壁の向こうの魔力
王都の北区には、古い建物が多い。
何代にもわたって使われてきた工房や倉庫が、狭い路地を挟んで並んでいる。
新しい建物のように、すべてが図面どおりとは限らない。
増築された壁。
塞がれた通路。
使われなくなった地下設備。
そして、その存在さえ忘れられた魔導回路。
今、魔導騎士団が調べている工房も、そんな建物の一つだった。
◇
「……隣の倉庫への立ち入り許可が下りました」
魔導騎士団本部の会議室で、アイリス・フェルディアが報告した。
鮮やかな青いショートウルフの髪が、肩の動きに合わせて揺れる。
向かいに座るユリウス・フォン・エーデルが頷いた。
「所有者からの協力は得られたのですね」
「はい。倉庫の使用状況を確認したうえで、立ち入りに同意していただきました」
「よかった」
隣で資料を見ていたフィオナ・リュミエールが、ほっと息を吐いた。
「これで、工房の外側から測定できますね」
「ただし、調査できる範囲は限られています」
アイリスは図面を広げた。
「倉庫には現在も荷物が保管されています。所有者から許可を得た場所だけを使用します」
「はい。十分です」
フィオナは頷いた。
その表情には、昨日までの興奮とは少し違う、落ち着いた集中があった。
ユリウスは二人を見比べた。
「今回も、安全管理はアイリスに任せます」
「承知しました」
「フィオナさんには、測定と技術的な判断をお願いします」
「はい」
「ただし、危険があると判断した場合は、調査を中止してください」
フィオナは真剣な表情で頷いた。
「分かりました」
ユリウスは、机の上の資料へ目を落とした。
そこには、昨日シオンたちが提出した測定記録も含まれている。
補助電源の再投入直後に現れた、魔力の低下と遅れた上昇。
工房の床下で観測された変化と、似た特徴を持つ記録だった。
「……学園側の測定結果については、引き続き比較を進めます」
ユリウスが言った。
「ただ、現場で何が起きているのかを確認するには、別の証拠が必要です」
「はい」
フィオナは頷いた。
「今日は、その手がかりを探したいと思います」
◇
北区の倉庫は、問題の工房から細い路地を挟んだ場所にあった。
木製の大きな扉。
積み重ねられた木箱。
古い油と乾いた木材の匂い。
倉庫の管理人は、少し不安そうな表情で騎士たちを迎えた。
「……本当に、うちの倉庫は大丈夫なんでしょうね?」
アイリスは丁寧に頭を下げた。
「現時点で、こちらの倉庫に異常があるという情報はありません。ただ、隣接する建物の調査のため、確認にご協力いただきたいのです」
「そうですか……」
管理人は、少しだけ安心したようだった。
「荷物は、あまり動かさないでくださいよ」
「承知しました」
アイリスは頷いた。
その後ろで、フィオナが小さな鞄を抱えている。
「……フィオナさん」
「はい?」
「足元に気をつけてくれ。床が少し傷んでいる」
「分かりました」
フィオナは慎重に足を運んだ。
アイリスは、その様子を確認してから倉庫の奥へ進んだ。
壁際には、古い木箱が積み上げられている。
その向こうが、問題の工房に面した壁だった。
「……ここだな」
アイリスが図面を確認する。
「はい」
フィオナは頷いた。
「この壁の向こうに、工房の床下通路があるはずです」
「……測れるのか?」
「試してみます」
フィオナは鞄から、昨日使った小型の測定器を取り出した。
掌ほどの金属箱。
表面には細い針。
そして、魔力の変化を記録する小さな紙片。
「まず、壁から離れた場所で基準値を測ります」
「分かった」
アイリスは周囲を確認した。
騎士たちが、倉庫の出入口を警戒している。
フィオナは測定器を構えた。
針は、ほとんど動かない。
「……ここは、問題なさそうです」
彼女は数値を書き留めた。
次に、壁へ近づく。
アイリスも、その隣に立った。
「……どうだ?」
「少し待ってください」
フィオナは測定器を壁へ向けた。
針が、わずかに揺れる。
「……あ」
アイリスが顔を上げる。
「何かあったか?」
「……反応があります」
フィオナは目を細めた。
「ただ、非常に弱いです」
「……昨日と同じか?」
「似ていますが、まだ比較できません」
彼女は、慎重に測定器を動かした。
壁の左側。
中央。
右側。
そのたびに、針が微妙に動く。
「……ここですね」
フィオナが、壁の一箇所を指さした。
「この辺りだけ、反応が少し強いです」
アイリスは、その場所を見つめた。
何の変哲もない石壁。
だが、よく見ると。
「……フィオナさん」
「はい?」
「この壁、色が違わないか?」
フィオナが顔を近づける。
「……あ、本当ですね」
石材の一部が、周囲よりわずかに新しい。
継ぎ目も、少しだけ不自然だった。
「……後から補修したのかもしれないな」
「はい」
フィオナは頷いた。
「改修記録とも一致します」
アイリスは、壁に触れようとしたフィオナの手を見て、声をかけた。
「……待ってくれ」
フィオナの手が止まる。
「……はい?」
「まだ触らない方がいい」
アイリスは、壁を慎重に見つめた。
「前回の工房には、床に罠があった。壁にも何か仕掛けられているかもしれない」
「……そうですね」
フィオナは素直に手を引いた。
「ありがとうございます」
アイリスは小さく頷いた。
「……測定だけにしておこう」
「はい」
フィオナは再び測定器を構えた。
そのときだった。
針が、わずかに下がった。
そして。
少し遅れて、上がった。
「……!」
フィオナの表情が変わる。
「アイリスさん」
「何だ?」
「今の反応……」
彼女は記録紙を確認した。
「昨日の工房内で観測した変化と、似ています」
アイリスは、壁を見つめた。
「……つまり、この向こうに何かある?」
「可能性はあります」
フィオナは頷いた。
「ただ、壁の中なのか、さらに向こうなのかは分かりません」
「……分かった」
アイリスは周囲を確認した。
「今日は、ここまでにしよう」
フィオナは、少しだけ名残惜しそうに壁を見た。
だが、すぐに頷いた。
「はい」
その返事を聞いて、アイリスは小さく息を吐いた。
(……無理をしなくなったな)
いや。
正確には、無理をしないよう意識しているのだろう。
その違いは、意外と大きい。
◇
倉庫を出ると、午後の陽射しが路地を照らしていた。
フィオナは、記録紙を見ながら歩いている。
「……フィオナさん」
アイリスが声をかけた。
「はい?」
「歩きながら読むのは危ないぞ」
「……あ」
フィオナは顔を上げた。
目の前には、小さな段差。
「……すみません」
「いや」
アイリスは苦笑した。
「本当に、研究のことになると周りが見えなくなるんだな」
「……よく言われます」
フィオナは少し恥ずかしそうに笑った。
「でも、今日はちゃんと気をつけていたつもりなんです」
「……そうか」
「はい」
「……なら、もう少し気をつけよう」
「はい」
フィオナは、素直に頷いた。
アイリスは、その様子を見て少しだけ笑った。
この数日で、フィオナという人物が少しずつ分かってきた。
研究に夢中になると、周囲が見えなくなる。
だが、危険を軽く考えているわけではない。
指摘されれば、きちんと耳を傾ける。
そして、自分の間違いを認めることをためらわない。
(……悪い人ではない)
いや。
それどころか。
(……一緒に仕事をしやすい人だ)
アイリスは、そう思った。
◇
同じ頃。
王立総合学園の実習室では、俺たちが昨日の測定記録を整理していた。
「……つまり、補助電源の再投入が原因かもしれない、ってこと?」
エリオットが尋ねる。
「原因というより、きっかけかもしれない」
俺は答えた。
「きっかけ?」
「ああ」
俺は、記録用紙を並べた。
「補助電源を入れ直したとき、記録回路の内部で魔力の流れが一時的に変わった可能性がある」
リシアが頷く。
「でも、それが星晶石の反応に影響したかは、まだ分からない」
「そう」
俺は頷いた。
「だから、次は補助電源だけを切り替えて、測定器側に変化が出るか確認したい」
エリオットは目を輝かせた。
「おお! それならできそう!」
「ただし、実験用の小さな星晶石だけで」
リシアが釘を刺す。
「分かってるって!」
俺は苦笑した。
以前なら、少しでも手がかりが見つかれば、すぐに次の実験を始めたくなっていたかもしれない。
だが、今は違う。
南区や西区で起きた事故を知っている。
そして、北区の工房には、実際に危険な罠が仕掛けられていた。
軽率な判断が、誰かを傷つけるかもしれない。
(……慎重すぎるのかもしれないけど)
それでも。
俺は、記録用紙へ視線を落とした。
(……今は、これでいい)
◇
夕方。
魔導騎士団本部の会議室には、アイリスとフィオナが戻っていた。
ユリウスは、二人の報告を聞きながら図面を確認している。
「……壁の一部に、補修の痕跡があったのですね」
「はい」
アイリスが答えた。
「その付近で、弱い魔力反応が確認されました」
「フィオナさん、測定結果は?」
「こちらです」
フィオナは記録紙を差し出した。
ユリウスは、数値を確認した。
「……昨日の工房内の反応と、似ていますね」
「はい。ただし、同じ原因かどうかは分かりません」
フィオナは答えた。
「壁の内部に何かある可能性はありますが、現時点では断定できません」
ユリウスは、しばらく考えた。
「……壁を開けるには、さらに慎重な準備が必要ですね」
「はい」
アイリスが頷いた。
「所有者の許可も必要ですし、罠の有無を確認する必要があります」
「そうですね」
ユリウスは、図面を閉じた。
「まずは、改修記録を詳しく調べましょう」
「承知しました」
アイリスが答える。
フィオナも頷いた。
「私も、技術院に戻って関連資料を確認します」
「お願いします」
ユリウスは微笑んだ。
「お二人とも、お疲れさまでした」
◇
会議室を出た後。
フィオナは、廊下の窓際で立ち止まった。
外は、夕暮れの色に染まり始めている。
「……アイリスさん」
「何だ?」
「今日は、ありがとうございました」
「……またか」
アイリスは少し笑った。
「フィオナさんは、よく礼を言うな」
「そうでしょうか?」
「ああ」
フィオナは少し考えた。
「……でも、本当に助かっているので」
アイリスは、隣に立った。
「……私も助かっている」
「え?」
「フィオナさんがいなければ、あの壁の反応には気づけなかった」
フィオナは、少しだけ目を見開いた。
「……そう言っていただけると、嬉しいです」
アイリスは頷いた。
「だから、礼はお互い様だ」
フィオナは、少しだけ笑った。
「……そうですね」
二人は、しばらく窓の外を眺めた。
王都の街並み。
夕陽に染まる屋根。
遠くで鳴る鐘の音。
その静かな時間の中で、フィオナがぽつりと言った。
「……私、少し変わったかもしれません」
「……何が?」
「以前は、研究のことになると、他のことが見えなくなってしまうことが多かったんです」
アイリスは、思わず苦笑した。
「……今も、少しそうだと思うが」
「……そうですね」
フィオナも笑った。
「でも、最近は、周りのことを考えるようになりました」
「……そうか」
「はい」
フィオナは、窓の外を見つめた。
「アイリスさんと一緒に調査をしていると、自分だけでは気づけないことがあると分かります」
アイリスは、少しだけ驚いた。
「……私も同じだ」
「え?」
「フィオナさんと一緒にいると、今まで気にしなかったものを見るようになる」
フィオナは、ゆっくりとアイリスを見た。
「……例えば?」
「壁の継ぎ目とか、古い図面の違いとか」
アイリスは少し笑った。
「以前なら、そこまで気にしなかったかもしれない」
フィオナは、嬉しそうに微笑んだ。
「……それは、よかったです」
アイリスは頷いた。
そして、ふと気づいた。
いつの間にか、フィオナと話すことが自然になっている。
最初は、危険な場所へ同行する研究者として、注意深く見ていた。
だが、今は違う。
彼女の意見を聞きたいと思う。
自分の考えも、伝えたいと思う。
それは、仕事をする相手としての信頼なのだろう。
今のアイリスは、そう考えていた。
◇
その夜。
北区の古い路地裏。
人通りの少ない場所に、一人の人物が立っていた。
手には、小さな金属片。
表面には、線と点を組み合わせた印が刻まれている。
人物は、遠くに見える工房の封鎖を眺めた。
「……壁まで気づいたか」
低い声が漏れる。
その人物は、金属片を指先で転がした。
「……面倒なことになったな」
しばらく沈黙が続いた。
そして。
「……だが、まだ間に合う」
人物は、静かに踵を返した。
足音が、暗い路地の奥へ消えていく。
その頃。
王都の別の場所では、古い魔導灯が一瞬だけ明滅していた。
誰も気づかないほど、小さな変化。
だが、その灯りの奥で。
魔力の流れが、ほんのわずかに乱れていた。
そして、その乱れは。
まだ、誰にも知られないまま、王都の地下へと広がり始めていた。




