葉が返ってきた。
アイリスは、少し目を瞬かせた。
フィオナ自身も驚いたらしく、慌てて続ける。
「あ、いえ。騎士のお仕事が危険なのは分かっています。でも……」
そこで言葉が止まった。
アイリスは、急かさずに待った。
「……ちゃんと、帰ってきてくださいね」
フィオナは、そう言って微笑んだ。
アイリスは一瞬、返事に迷った。
騎士として任務に向かうとき、無事を願われることは珍しくない。
それなのに、その言葉は妙に胸に残った。
「……ああ」
アイリスは頷いた。
「約束する」
◇
旧西門は、かつて王都へ運ばれる荷物の多くが通った場所だった。
新しい街道と貨物門が整備された今では、人通りも少ない。
石橋の下には細い川が流れ、岸辺には古い倉庫が並んでいる。
アイリスは、約束の時刻より少し早く橋へ着いた。
鎧は着けていない。
地味な外套の下に剣を帯び、普段より目立たない格好をしていた。
橋の中央に、一人の男が立っている。
古びた帽子。
くたびれた外套。
片手には、工具袋。
男は、アイリスに気づくと身体を強張らせた。
「……騎士団の人か?」
「ああ」
アイリスは、一定の距離を保って立ち止まった。
「手紙を送ってくれたのは、あなたか?」
男は頷いた。
「……オルド・バッケンだ」
「私はアイリス・フェルディア。魔導騎士団に所属している」
アイリスは、男の手元へ視線を落とした。
「話を聞かせてもらえるか?」
オルドは、橋の両端を見た。
「……一人で来たんだろうな?」
「ここで話を聞くのは私一人だ」
アイリスは、嘘にならない範囲で答えた。
オルドは、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「……分かった」
工具袋から、一枚の紙を取り出す。
「十数年前の話だ。俺は、魔導設備の検査会社で働いていた」
アイリスは黙って耳を傾けた。
「ある夜、廃棄するはずの検査装置を運び出せって言われた」
「誰に?」
「会社の上司だ。だが、仕事を持ち込んだのは別の人間だった」
「名前は?」
「知らねえ。顔も、はっきりとは覚えてねえんだ」
オルドは、苦い表情を浮かべた。
「外套を着た男だった。荷車の行き先と、運搬記録に書く品名を指示してきた」
「運搬記録を偽装したのか?」
「……ああ」
オルドは頷いた。
「廃棄装置じゃなく、古い給水管の部品ってことにした」
アイリスの目が細くなった。
給水管。
東区の事故を思い出す言葉だった。
だが、彼女は先を急がなかった。
「運搬先は?」
「旧西門の外にあった貨物集積所だ」
「この近くか?」
「ああ。今は別の建物になってるかもしれねえが……」
オルドは、橋の西側を指さした。
「向こうの道を進んだ先だ」
アイリスは、その方向を記憶した。
「そこから先は?」
「分からねえ。俺たちは荷物を下ろしただけだ」
「装置を受け取った人間は?」
「二人いた。顔は覚えていない」
オルドは、少し迷ってから続けた。
「ただ、片方は普通の運搬人じゃなかったと思う」
「どうして?」
「……装置のことを、妙に詳しく知っていた」
アイリスは、わずかに眉を動かした。
「詳しく?」
「荷台から下ろす前に、装置の底を確認していたんだ。固定具の位置を見て、向きを変えろって言ってきた」
「……なるほど」
「それと」
オルドは、工具袋を開いた。
布に包まれた小さな金属片を取り出す。
「これが、あの夜に落ちていた」
アイリスは、受け取る前に尋ねた。
「触れても問題ないものか?」
「十数年持ってたが、変なことは起きてねえ」
「分かった。ただ、念のため袋に入れてもらえるか」
アイリスが用意した封入袋を差し出すと、オルドは金属片を布ごと収めた。
袋越しにも、表面の印が見えた。
短い線と点。
北区の工房から回収された部品にも、似た刻印があった。
「……これを、ずっと保管していたのか?」
「ああ」
「なぜ?」
オルドは、しばらく黙った。
「……捨てられなかったんだ」
そして、俯いた。
「あの夜の仕事が、まともじゃなかったってことくらい、分かってたからな」
アイリスは、静かに言った。
「話してくれてありがとう」
オルドは、首を振った。
「礼を言われるようなことじゃねえ」
彼は、苦しそうに笑った。
「十数年も黙ってたんだぞ」
◇
橋の南側。
荷車を押していた男が、車輪の前で立ち止まった。
「……おっと」
車輪が石畳の溝に嵌まっている。
男は、荷台の縄を緩めた。
積まれていた木箱が、わずかに傾く。
その様子を、近くの路地にいた私服の騎士が見ていた。
次の瞬間。
木箱の底から、甲高い音が鳴った。
「――伏せろ!」
騎士が叫んだ。
箱の側面が弾けた。
飛び出したのは、細い金属の杭だった。
杭は石畳へ突き刺さると同時に、青白い魔力を走らせた。
地面に刻まれたような光の線が、橋へ向かって伸びる。
◇
「――下がれ!」
アイリスは、オルドの肩を掴んだ。
ほとんど同時に、橋の欄干が激しく震えた。
石の継ぎ目から青白い光が噴き出す。
「な、何だ!?」
「動くな!」
アイリスは剣を抜いた。
光の線が橋の中央へ集まり、足元に円形の紋様を描き始める。
魔導式。
しかも、起動が速い。
(……捕縛か?)
いや。
紋様の中心から、鋭い魔力の突起がせり上がった。
狙いは、オルドの足元だった。
「くっ!」
アイリスは男を突き飛ばした。
直後、石畳から魔力の槍が突き出す。
外套の裾が裂けた。
アイリスは身を翻し、剣で槍の側面を叩く。
魔力の塊が砕け、青白い火花が散った。
だが、次の線が光る。
橋の両側から、さらに二本。
(……一度きりじゃない!)
「オルドさん、橋の北側へ!」
「で、でも!」
「早く!」
アイリスが叫ぶ。
オルドは、よろめきながら走り出した。
その進路を塞ぐように、欄干の石が砕ける。
アイリスは飛び込んだ。
剣を振るい、落下する石片を弾く。
だが、背後から伸びた魔力の線が、彼女の足首へ絡みつこうとした。
「――アイリス!」
遠くから声が響いた。
次の瞬間、銀白の光が橋を横切る。
魔力の線が断ち切られた。
ユリウスだった。
橋の北側に姿を現した彼は、片手を掲げている。
その前方には、透明な障壁が展開されていた。
「オルドさんをこちらへ!」
「はい!」
アイリスは男の背を押した。
オルドが障壁の内側へ転がり込む。
直後、橋の中央で魔導式が激しく脈動した。
ユリウスの表情が変わる。
「……まずい」
橋の下へ向かって、光の線が伸びていた。
支柱を破壊するつもりなのか。
「アイリス、離れてください!」
だが、アイリスは橋の中央に残っていた。
そこには、まだ逃げ遅れた荷車の馬がいた。
暴れる馬の手綱が、壊れた欄干に絡まっている。
このまま橋が崩れれば、川へ落ちる。
(……間に合う!)
アイリスは駆け寄り、手綱を切った。
馬が駆け出す。
その瞬間、橋の中央が大きく沈んだ。
「――っ!」
足場が崩れる。
アイリスの身体が傾いた。
だが、落ちなかった。
腰に、強い力が加わる。
ユリウスの障壁が、彼女の足元へ伸びていた。
「跳んで!」
アイリスは、残った石を蹴った。
橋の北側へ飛び移る。
背後で、石橋の中央部分が崩れ落ちた。
激しい水音が響く。
舞い上がった水しぶきが、夕陽を遮った。
◇
「……逃がしたか」
橋から離れた通り。
荷車を押していた男は、建物の陰から騒ぎを見つめていた。
木箱の仕掛けは起動した。
橋も壊れた。
だが、標的の男は生きている。
騎士団の対応が予想より早かった。
男は舌打ちした。
そして、外套の内側から小さな金属板を取り出した。
表面には、細かな魔導回路が刻まれている。
その一部を指で押す。
板に走っていた光が消えた。
男は、それを石畳の隙間へ落とした。
靴底で踏み砕く。
直後、背後から声がした。
「――動くな!」
振り返ると、二人の騎士が立っていた。
男は一瞬だけ目を見開いた。
次いで、懐へ手を伸ばす。
だが、抜くより早く騎士の一人が腕を押さえた。
もう一人が足を払う。
男は石畳へ叩きつけられた。
「ぐっ……!」
「魔導騎士団だ。抵抗するな!」
男の手から、小さな刃物が転がり落ちた。
騎士はそれを蹴り離し、両腕を拘束した。
荷車の仕掛けは、橋だけを狙ったものではなかった。
証言者を逃がさないためのものだった。
だが、男の思惑は外れた。
◇
「……すまねえ」
魔導騎士団本部の一室。
オルドは、何度目か分からない謝罪を口にした。
「俺が呼び出したせいで、あんたまで危ない目に……」
「謝る必要はない」
アイリスは、椅子に腰掛けながら答えた。
「仕掛けを用意したのは、あなたじゃないだろう」
「……そうだが」
「それに、あなたが話してくれたから、重要な手がかりが得られた」
オルドは、俯いた。
机の上には、彼が持参した運搬記録の写しが置かれている。
ユリウスは、それを慎重に確認していた。
「……貨物集積所の搬入番号が残っていますね」
「昔の帳簿から写したんだ」
オルドが答えた。
「会社を辞める前に、何となく控えておいた」
「これは重要です」
ユリウスは頷いた。
「当時の集積所の記録が残っていれば、運搬先を追えるかもしれません」
ガルドは、腕を組んでいた。
「それに、襲ってきた奴を一人捕まえた」
オルドが顔を上げる。
「……捕まえた?」
「ああ」
ガルドは頷いた。
「まだ何も喋ってねえがな」
ユリウスが続ける。
「ただし、今回の襲撃があなたの証言を妨害する目的だったかどうかは、慎重に調べる必要があります」
オルドは、青ざめた顔で頷いた。
「……俺、これからどうなるんだ?」
アイリスが答えた。
「しばらくは、安全な場所にいてもらうことになる」
「……家族には?」
「連絡方法を相談しよう。必要なら、家族の安全も確認する」
オルドは、深く息を吐いた。
「……そうか」
そして、震える手を膝の上で握り締めた。
「……話して、よかったんだろうか」
アイリスは、少しだけ考えた。
「少なくとも、私は話してくれてよかったと思っている」
オルドが顔を上げる。
「あなたの証言がなければ、あの装置が廃棄場へ運ばれていないことも、貨物集積所のことも分からなかった」
アイリスは、まっすぐに男を見た。
「十数年前のことを変えることはできない。でも、今できることはある」
オルドは、長い間黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
◇
その夜。
フィオナは、魔導騎士団本部の廊下を早足で歩いていた。
石橋で襲撃があったという連絡を受けてから、落ち着かなかった。
負傷者はいないと聞いた。
それでも、アイリスの顔を見るまでは安心できなかった。
角を曲がる。
そこに、青い髪の騎士が立っていた。
「……アイリスさん!」
思わず、声が大きくなった。
アイリスが振り返る。
「フィオナさん?」
フィオナは、彼女の前で足を止めた。
「……大丈夫、ですか?」
「ああ」
アイリスは頷いた。
「怪我はない」
「本当に?」
「本当だ」
フィオナは、彼女の腕を見た。
肩。
外套の裾。
足元。
傷がないことを確かめるように視線を動かす。
アイリスは、少し困ったように笑った。
「……そんなに心配しなくても」
「心配します」
即座に返ってきた。
アイリスは、言葉を止めた。
フィオナは、視線を落とした。
「……約束、してくれたじゃないですか」
「……ああ」
「ちゃんと帰ってくるって」
アイリスは、静かに頷いた。
「……守っただろう?」
フィオナが顔を上げる。
アイリスは、少しだけ笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、フィオナの胸に溜まっていた緊張がほどけた。
「……はい」
彼女も、小さく笑った。
「……そうですね」
しばらく、二人は向かい合っていた。
廊下の向こうから、騎士たちの話し声が聞こえてくる。
フィオナは、ようやく普段の調子を取り戻した。
「……それで、検査装置について何か分かりましたか?」
「ああ」
アイリスは頷いた。
「明日、詳しく説明する。今夜はもう遅いからな」
「……分かりました」
フィオナは、一度頷いた。
それから、少し迷って口を開く。
「……アイリスさん」
「何だ?」
「……今日は、もうお休みになりますか?」
「ああ。そのつもりだ」
「……よかった」
フィオナは、心から安心したように微笑んだ。
アイリスは、その表情を見つめた。
そして、ふと思った。
任務から戻ってきた自分を、これほど気にかけてくれる人がいる。
それが、少し不思議で。
思っていた以上に、嬉しかった。
◇
深夜。
王都設備管理局の古い記録保管室。
魔導騎士団からの照会を受け、当直の職員が十数年前の貨物搬入台帳を探していた。
「……旧西門、旧西門……」
埃を被った帳簿を一冊ずつ確認する。
やがて、目的の年度が見つかった。
「……あった」
職員は、台帳を机に広げた。
オルドが控えていた搬入番号を探す。
番号は、確かに存在した。
ただし。
「……何だ、これ」
その行だけ、荷受人の欄が空白になっていた。
他の欄は埋まっている。
搬入日。
品名。
荷車の登録番号。
だが、荷受人だけが記されていない。
職員は、眉をひそめた。
古い記録だから、記載漏れもあるだろう。
そう考えながら、次の頁をめくる。
すると、台帳の最後に挟まれていた薄い紙が落ちた。
「……ん?」
拾い上げる。
それは、搬入記録の訂正票だった。
日付は、問題の運搬が行われた翌日。
訂正理由には、短くこう書かれていた。
『搬入先変更につき、別帳簿へ移管』
その下には、移管先を示す管理番号。
職員は、その番号を見て目を見開いた。
「……これ、設備管理局の番号じゃないぞ」
記されていたのは、王都の公共設備ではなく、王宮管理区域の物品を扱う帳簿の番号だった。
職員は、しばらく紙を見つめていた。
そして、慌てて立ち上がった。
「……上に報告しないと」
古い検査装置は、廃棄場へ運ばれていなかった。
それだけではない。
記録の上では、王宮管理区域へ移されたことになっていた。
十数年前の一件は、思いがけない場所へ繋がり始めていた。




