沈黙を破る職人
男は、新聞を三度読み返した。
『東区送水装置事故――少年、落下物から間一髪で救出』
王都の外れにある古い宿屋。
狭い部屋の窓からは、朝の光が差し込んでいる。
机の上には、昨日買った新聞と、使い古された工具袋が置かれていた。
男の名は、オルド・バッケン。
かつて魔導設備の検査会社に勤めていた職人だった。
今は王都の外で小さな修理仕事を請け負い、必要なときだけ街へ戻っている。
「……子どもがいたのか」
オルドは、かすれた声で呟いた。
記事には、破損した配管から落下した支柱が少年を直撃しかけたこと、魔導騎士団の副団長が障壁で救ったことが書かれていた。
少年に大きな怪我はなかったらしい。
その一文を読んで、安堵した。
だが、すぐに別の感情が湧いてきた。
もし、騎士が間に合わなかったら。
もし、次の事故では誰も助けられなかったら。
オルドは新聞を伏せた。
「……俺には関係ねえ」
そう呟いてみた。
だが、言葉は空しく響いた。
十数年前。
まだ若かったオルドは、ある検査会社で働いていた。
古い魔導設備の点検や修理を請け負う、ごく普通の会社だった。
その会社で、ある夜、妙な仕事を任された。
廃棄予定の検査装置を運び出す仕事だ。
昼間ではなく、夜。
廃棄場ではなく、別の場所へ。
運搬記録には、実際とは違う品名を書くよう指示された。
当時のオルドは、不審に思った。
だが、何も尋ねなかった。
仕事を失いたくなかったからだ。
その頃、妻は病気がちで、幼い息子もいた。
家族を養うためには、多少おかしな仕事でも断れなかった。
結局、その仕事から間もなく、オルドは会社を辞めた。
自分の意思だけではない。
あの夜のことを口にしないよう、遠回しに釘を刺されたことも理由だった。
それから十数年。
あの装置が何に使われたのか、オルドは知らない。
今回の事故と関係している証拠もない。
それでも。
新聞に書かれた少年の年齢を見たとき、胸の奥が冷たくなった。
自分の息子も、かつてはあれくらいの年齢だった。
今では成人し、別の街で暮らしている。
「……あいつだったら」
オルドは、そこで言葉を止めた。
机の端には、もう一枚の紙があった。
昔の同僚から届いた短い手紙だ。
『昨日、魔導騎士団の人間が来た。昔の検査装置について聞かれた。お前のことも話した』
オルドは、その手紙を手に取った。
騎士団が、あの装置を調べている。
十数年前の出来事を、今になって。
それは偶然なのか。
それとも、今回の事故と繋がっているのか。
分からない。
だが、今なら話を聞いてもらえるかもしれない。
オルドは、工具袋を開いた。
中から、小さな金属片を取り出す。
親指ほどの大きさ。
表面には、短い線と点を組み合わせた印が刻まれている。
あの夜、運搬作業の途中で落ちていたものだ。
捨てようと思ったことは何度もある。
それでも、捨てられなかった。
「……俺が運んだものと、関係ねえかもしれねえ」
オルドは、誰にともなく呟いた。
「でも……」
新聞の見出しへ視線を戻す。
「……次は、助からねえかもしれねえんだ」
長い沈黙の後、オルドは羽根ペンを取った。
そして、魔導騎士団宛の手紙を書き始めた。
◇
「三日間、ですか」
ユリウス・フォン・エーデルは、届いた文書を読み終えると、静かに目を細めた。
魔導騎士団本部の執務室。
窓の外では、朝の陽光が王都の屋根を照らしている。
机の向こうでは、ガルド・ヴァレンシュタインが腕を組んでいた。
「……どういうことだ?」
「王都設備管理局からの通知です」
ユリウスは、文書を机へ置いた。
「東区の送水装置について、騎士団による追加の立ち入り調査を三日間保留するとのことです」
「……は?」
ガルドの眉が跳ね上がった。
「事故が起きたばかりだぞ?」
「ええ」
「原因も分かってねえのに、調査するなってのか?」
「理由は、復旧工事と事故調査の作業区域が重なるため、となっています」
ガルドは、低く唸った。
「……面倒なことを言いやがる」
ユリウスは、もう一枚の書類を示した。
「さらに、設備管理局が保管する検査資料についても、当面は外部提供を制限するそうです」
「……急にか?」
「はい」
ガルドは、しばらく黙った。
そして、低い声で言った。
「……誰が決めた?」
「文書上の決裁者は、設備管理局の次長です」
「……そいつに会いに行く」
ガルドは、即座に立ち上がった。
ユリウスが、静かに顔を上げる。
「団長」
「何だ?」
「怒鳴り込むおつもりですか?」
「話し合いだ!」
「……そうですか」
ユリウスは、わずかに微笑んだ。
「では、私も同行します」
「……おう」
「団長が声を大きくされた場合、私が説明を引き継ぎます」
「最初から俺が怒鳴る前提で話すな!」
「失礼しました」
ユリウスは、穏やかな表情のまま答えた。
ガルドは、頭を掻いた。
「……ったく」
だが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
◇
王立総合学園の実習室。
「……おかしいな」
俺は、測定器の針を見つめていた。
机の上には、二つの小型魔導回路が並んでいる。
一つは、魔力が滞留しやすいように曲線を多くした回路。
もう一つは、流れを単純化した回路だ。
どちらも、同じ規格の星晶石を使っている。
供給量も、補助電源を切る時間も揃えた。
だが。
「……曲線の多い方だけ、変化が出たわね」
リシアが、記録用紙を見比べながら言った。
「うん」
俺は頷いた。
「残留魔力の量は、ほとんど同じだったはずなのに」
エリオットが、目を輝かせた。
「……じゃあ、量じゃないってこと?」
「……量だけじゃない、ということかもしれない」
俺は、曲線の多い回路を見つめた。
魔力は、ただ溜まるだけではない。
流れる。
向きがある。
そして、通り道の形によって、動き方が変わる。
「……どこに残っているか」
俺は呟いた。
「それが関係しているのかもしれない」
リシアが、回路の一部を指さした。
「この曲がり角。ここに魔力が偏っている可能性は?」
「……あると思う」
「なら、次は同じ形で、曲がり角の位置だけ変えてみるべきね」
エリオットが、勢いよく頷いた。
「それだ!」
俺は、少し笑った。
「……でも、今日はここまで」
「ええっ!?」
「もう十分に試しただろ」
リシアも頷いた。
「それに、今の結果は先生に確認してもらった方がいいわ」
「……分かったよ」
エリオットは、残念そうに肩を落とした。
俺は、記録用紙をまとめながら考えた。
停止後の魔力反応。
残留魔力。
回路の形。
少しずつ、関係が見えてきている。
だが、それが王都の事故とどう繋がるのか。
まだ、はっきりとは分からない。
(……でも)
俺は、机の上の回路を見つめた。
魔力の量だけではない。
流れ方そのものが重要なのかもしれない。
◇
王都設備管理局。
大理石の床が広がる応接室で、ガルドは椅子に腰掛けていた。
向かいには、設備管理局の次長。
四十代半ばほどの、細身の男性だった。
「……調査の必要性は理解しております」
次長は、丁寧な口調で言った。
「ですが、現在は復旧を優先すべき段階です」
ガルドは腕を組んだ。
「復旧が必要なのは分かる」
「ありがとうございます」
「だが、安全確認が済んでねえ装置を動かすつもりなら、話は別だ」
次長の表情が、わずかに硬くなった。
「……もちろん、安全には十分配慮いたします」
「具体的には?」
ユリウスが尋ねた。
次長は、彼へ視線を向けた。
「……と申しますと?」
「再稼働前に、どの範囲の検査を行う予定でしょうか」
ユリウスは穏やかな口調を崩さない。
「配管の交換だけでは、事故原因を除去したことにはなりません」
「……それは」
「制御盤の異常については、調査結果が出ていないはずです」
次長は、少しだけ言葉に詰まった。
ガルドが、低い声で続ける。
「昨日の事故では、子どもが死にかけた」
次長の視線が動いた。
「……報告は受けております」
「だったら、同じことを繰り返すわけにはいかねえだろ」
室内に、沈黙が落ちた。
ユリウスは、机の上に一枚の文書を置いた。
「こちらは、魔導騎士団からの正式な要請書です」
次長が、書類を見た。
「……これは?」
「東区の送水装置について、事故原因が判明するまで、問題の制御系統の再稼働を見合わせていただきたい」
ユリウスは、静かに続けた。
「代替の送水手段については、騎士団も警備面で協力します」
次長は、しばらく書類を見つめていた。
「……検討させていただきます」
「よろしくお願いします」
ユリウスは、丁寧に頭を下げた。
だが、次長の表情には、何かを気にしているような硬さが残っていた。
◇
午後遅く。
アイリス・フェルディアとフィオナ・リュミエールは、北区の工房から回収された資料を整理していた。
工房内部への立ち入りは、現在中断されている。
壁の魔導回路が暴走した以上、十分な安全対策なしに再調査することはできない。
「……これで、回収した金属片は全部か?」
アイリスが尋ねた。
「はい」
フィオナは頷いた。
「ただ、まだ分析できていないものがあります」
机の上には、小さな金属片がいくつか並んでいた。
どれも、表面に複雑な刻印が残っている。
フィオナは、その一つを手に取った。
「……これ、少し変なんです」
「……どこが?」
「刻印の位置です」
フィオナは、金属片を裏返した。
「普通、魔導回路の接続位置を示す印は、作業者が見やすい場所に刻みます」
「……そうなのか」
「はい。でも、これは違います」
フィオナは、指先で小さな線を示した。
「裏側にあるんです」
アイリスは、少し考えた。
「……組み立てた後に見えなくなる位置か?」
「そうです」
フィオナは頷いた。
「だから、組み立て時の目印ではない可能性があります」
アイリスは、金属片を見つめた。
「……別の用途?」
「はい。例えば、分解したときにだけ分かる識別印とか」
フィオナは、少しだけ首を傾げた。
「ただし、推測です」
「……なるほど」
アイリスは、静かに頷いた。
そのとき、資料室の扉が叩かれた。
「失礼します!」
若い騎士が入ってくる。
「アイリス殿、こちらにいらっしゃいましたか」
「どうした?」
「……魔導騎士団宛に、差出人不明の手紙が届いています」
アイリスの表情が変わった。
「……手紙?」
「はい」
騎士は、一通の封筒を差し出した。
アイリスは受け取り、宛名を確認した。
そこには、ただ一言。
『古い検査装置について』
そう書かれていた。
フィオナが、息を呑んだ。
「……まさか」
アイリスは、慎重に封筒を開いた。
中には、一枚の紙が入っていた。
『十数年前、廃棄予定だった検査装置の運搬に関わりました。
装置は、廃棄場には運ばれていません。
詳しい話をしたい。
明日の夕刻、旧西門近くの石橋で待っています。
一人で来てください。』
アイリスは、手紙を読み終えた。
そして、フィオナへ視線を向けた。
「……どう思う?」
フィオナは、少し考えた。
「……本当なら、重要な証言です」
「……そうだな」
「でも……」
フィオナは、少しだけ表情を曇らせた。
「……危険かもしれません」
アイリスは、静かに頷いた。
「……ああ」
差出人不明。
人目の少ない場所。
そして、一人で来るようにという指定。
罠の可能性もある。
だが、無視するわけにもいかない。
「……副団長に報告しよう」
アイリスは、手紙を丁寧に折り畳んだ。
◇
夕方。
魔導騎士団本部の執務室。
ユリウスは、手紙を読み終えると、静かに目を閉じた。
「……なるほど」
ガルドが、隣から覗き込む。
「……怪しいな」
「ええ」
ユリウスは頷いた。
「ですが、無視するには惜しい情報です」
アイリスが、静かに言った。
「私が行きます」
ガルドは、すぐに顔を上げた。
「……一人でか?」
「指定はそうなっています」
「馬鹿言うな」
ガルドは、即座に否定した。
「そんなもん、罠かもしれねえだろ」
「承知しています」
アイリスは頷いた。
「ですが、相手が警戒している可能性もあります」
ユリウスは、しばらく考え込んだ。
そして、静かに口を開いた。
「……アイリス」
「はい」
「表向きは、一人で向かってください」
ガルドが、眉をひそめる。
「……ユリウス?」
「ただし、周辺には騎士を配置します」
ユリウスは続けた。
「相手に気づかれない距離から監視し、異常があれば即座に介入できるようにします」
ガルドは、少しだけ考えた。
「……なるほど」
アイリスは、静かに頭を下げた。
「承知しました」
ユリウスは、さらに言った。
「フィオナさんには、本部で待機していただきます」
フィオナが、少しだけ驚いたように顔を上げた。
「……私もですか?」
「はい」
ユリウスは頷いた。
「今回の接触は、危険を伴う可能性があります」
フィオナは、少しだけ唇を噛んだ。
だが、すぐに頷いた。
「……分かりました」
アイリスは、彼女へ視線を向けた。
「……フィオナさん」
「はい?」
「心配しなくていい」
フィオナは、少しだけ目を見開いた。
そして、静かに微笑んだ。
「……はい」
だが、その笑顔には、わずかな不安が残っていた。
◇
その夜。
旧西門近くの石橋。
川面には、王都の灯りが細長く映っている。
橋の下を流れる水は、静かだった。
オルドは、石橋の欄干にもたれていた。
古びた外套を羽織り、帽子を深く被っている。
手には、小さな工具袋。
その中には、十数年前から持ち続けてきた金属片が入っていた。
「……本当に来るのか」
オルドは、低く呟いた。
手紙には、明日の夕刻と書いた。
だが、どうしても落ち着かず、前日の夜に様子を見に来てしまった。
誰かに見られていないか。
尾行されていないか。
何度も振り返る。
そのとき。
橋の向こうから、足音が聞こえた。
オルドは、身体を強張らせた。
通りかかったのは、荷物を抱えた商人だった。
オルドは、ほっと息を吐く。
「……考えすぎか」
だが。
橋の反対側。
暗い路地の奥で、一つの影が動いた。
オルドは、それに気づかなかった。
影は、しばらく石橋を見つめていた。
そして、静かに闇の中へ消えていった。
翌日の夕刻。
そこで何が起きるのか。
まだ、誰にも分からなかった。




