青き騎士と研究者の歩幅
王都の朝は、まだ少し肌寒かった。
魔導騎士団本部の中庭では、早朝の訓練を終えた騎士たちが、それぞれの持ち場へ戻っていく。
その中に、アイリス・フェルディアの姿もあった。
鮮やかな青い髪は、襟足を少し長く残したショートウルフ。額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、彼女は腰の剣を確かめた。
今日の予定は、北区の工房に関する再調査の準備。
昨日、王立魔導技術院の研究員フィオナ・リュミエールが指摘した、床下の配線用通路を確認するためだ。
ただし、調査を実施するかどうかは、まだ決まっていない。
前回の捜索では、工房内に仕掛けられていた魔導罠が作動した。
ガルド団長とユリウス副団長が対処したため、大きな被害は出なかったが、同じような仕掛けが残っていない保証はない。
(……研究者を同行させるなら、なおさら慎重にしなければ)
アイリスは、昨日の会話を思い出した。
『危険だからこそ、回路の構造を理解している人間が必要だと思います』
フィオナは、そう言っていた。
その理屈は分かる。
だが、危険を理解していることと、危険な場所で適切に動けることは別だ。
「……さて」
アイリスは小さく息を吐き、訓練場を後にした。
まずは、技術班との打ち合わせだ。
◇
「おはようございます!」
研究室の扉を開けた瞬間、明るい声が飛んできた。
アイリスは足を止めた。
「……フィオナさん?」
「はい」
机の向こうから、淡い銀金色の髪が覗く。
肩のあたりで切り揃えられた髪。
紫色の瞳。
王立魔導技術院の研究員、フィオナ・リュミエールが、すでに資料を広げていた。
「……早いな」
「そうでしょうか?」
「打ち合わせまでは、まだ一時間近くある」
「はい。ですので、先に確認できることを整理しておこうと思いまして」
フィオナは、机の上の紙を示した。
そこには、工房の見取り図と回収部品の図面が並んでいる。
それだけではない。
細かな文字で埋め尽くされたメモが、何枚も重ねられていた。
「……これを、今朝?」
「はい」
「……何時から?」
「ええと……」
フィオナは少し考えた。
「鐘が二度鳴る前には、来ていたと思います」
アイリスは眉をひそめた。
「……朝食は?」
「朝食?」
フィオナが首を傾げる。
その反応だけで、答えは分かった。
「……食べていないのか?」
「そういえば、まだですね」
「……」
「ですが、もう少しで整理が終わりますので」
「駄目だ」
アイリスは即答した。
フィオナが瞬きをする。
「……駄目、ですか?」
「食事を抜いて作業を続ければ、集中力が落ちる」
「それは、確かに」
「なら、食べてから続けてくれ」
フィオナは少し困ったように笑った。
「ですが、今は手を離すと、考えていたことを忘れてしまいそうで」
「……なら、書いておけばいい」
「なるほど」
フィオナは素直に頷いた。
そして、さらさらと何かを書き始める。
アイリスは、しばらくその様子を見ていた。
……一分。
……二分。
……三分。
「……フィオナさん」
「はい?」
「書き終わったか?」
「もう少しです」
アイリスは、静かに天井を仰いだ。
(……これは、思った以上に手強いな)
◇
結局、フィオナが研究室を出たのは、それから十分ほど経ってからだった。
「申し訳ありません。お待たせしてしまって」
「いや。気にしなくていい」
アイリスは廊下を歩きながら答えた。
「ただ、これから現場へ出る可能性がある。体調は整えておいてほしい」
「はい。気をつけます」
「……本当だな?」
「はい」
フィオナは真剣に頷いた。
その様子に、アイリスは少しだけ安心した。
……安心したのだが。
「ところで、アイリスさん」
「何だ?」
「騎士の方は、皆さん朝から訓練されるのですか?」
「ああ。担当によって時間は違うが、訓練は欠かせない」
「そうなんですね」
フィオナは興味深そうに頷いた。
「では、アイリスさんも?」
「もちろんだ」
「毎日?」
「基本的には」
「大変ですね」
「慣れている」
フィオナは少し考えた。
「……私も、毎朝研究をしています」
「そうなのか?」
「はい」
「……研究は訓練なのか?」
「似たようなものだと思います」
フィオナは微笑んだ。
「昨日分からなかったことが、今日分かるかもしれませんから」
アイリスは、その言葉に少しだけ目を細めた。
剣の訓練も、同じだ。
昨日できなかった動きが、今日できるようになる。
それを何度も繰り返して、少しずつ技を磨いていく。
「……そうだな」
アイリスは頷いた。
「似ているかもしれない」
フィオナは、嬉しそうに笑った。
◇
食堂は、まだ朝の混雑が残っていた。
騎士たちが朝食を取り、今日の任務について話し合っている。
アイリスは空いている席を見つけると、フィオナを案内した。
「ここなら落ち着いて食べられる」
「ありがとうございます」
フィオナは椅子に座り、運ばれてきたパンと温かいスープを見つめた。
「……美味しそうですね」
「ここの食事は悪くない」
「そうなんですか?」
「ああ。量も十分ある」
フィオナはパンを一口食べた。
そして、目を輝かせる。
「……美味しいです」
「それはよかった」
アイリスは、少しだけ口元を緩めた。
フィオナは、食事をしながら窓の外を眺めた。
中庭では、若い騎士たちが木剣を振っている。
「……アイリスさん」
「何だ?」
「剣を扱うのは、怖くありませんか?」
思いがけない質問だった。
アイリスは、すぐには答えなかった。
「……怖いことはある」
やがて、そう言った。
「本当ですか?」
「ああ」
フィオナが少し驚いたように目を見開く。
「騎士の方は、恐怖を感じないものだと思っていました」
「そんなことはない」
アイリスは首を振った。
「危険な相手と戦うときも、誰かを守らなければならないときも、怖いと思うことはある」
「……そうなんですね」
「ただ、怖いからといって、何もしないわけにはいかない」
アイリスは、自分の手を見つめた。
訓練でできた小さな傷が、指の付け根に残っている。
「だから、訓練するんだ」
「……」
「怖くても、必要なときに動けるように」
フィオナは、静かにその言葉を聞いていた。
そして。
「……少し、安心しました」
「……安心?」
「はい」
フィオナは微笑んだ。
「私も、研究で怖いと思うことがありますから」
アイリスは顔を上げた。
「……研究で?」
「はい」
フィオナはスープの器に視線を落とした。
「自分の計算が間違っていたらどうしよう、とか。見落としたことが、誰かの事故につながったらどうしよう、とか」
その声は、先ほどまでより少しだけ小さかった。
「特に、古代魔導技術は分からないことが多いので」
アイリスは黙って聞いていた。
「でも、調べなければ、ずっと分からないままです」
フィオナは顔を上げた。
「だから、できるだけ確かめてから進めるようにしています」
アイリスは、ゆっくりと頷いた。
「……それなら、私たちと同じだ」
「同じ?」
「ああ」
アイリスは、少しだけ笑った。
「危険をなくすことはできない。だが、減らす努力はできる」
フィオナは、その言葉を噛みしめるように頷いた。
「……はい」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
だが、それは気まずいものではなかった。
食堂のざわめきの中で、二人はそれぞれの朝食を口に運んだ。
◇
午前の打ち合わせには、ユリウスと技術班の責任者も参加した。
机の上には、北区の工房の見取り図が広げられている。
「……床下の配線用通路、ですか」
ユリウスが確認する。
「はい」
フィオナは頷いた。
「回収された金属板の接続部分が、途中で切れています。別の装置へ繋がっていた可能性があります」
「ただし、破損によるものかもしれない」
技術班の責任者が言った。
「そのとおりです」
フィオナは即座に認めた。
「ですので、現場の状態を確認したいと考えています」
ユリウスは図面を見つめた。
「……前回の調査では、床の仕掛けが作動しました」
「はい」
「同じような罠が残っている可能性があります」
「承知しています」
フィオナは真剣な表情で答えた。
「そのため、直接床下へ入る前に、外側から確認できる方法を考えています」
「……外側から?」
アイリスが尋ねる。
「はい」
フィオナは、小さな図面を取り出した。
「魔力の流れを測定する簡易装置です。床下に魔導回路が残っていれば、微弱な反応を拾える可能性があります」
技術班の責任者が身を乗り出した。
「……なるほど。だが、床材や周囲の設備の影響は?」
「あります」
フィオナは頷いた。
「ですので、最初に工房の外側で基準値を測ります。その後、床の各地点で比較します」
「……それなら、危険な場所へ不用意に踏み込まずに済むかもしれませんね」
ユリウスが言った。
「はい。ただし、測定できない種類の回路もあります」
フィオナは付け加えた。
「反応がないから安全、とは判断できません」
アイリスは、その言葉に頷いた。
昨日から感じていたことだが、この研究者は、分からないことを曖昧にしない。
できることと、できないことを、はっきり区別する。
それは、現場で動く騎士にとってもありがたいことだった。
「……分かりました」
ユリウスは顔を上げた。
「まずは非接触での調査を行いましょう。危険が確認された場合は、直ちに中止します」
「承知しました」
フィオナが答える。
「アイリス」
「はい」
「現場の安全管理をお願いします」
「了解しました」
ユリウスは続けた。
「フィオナさんの技術的な判断を尊重しつつ、危険があると判断した場合は、あなたの権限で作業を止めて構いません」
アイリスは、少しだけ表情を引き締めた。
「……承知しました」
フィオナが、隣から彼女を見た。
「よろしくお願いします、アイリスさん」
「ああ。こちらこそ、フィオナさん」
◇
北区の工房は、昨日と変わらず静まり返っていた。
封鎖の札が貼られた扉。
人の気配のない通り。
周囲には、警戒のために配置された騎士たちが立っている。
アイリスは、入口の前で足を止めた。
「……ここから先は、私の指示に従ってくれ」
「はい」
フィオナが頷く。
「勝手に動かないこと」
「はい」
「気になるものがあっても、すぐには触れないこと」
「はい」
「……本当に分かっているな?」
フィオナは、少しだけ笑った。
「分かっています」
アイリスは小さく息を吐いた。
「……なら、行こう」
扉が開かれる。
中には、古い作業台や棚が残されていた。
前回の調査で破壊された罠の痕跡も、そのまま保存されている。
フィオナは、室内をゆっくりと見渡した。
「……なるほど」
その声には、研究者らしい興味が滲んでいた。
だが、彼女は勝手に動かなかった。
アイリスが示した位置で立ち止まり、周囲を確認する。
「……まず、ここで測定します」
フィオナは鞄から小さな装置を取り出した。
掌ほどの大きさの金属箱。
表面には細い針があり、内部の魔力の変化を示すようになっている。
「これは?」
アイリスが尋ねた。
「簡易魔力測定器です」
「……随分小さいな」
「持ち運びやすいように作りました」
「自分で?」
「はい」
フィオナは、少しだけ照れたように笑った。
「まだ試作品ですが」
アイリスは感心した。
「……すごいな」
「そうでしょうか?」
「ああ。私には、こんなものは作れない」
フィオナは少し驚いたようにアイリスを見た。
「……でも、私には剣を扱えません」
「……そうだな」
「ですので、お互い様ですね」
アイリスは、一瞬だけ目を丸くした。
そして、思わず笑った。
「……確かに」
フィオナも微笑んだ。
それは、ほんの短いやり取りだった。
だが、二人の間にあった初対面の硬さが、少しだけ薄れた気がした。
◇
測定は、慎重に進められた。
まず、入口付近。
次に、作業台の周囲。
そして、床下の配線用通路があるとされる場所。
フィオナは、装置の針の動きを記録していく。
「……ここは、ほとんど反応がありません」
「そうか」
アイリスは周囲を警戒しながら答えた。
「次は?」
「もう少し奥を確認したいです」
「……分かった。だが、私が先に確認する」
「はい」
アイリスは一歩前に出た。
床の状態を確認する。
前回の罠が作動した場所からは、十分に距離がある。
だが、それでも油断はできない。
「……よし」
アイリスは振り返った。
「ここまでなら、来ていい」
「ありがとうございます」
フィオナが近づく。
そして、装置を床に向けた。
針が、わずかに揺れた。
「……あ」
フィオナが声を漏らす。
「何かあったか?」
「……少し、反応があります」
アイリスは表情を引き締めた。
「……危険なのか?」
「まだ分かりません」
フィオナは装置を持ち上げた。
「もう一度、同じ位置で測ります」
針が動く。
今度は、先ほどよりも小さく。
「……うーん」
フィオナは眉を寄せた。
「どうした?」
「反応が安定しません」
「……装置の問題か?」
「その可能性もあります」
フィオナは頷いた。
「あるいは、床下に残っている魔導回路が、断続的に反応しているのかもしれません」
アイリスは周囲を見渡した。
「……いったん、離れよう」
「……はい」
フィオナは素直に頷いた。
二人は、入口付近まで戻った。
そこで、フィオナは記録を見直し始めた。
「……おかしいですね」
「何が?」
「反応の出方が、少し不自然なんです」
アイリスは、記録紙を覗き込んだ。
細い線が、何度か上下している。
「……私には、よく分からないが」
「ここです」
フィオナが指さした。
「最初に、ほんの少しだけ魔力が弱くなっています」
「……ああ」
「その後、遅れて強くなっている」
アイリスは眉をひそめた。
「……それが、何を意味する?」
「分かりません」
フィオナは首を振った。
「ただ、昨日見た金属板の回路と、少し似た動きをしているように思えます」
アイリスは、ゆっくりと頷いた。
「……なら、報告しよう」
「はい」
フィオナは記録紙を丁寧にしまった。
そして、ふと顔を上げた。
「……アイリスさん」
「何だ?」
「ありがとうございます」
「……何が?」
「先ほど、すぐに離れるよう指示してくださって」
アイリスは少し驚いた。
「……当然のことだ」
「そうかもしれません」
フィオナは微笑んだ。
「でも、私一人だったら、もう少し測定を続けていたと思います」
アイリスは、少しだけ眉をひそめた。
「……それは、危険だ」
「はい」
フィオナは素直に頷いた。
「ですので、助かりました」
アイリスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……こちらこそ」
小さく答えた。
「フィオナさんがいなければ、床下の異常に気づけなかったかもしれない」
フィオナは目を瞬かせた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「……そう言っていただけると、嬉しいです」
アイリスは、なぜか少しだけ照れくさくなった。
◇
調査を終えた二人が工房を出ると、空はすでに夕暮れの色に染まり始めていた。
通りには、仕事を終えた人々の姿が増えている。
アイリスは、封鎖の確認を終えると、フィオナへ向き直った。
「……今日は、ここまでだな」
「はい」
フィオナは頷いた。
「お疲れさまでした」
「フィオナさんも」
二人は、しばらく並んで歩いた。
騎士団本部へ戻る道。
夕陽が石畳を照らしている。
「……アイリスさん」
フィオナが声をかけた。
「何だ?」
「今日、少し分かった気がします」
「……何が?」
「騎士の方が、どうしてあれほど訓練を重ねるのか」
アイリスは、隣を歩くフィオナを見た。
「……そうか?」
「はい」
フィオナは頷いた。
「危険な場所で、落ち着いて判断するためなんですね」
アイリスは少し考えた。
「……それだけじゃない」
「?」
「一緒にいる人間を、無事に帰すためでもある」
フィオナは足を止めた。
アイリスも、少し遅れて立ち止まる。
「……どうした?」
フィオナは、少しだけ驚いたような顔をしていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……素敵ですね」
「……何が?」
「その考え方です」
アイリスは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……騎士なら、普通のことだ」
「そうかもしれません」
フィオナは頷いた。
「でも、私は好きです」
その言葉に、アイリスはなぜか胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
「……そうか」
それだけ答えるのが、精一杯だった。
フィオナは、そんなアイリスの様子に気づいたのか、気づいていないのか。
いつもどおりの穏やかな表情で、再び歩き始めた。
アイリスも、その隣を歩く。
最初に会ったときより、少しだけ自然な距離で。
◇
その夜。
魔導騎士団本部の執務室では、ユリウスが調査報告を読んでいた。
「……床下に、断続的な魔力反応」
彼は、記録紙に目を落とした。
「しかも、回収した金属板の回路と似た変化がある……」
隣では、ガルドが腕を組んでいる。
「……どう思う?」
「まだ、断定はできません」
ユリウスは答えた。
「ですが、工房の床下に何らかの装置が残されている可能性はあります」
「……なら、次はそこを調べるしかねえな」
「ええ」
ユリウスは頷いた。
「ただし、今回は慎重に進めます」
「分かってるよ」
ガルドは笑った。
「お前に怒られるのは、もう十分だからな!」
「……怒らせるようなことをなさらなければよいのです」
「ははは!」
ガルドの笑い声が、執務室に響いた。
ユリウスは小さく息を吐いた。
だが、その口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
そして。
机の上の報告書には、アイリスとフィオナの名前が並んで記されていた。
二人が初めて共に行った現場調査。
その成果は、まだ小さなものだった。
だが。
北区の工房に残された謎へ、確かに一歩近づいていた。
そして、もう一つ。
青き騎士と銀金の研究者の間にも、まだ名前のつかない小さな変化が生まれ始めていた。




