封じられた壁の奥
王都の朝は、薄い雲に覆われていた。
石畳を行き交う人々の頭上で、魔導灯が一つ、また一つと消えていく。
夜の役目を終えた灯りが消える。
それ自体は、いつもどおりの光景だった。
ただ、北区の古い通りでは、一基だけ、消えるまでにわずかな時間を要した。
光が弱まり、再び強くなり、ようやく消える。
通りを歩いていた老人が、不思議そうに見上げた。
「……またか」
呟きは、朝の喧騒に紛れた。
王都では今、小さな異変が積み重なっていた。
その一つ一つは、見過ごされてもおかしくないほど些細なものだった。
だが、魔導騎士団はすでに、それらを単なる偶然として扱えなくなっていた。
◇
「……壁の改修記録が見つかりました」
魔導騎士団本部の会議室で、アイリス・フェルディアが報告した。
鮮やかな青いショートウルフの髪が、肩の動きに合わせて揺れる。
机の向こうでは、ユリウス・フォン・エーデルが資料を受け取っていた。
雪白の長い髪を背に流し、紫色の瞳で書類を確認する。
「十数年前の工事ですね」
「はい。工房の西側の壁を補強した記録です」
「補強理由は?」
「老朽化とされています。ただし、工事内容の詳細が残っていません」
ユリウスは眉をひそめた。
「……詳細がない?」
「はい。使用した資材の記録はありますが、施工箇所の図面が一部欠けています」
その隣で、フィオナ・リュミエールが身を乗り出した。
淡い銀金色の髪が肩先で揺れる。
「……欠けているのは、どの部分ですか?」
アイリスは図面を広げた。
「ここだ」
指さしたのは、工房の西側。
前回の調査で、魔力反応が確認された壁の位置だった。
フィオナは、しばらく黙って図面を見つめた。
「……なるほど」
「何か分かったか、フィオナさん?」
「まだ、はっきりとは」
フィオナは頷いた。
「ただ、壁の補強というより、内部の空間を塞いだようにも見えます」
ユリウスが顔を上げた。
「空間を?」
「はい」
フィオナは古い図面と新しい図面を重ねた。
「こちらが改修前。こちらが改修後です」
二枚の図面には、壁の厚さに違いがあった。
「……この部分だけ、厚くなっています」
アイリスは目を細めた。
「確かに」
「もし単純な補強なら、壁全体を均等に厚くする方法もあります」
「……つまり?」
「何かを隠すために、ここだけ塞いだ可能性があります」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
ユリウスは、ゆっくりと頷いた。
「……調査する価値はありそうですね」
「はい」
アイリスが答えた。
「ただし、壁を開けるには所有者の許可が必要です」
「ええ。それに、魔導罠の可能性もあります」
ユリウスは書類を閉じた。
「まずは、非接触での調査を追加しましょう」
「承知しました」
アイリスは頷いた。
フィオナも、真剣な表情で頷いた。
◇
同じ頃。
王立総合学園の実習室では、俺たちが新しい実験を始めようとしていた。
「……準備できた!」
エリオットが声を上げる。
机の上には、小さな星晶石と二つの測定器。
一つは、魔力の流れを直接測るもの。
もう一つは、記録回路を通して数値を保存するものだ。
「今回は、補助電源だけを切り替える」
俺は確認した。
「星晶石への供給は一定に保つ。記録回路の補助電源を入れ直したとき、測定値に変化が出るかを見る」
リシアが頷いた。
「条件は前回と同じ?」
「うん。ただし、補助電源の接続部分は交換した」
「接触不良の影響を減らすためね」
「そう」
エリオットが、少し不満そうに言った。
「でもさ、接触不良が原因だったら、何も出ないんじゃない?」
「それなら、それでいい」
俺は答えた。
「原因を一つ減らせる」
「……なるほど」
エリオットは頷いた。
「じゃあ、始めよう!」
俺は、測定器の針を確認した。
安定している。
「……補助電源、切るよ」
エリオットが操作する。
記録回路の表示が消えた。
直接測定側の針は、ほとんど動かない。
「……変化なし」
リシアが記録する。
「次、入れる」
エリオットが補助電源を戻した。
その瞬間。
直接測定側の針が、ほんのわずかに下がった。
「……!」
俺は息を呑んだ。
そして、少し遅れて。
針が元の位置へ戻った。
「……今の」
エリオットが呟く。
「見た?」
「……見た」
俺は頷いた。
リシアも、真剣な表情で記録紙を見つめている。
「……直接測定側にも、変化が出たわね」
「うん」
俺は、もう一度記録を確認した。
変化は小さい。
誤差の範囲かもしれない。
だが、確かに動いた。
「……もう一回」
俺は言った。
エリオットが頷く。
同じ操作を繰り返す。
今度は、ほとんど変化がない。
「……あれ?」
エリオットが首を傾げる。
「出ないね」
「……やっぱり、安定しない」
リシアが呟いた。
俺は、しばらく考えた。
補助電源を入れ直したとき、必ず変化するわけではない。
何か別の条件が必要なのか。
それとも、単なる偶然なのか。
(……まだ、分からない)
俺は、記録用紙を見つめた。
だが、一つだけ確かなことがある。
記録回路の操作が、直接測定側の値に影響する場合がある。
その事実だけは、無視できなかった。
◇
午後。
北区の工房では、再び調査が行われていた。
今回は、技術班が持ち込んだ大型の測定装置も使用する。
床や壁に直接触れず、周囲の魔力反応を比較するためのものだ。
「……準備完了です」
技術班の一人が報告した。
アイリスは頷いた。
「では、予定どおり始めてください」
フィオナは、少し離れた場所から装置を見つめている。
「……フィオナさん」
アイリスが声をかけた。
「はい?」
「何か気になることがあるのか?」
「……少し」
フィオナは頷いた。
「この装置は、広い範囲の魔力を測定できますが、細かい変化を拾うのは苦手なんです」
「……そうなのか」
「はい。ですので、私の小型測定器も併用したいと思っています」
アイリスは少し考えた。
「……危険はないか?」
「測定だけなら、ありません。ただし、近づきすぎないようにします」
「分かった」
アイリスは頷いた。
「私も一緒に行く」
「ありがとうございます」
二人は、工房の西側へ向かった。
壁の一部は、周囲より新しい石材で補修されている。
フィオナは測定器を構えた。
針が、わずかに動く。
「……反応があります」
アイリスは周囲を警戒した。
「昨日と同じか?」
「似ています」
フィオナは記録紙を確認する。
「ただ、今日は少し強いです」
「……強い?」
「はい」
フィオナは、慎重に測定器を動かした。
壁の左側。
中央。
右側。
そのたびに、針が微妙に揺れる。
「……ここです」
フィオナが、壁の中央を指さした。
「この部分だけ、反応が強くなっています」
アイリスは、壁を見つめた。
何の変哲もない石壁。
だが、確かに何かがある。
「……技術班に伝えよう」
「はい」
二人は、少し離れた場所へ戻った。
そのときだった。
大型測定装置の針が、突然大きく振れた。
「魔力反応、急上昇!」
技術班の叫びに、アイリスは即座に振り返った。
「全員、壁から離れて!」
騎士たちが動く。
フィオナも測定器を抱え、指示に従って後退した。
次の瞬間、壁の継ぎ目に青白い光が走った。
細い線が幾重にも枝分かれし、石材の表面に複雑な模様を浮かび上がらせる。
「……魔導回路?」
フィオナが息を呑む。
アイリスは剣の柄に手をかけた。
「フィオナさん、もっと下がってくれ!」
「はい!」
壁の奥から、低い振動が響いた。
石材の隙間から砂埃が落ちる。
そして、光が一点に集まり始めた。
「……来る!」
アイリスが叫んだ。
直後。
壁から、青白い魔力の奔流が噴き出した。
「伏せろ!」
アイリスはフィオナの肩を抱くように引き寄せ、そのまま床へ身を低くした。
二人の頭上を、鋭い光が通り過ぎる。
背後で木箱が砕け、破片が床に散らばった。
「……っ!」
フィオナが息を呑む。
アイリスはすぐに立ち上がり、彼女の前へ出た。
「怪我は?」
「ありません!」
「よし。入口まで下がってくれ!」
フィオナは頷いた。
だが、その視線は壁から離れなかった。
「アイリスさん! あの光、外へ向けて放出されているだけじゃありません!」
「……何?」
「壁の内側にも魔力が流れています! 回路を焼き切ろうとしているのかもしれません!」
アイリスは壁を見た。
光の線が、次々に途切れていく。
石材の奥から、焦げたような匂いが漂い始めた。
「……証拠を消している?」
「可能性があります!」
フィオナは測定器を握りしめた。
「このままだと、内部の構造が分からなくなります!」
アイリスは一瞬、迷った。
壁の中に何があるのか。
まだ分からない。
無理に近づけば、再び攻撃を受けるかもしれない。
だが、目の前で重要な証拠が失われようとしている。
「……技術班!」
アイリスが叫んだ。
「遠隔記録は続けられるか!」
「可能です! ただし、装置をこれ以上近づけるのは危険です!」
「分かった! 今の位置を維持しろ!」
アイリスはフィオナへ振り返った。
「フィオナさん、離れた場所から記録を取れるか?」
「はい!」
「なら、頼む。私は周囲を守る」
フィオナは、強く頷いた。
「分かりました!」
再び、壁が光った。
今度は、床に沿って魔力の線が走る。
「……っ!」
アイリスは剣を抜いた。
青白い光が床を這い、技術班の装置へ向かう。
「下がれ!」
アイリスは前へ踏み込み、剣を振るった。
刃に込めた魔力が、迫る光の流れを断ち切る。
弾けた魔力が、細かな火花となって散った。
だが、すぐに別の線が伸びてくる。
(……一つじゃない!)
アイリスは歯を食いしばった。
壁の内部から、複数の回路が同時に反応している。
ただの罠ではない。
何かを守るためか。
あるいは、何かを消すためか。
その目的は分からない。
だが、今は考えている暇がなかった。
「フィオナさん!」
「はい!」
「あと、どれくらい必要だ!」
フィオナは測定器の記録紙を確認した。
「……もう少しです!」
アイリスは頷いた。
「分かった!」
再び、壁から光が噴き出す。
今度は、天井近くへ向かった。
石材の一部が砕け、破片が降り注ぐ。
「……危ない!」
アイリスは、近くにいた技術班の一人を突き飛ばした。
直後、足元へ石片が落ちる。
鈍い衝撃が、左腕を掠めた。
「……っ!」
アイリスは顔をしかめた。
だが、剣は下ろさない。
「アイリスさん!」
フィオナの声が響く。
「大丈夫だ!」
アイリスは答えた。
「記録を続けてくれ!」
フィオナは、一瞬だけ唇を噛んだ。
だが、すぐに測定器へ視線を戻した。
今、自分にできること。
それは、目の前の魔力の流れを記録することだ。
アイリスが守ってくれている。
ならば、自分も役目を果たさなければならない。
「……あと少し……!」
測定器の針が、大きく振れた。
そして。
「……取れました!」
フィオナが叫んだ。
「アイリスさん! 記録できました!」
「よし!」
アイリスは即座に声を上げた。
「全員、撤退!」
騎士たちが動く。
技術班が装置を回収し、出口へ向かう。
フィオナも、記録紙を抱えて走った。
最後にアイリスが後退する。
その直後。
壁の内部で、何かが破裂するような音が響いた。
青白い光が、一瞬だけ強く輝く。
そして、消えた。
工房に、静寂が戻る。
焦げた匂いだけが、かすかに漂っていた。
◇
工房の外。
アイリスは、騎士たちの人数を確認していた。
「……全員いるな」
負傷者はいない。
技術班も、全員無事だった。
ただし、アイリスの左腕には、石片が掠めた小さな傷があった。
「……アイリスさん」
フィオナが近づいてきた。
「腕を見せてください」
「……これか?」
アイリスは、自分の腕を見た。
「大したことはない」
「でも、血が出ています」
「……少しだけだ」
フィオナは、じっとアイリスを見つめた。
「……お願いします」
その真剣な表情に、アイリスは少しだけ困ったように笑った。
「……分かった」
フィオナは鞄から清潔な布を取り出し、傷口を押さえた。
「……痛みますか?」
「少しだけ」
「……すみません」
「フィオナさんが謝ることじゃない」
アイリスは首を振った。
「私の判断で残ったんだ」
フィオナは、少しだけ俯いた。
「……でも、私が記録を取りたいと言ったから」
「……フィオナさん」
アイリスは静かに言った。
「私は、危険だと思えば撤退を命じる」
フィオナが顔を上げる。
「今日は、記録を取れる可能性があると判断した。だから、少しだけ残った」
「……はい」
「それに、フィオナさんは約束どおり、記録が取れたらすぐに撤退しただろう?」
フィオナは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「なら、問題ない」
アイリスは小さく笑った。
「お互い、自分の役目を果たしただけだ」
フィオナは、しばらく黙っていた。
そして。
「……ありがとうございます」
小さく、そう言った。
◇
夕方。
魔導騎士団本部では、緊急の報告会が開かれていた。
ユリウスとガルド。
アイリスとフィオナ。
そして、技術班の責任者。
机の上には、今日の測定記録が並んでいる。
「……壁の内部で、魔力が急激に上昇した」
ガルドが腕を組んだ。
「それで、攻撃までしてきたのか」
「はい」
アイリスが答えた。
「魔力の放出が確認されました。幸い、重大な負傷者はいません」
ユリウスは、アイリスの左腕へ視線を向けた。
「……怪我をしたと聞きましたが」
「軽傷です。処置も済んでいます」
「無理はしないでください」
「承知しました」
フィオナは、記録紙を広げた。
「……今回、重要なのは、壁の内部の回路が自ら焼き切れるように動いたことです」
ユリウスが顔を上げる。
「……自ら?」
「はい。ただし、意図的な証拠隠滅の仕組みなのか、異常な魔力負荷による破損なのかは、まだ分かりません」
技術班の責任者が頷いた。
「壁の内部で、複数の魔力経路が同時に反応していました」
ガルドが眉をひそめた。
「……つまり、何かが壊れたってことか?」
「その可能性が高いです」
フィオナは答えた。
「ただ、完全に壊れたかどうかは分かりません」
ユリウスは、静かに考え込んだ。
「……証拠が失われた可能性もある」
「はい」
フィオナは頷いた。
「ですが、記録は残せました」
彼女は、一枚の記録紙を差し出した。
「こちらです」
そこには、複雑な魔力の変化が刻まれていた。
最初に、わずかに下がる。
その後、遅れて上がる。
そして、急激な上昇。
最後に、複数の経路へ分かれるような変化。
ユリウスは、目を細めた。
「……なるほど」
そのとき。
会議室の扉が叩かれた。
「失礼します!」
若い騎士が入ってくる。
「王立総合学園から、追加の測定記録が届いています!」
ユリウスが顔を上げた。
「……シオン君たちからですね」
「はい!」
騎士は封筒を差し出した。
ユリウスは中身を確認した。
そこには、補助電源の再投入直後に、直接測定側の数値が変化した記録があった。
「……これは」
フィオナが身を乗り出す。
「見せていただけますか?」
「もちろんです」
ユリウスは記録紙を渡した。
フィオナは、真剣な表情で数値を追った。
「……なるほど」
彼女は小さく呟いた。
「記録回路の操作が、測定側にも影響する場合がある……」
ユリウスが尋ねた。
「何か分かりましたか?」
「まだ、断定はできません」
フィオナは答えた。
「ですが……」
彼女は、今日の工房の記録と学園の記録を並べた。
「……似ています」
アイリスが顔を上げる。
「……どこが?」
「最初に反応が弱くなり、その後、遅れて強くなるところです」
フィオナは指で示した。
「ただし、学園の実験では変化が非常に小さいですし、再現性も十分ではありません」
ユリウスは頷いた。
「……それでも、比較する価値はありそうですね」
「はい」
フィオナは、少しだけ表情を引き締めた。
「もし、壁の内部にある回路が、外部の魔力の変化に反応しているなら……」
彼女は言葉を切った。
ガルドが尋ねる。
「……なら?」
「……壁の中の装置は、完全には停止していなかったのかもしれません」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
ユリウスは、静かに頷いた。
「……なるほど」
そして、机の上の図面へ目を落とした。
「……慎重に進める必要がありますね」
◇
その夜。
魔導騎士団本部の廊下は、静まり返っていた。
フィオナは、資料を抱えて歩いている。
その隣には、アイリスがいた。
「……フィオナさん」
「はい?」
「今日は、疲れただろう」
「……少しだけ」
フィオナは微笑んだ。
「でも、収穫もありました」
「……そうだな」
アイリスは頷いた。
「壁の中に何かあることは、かなり確かになった」
「はい」
フィオナは、少しだけ考えた。
「……アイリスさん」
「何だ?」
「今日、壁が光ったとき……」
彼女は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「……怖かったです」
アイリスは、隣を歩くフィオナを見た。
「……そうか」
「はい」
フィオナは、静かに頷いた。
「でも、アイリスさんがすぐに指示してくださったので、落ち着けました」
アイリスは、少しだけ目を細めた。
「……それなら、よかった」
フィオナは微笑んだ。
「ありがとうございます」
アイリスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……フィオナさん」
「はい?」
「怖いと思ったなら、次もちゃんと言ってくれ」
フィオナは、少しだけ驚いた。
「……いいんですか?」
「もちろんだ」
アイリスは頷いた。
「怖いのに、無理をしてほしくない」
フィオナは、静かにその言葉を聞いていた。
そして、少しだけ笑った。
「……分かりました」
二人は、再び歩き始めた。
まだ、互いのことをすべて知っているわけではない。
それでも。
相手の言葉を信じられるようになってきた。
その小さな積み重ねが、二人の距離を少しずつ縮めていた。
◇
同じ夜。
北区の工房から離れた場所にある、古い建物の一室。
薄暗い部屋の中で、一人の人物が机に向かっていた。
机の上には、いくつかの金属片。
その表面には、線と点を組み合わせた印が刻まれている。
人物は、窓の外を見つめた。
「……壁が反応したか」
低い声が漏れる。
机の上の金属片を、一つ手に取る。
「……思ったより、早いな」
その人物は、しばらく考え込んだ。
そして。
「……なら、次は……」
言葉は、そこで途切れた。
窓の外では、王都の魔導灯が静かに輝いている。
その灯りの一つが、わずかに明滅した。
まるで、何かの合図のように。
だが、その意味を知る者は、まだいなかった。




