選択の重さ
王立総合学園の研究棟に、朝の鐘が響いた。
窓から差し込む光が、机の上に積まれた図面と実験記録を照らしている。
シオン・クレイヴェルは、その一枚を手に取った。
魔導回路の劣化警告装置。
故郷の鍛冶職人グレンとともに開発した装置の設計図を、記憶を頼りに描き直したものだった。
当時は、魔力灯や簡単な魔導器具の故障を、事前に知らせることが目的だった。
だが今、目の前にある問題は、それよりもはるかに複雑だった。
南区と西区で発生した魔導設備の異常。
魔力供給を遮断したあとも反応を続ける星晶石。
そして、廃棄されたはずの検査装置の番号が記された証明書。
それぞれの問題が、本当につながっているのかさえ分からない。
「……やっぱり、簡単じゃないな」
シオンは小さく呟いた。
「何が?」
隣から声がした。
エリオット・ベルンが、焼き菓子を片手に覗き込んでいる。
「……朝から食べてるのか?」
「頭を使うには糖分が必要なんだよ」
「昨日も同じことを言ってなかったか?」
「昨日も頭を使ったからね」
妙に堂々とした返答だった。
シオンが苦笑すると、研究室の扉が開いた。
「二人とも、もう来ていたのね」
リシア・エルフォードが、分厚い資料を抱えて入ってくる。
肩まで伸びた深緑色の髪が揺れ、尖った耳が朝日を受けていた。
「おはよう、リシア」
「おはよう。……エリオット、机の上で食べないで」
「まだ何もこぼしてないよ?」
「こぼしてからでは遅いの」
「はい……」
エリオットは素直に菓子をしまった。
リシアは机に資料を置くと、シオンの図面へ目を向けた。
「それが、昨日話していた警告装置?」
「ああ。正確な設計図は故郷にあるから、細かい部分は違うかもしれないけど」
「構造は分かる?」
「基本的には。回路の魔力抵抗や流れの変化を拾って、一定の範囲を超えたら警告を出す仕組みだ」
リシアは図面を見つめた。
「今回の異常を検知するには、変化の速さも重要になりそうね」
「そう思う」
シオンは、別の紙を広げた。
昨日の実験記録。
魔力供給を止めたあと、測定値がゼロになり、その後に再び反応した記録だった。
「この直前の小さな揺れを拾えれば、危険な状態になる前に気づけるかもしれない」
「でも、問題があるよ」
エリオットが言った。
「何だ?」
「普通の星晶石でも、魔力の流れは多少揺れる。そこまで全部警告してたら、ずっと鳴りっぱなしになるんじゃない?」
シオンは頷いた。
「そこなんだよな」
異常を見逃してはいけない。
だが、何でも異常と判断すれば、警告装置として使い物にならない。
そして、間違った警告によって設備が停止すれば、それはそれで人々の生活に影響する。
「……判断する基準が必要ね」
リシアが言った。
「ええ。ただ、その基準を決めるには、まだ記録が足りません」
シオンは図面を見下ろした。
技術的な問題だけではない。
どこまで確かめれば、他人に使ってもらってよいと言えるのか。
その判断が、ひどく難しく感じられた。
◇
昼前。
王都北区の旧工業区画に、魔導騎士団の一隊が到着した。
かつては金属加工や魔導器具の製造で栄えた場所だったが、現在は多くの工房が閉鎖されている。
石畳の隙間から雑草が伸び、窓を板で塞いだ建物が並んでいた。
「……ずいぶん静かな場所ですね」
アイリス・フェルディアが周囲を見渡した。
「ええ。だからこそ、記録の確認が必要です」
ユリウス・フォン・エーデルが答える。
雪のように白い長髪が、冷たい風に揺れていた。
彼らが訪れたのは、公共設備管理所の帳簿に記載されていた工房だった。
南区と西区の事故に使用された結晶と、同じ検査装置番号が記された別の星晶石。
その納入先が、この工房だったのである。
「建物の所有者は?」
ユリウスが尋ねた。
「土地管理台帳では、現在は倉庫業者が借り受けていることになっています」
「工房としての営業許可は?」
「確認できませんでした」
「なるほど」
ユリウスは建物を見上げた。
古い煉瓦造りの二階建て。
扉には錆びた鎖が巻かれている。
窓から内部の様子は見えない。
「……副団長」
アイリスが声を低くした。
「踏み込みますか?」
「まだ、その必要はありません」
「ですが、帳簿には不自然な点が……」
「不自然であることと、犯罪があったことは別です」
ユリウスは静かに答えた。
「まず所有者と使用者を確認しましょう。必要なら、正式な手続きを取ります」
アイリスは頷いた。
「了解しました」
そのとき、建物の裏手から物音が聞こえた。
がたん。
木箱が倒れたような音だった。
アイリスが即座に腰の剣へ手を伸ばす。
「誰かいます!」
「待ってください」
ユリウスが制した。
二人は慎重に建物の裏手へ回った。
そこには、一人の少年がいた。
十歳ほどだろうか。
汚れた上着を着た少年が、木箱の陰で身を縮めている。
「……お前、何をしている?」
アイリスが尋ねた。
少年は怯えた顔で二人を見た。
「な、何もしてない!」
「ここは立ち入り禁止のはずですが」
ユリウスが穏やかに言う。
「……知らなかった」
「そうですか。怪我はありませんか?」
少年は首を振った。
ユリウスは少し屈み、目線を合わせる。
「私たちは魔導騎士団です。この建物について調べています。何か知っていることはありますか?」
少年はしばらく黙っていた。
やがて、小さな声で言った。
「……夜になると、荷車が来る」
アイリスの表情が変わった。
「荷車?」
「うん。何回か見た。箱を運んでた」
「いつ頃ですか?」
「……分かんない。でも、そんなに前じゃない」
「運んでいた人は?」
「顔は見てない」
ユリウスは頷いた。
「教えてくれてありがとう」
少年は、少しだけ安心したようだった。
「……怒らないの?」
「君が危険な場所に入ったことについては、注意しなければなりません」
ユリウスは微笑んだ。
「ですが、話してくれたことを怒ったりはしませんよ」
少年は俯いた。
「……もう来ない」
「それがいいでしょう」
ユリウスはアイリスへ視線を向けた。
「近隣の聞き取りを進めてください。荷車の出入りがあったか、確認しましょう」
「はい!」
アイリスが頷く。
ユリウスは、再び建物を見上げた。
廃業した工房。
不自然な検査記録。
夜間の荷物の搬入。
まだ、何かが行われていたと断定するには早い。
だが。
(……少なくとも、調べる価値はありそうですね)
ユリウスは静かに目を細めた。
◇
午後。
王立総合学園では、通常授業が終わったあとも、研究棟の一室に明かりが灯っていた。
「……よし。これでどうかな?」
エリオットが、小さな記録装置を机に置いた。
通常の測定器から送られてくる信号を、一定間隔で記録するための補助回路である。
「まだ試作品だから、長時間の記録はできないけど」
「十分よ」
リシアが頷いた。
「まずは通常の星晶石で、誤作動がないか確認しましょう」
シオンは装置を見つめた。
測定用の星晶石は、学園が用意した安全性の確認されたものだ。
問題の結晶には触れない。
騎士団と学園が定めた条件も守っている。
それでも。
「……一つ、確認していいか?」
シオンが言った。
「何?」
エリオットが顔を上げる。
「この装置、異常が起きたときに記録できるのはいい。でも、警告を出す基準はまだ決まってないよな」
「うん。そこはこれから」
「だったら、今の段階では警告装置として使わない方がいいと思う」
エリオットは少し驚いた顔をした。
「……どうして?」
「誤作動する可能性があるから」
「でも、それを確かめるための試験だろ?」
「そうなんだけど……」
シオンは言葉を止めた。
頭の中で、いくつもの可能性が浮かぶ。
もし、装置が誤った警告を出したら。
もし、警告が出るはずの場面で出なかったら。
もし、自分たちの判断が原因で、誰かが危険な目に遭ったら。
そこまで考えたところで、シオンは自分が黙り込んでいることに気づいた。
「……シオン?」
エリオットが首を傾げる。
「何か気になることがあるなら、言ってよ」
「……ああ」
シオンはゆっくり息を吐いた。
「俺は、この装置を早く完成させたいと思ってる」
「うん」
「でも、まだ分からないことが多い。今のまま現場で使ってもらって、もし判断を間違えたらって考えると……」
言葉が続かなかった。
リシアはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「それなら、現場で使う段階ではないと説明すればいいでしょう」
「……え?」
「試作品は試作品よ。完成していないものを、完成品として渡す必要はないわ」
シオンは顔を上げた。
「でも、騎士団は早く原因を知りたいはずだ」
「だからといって、確かめていない装置を使っていい理由にはならない」
リシアの声は、はっきりしていた。
「私たちが今できるのは、記録を取ること。そして、その記録がどれだけ信用できるかを調べることよ」
エリオットも頷いた。
「そうそう。最初から完璧な装置なんて作れないよ」
「……そうだな」
「それにさ」
エリオットは笑った。
「失敗するかもしれないから試験するんだろ?」
シオンは、その言葉を聞いて少し考えた。
失敗するかもしれない。
だから、何もしない。
それでは、何も分からないままだ。
だが、危険を無視して進めるのも違う。
必要なのは、どちらか一方を選ぶことではない。
どこまでなら安全に試せるのか。
どこから先は、まだ進むべきではないのか。
その線を、自分たちで考えることだった。
「……分かった」
シオンは顔を上げた。
「まずは通常の結晶で記録試験をする。警告機能は使わない。測定値が安定して記録できるか、それだけを確かめよう」
「了解!」
エリオットが笑う。
リシアも頷いた。
「それなら賛成よ」
シオンは試作品へ手を伸ばした。
まだ、不安はある。
自分の判断が正しいかどうかも分からない。
だが。
(……分からないからこそ、確かめるんだ)
そう考えることができた。
◇
試験は、順調に進んでいた。
通常の星晶石へ一定量の魔力を供給し、測定器が示す値を補助回路で記録する。
魔力を増やす。
減らす。
止める。
そのたびに、記録用の針が細かな線を描いた。
「……いい感じじゃない?」
エリオットが嬉しそうに言う。
「まだ判断は早いわ」
リシアが記録を確認する。
「同じ条件で繰り返して、結果が一致するか見ないと」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい!」
シオンは笑いながら、測定器を見つめていた。
故郷でグレンと作った装置。
あの頃は、魔導回路の仕組みを知ること自体が楽しかった。
今も、その気持ちは変わらない。
ただ。
自分が作ったものが、誰かの判断に使われる。
その重さを、以前より強く感じるようになっていた。
「……次の測定に入ろう」
シオンが言った。
エリオットが操作盤に手を伸ばす。
そのとき。
「……待って」
リシアが声を上げた。
「どうした?」
「今の記録、少し変じゃない?」
三人は紙を覗き込んだ。
魔力供給を止めた直後。
記録用の針が、わずかに揺れていた。
シオンの胸が、どきりと跳ねた。
「……まさか」
問題の星晶石と似た反応。
だが、今回使っているのは正常な結晶だ。
しかも、反応はほんの一瞬。
その後、測定値は安定している。
「……同じ現象?」
エリオットが呟く。
「まだ分からない」
シオンは答えた。
リシアも頷く。
「まず、記録装置の誤差を疑うべきね」
「……そうだな」
シオンは測定器を確認した。
針の揺れは、通常の測定器には現れていない。
補助回路の記録だけに残っていた。
「……記録装置の方に問題があるのかもしれない」
エリオットが考え込む。
「信号を拾う部分に、余計な反応が入ったのかな」
「可能性はあるわ」
リシアが言う。
「でも、それなら原因を調べないと」
シオンは頷いた。
少し前の自分なら、この小さな揺れを見て、問題の結晶と同じ異常が起きたのではないかと考え込んでいたかもしれない。
だが、今は違う。
「……一度、測定回路と記録回路を切り離して確認しよう」
シオンが提案した。
「記録装置だけで同じ揺れが出るなら、原因はそっちにある可能性が高い」
「いいね!」
エリオットが頷く。
「やってみよう!」
リシアも賛成した。
数分後。
記録装置だけを動作させた試験でも、同じような小さな揺れが確認された。
「……やっぱり」
エリオットが頭を抱えた。
「補助回路の問題かあ……」
「原因が絞れたんだから、進歩よ」
リシアが言った。
「……そうだね」
シオンは記録用紙を見つめた。
異常に見えるものが、必ずしも本当の異常とは限らない。
だからこそ、確かめなければならない。
そして。
確かめるためには、まず一歩を踏み出さなければならない。
◇
夕刻。
魔導騎士団本部。
ユリウスは、北区の調査結果をガルド・ヴァレンシュタインへ報告していた。
「……つまり、廃業した工房に荷物が運び込まれていた可能性があるってことか」
ガルドが腕を組む。
「はい。ただし、少年の証言だけでは時期や内容を特定できません」
「証明書の不備との関係も、まだ分からねえんだな」
「そのとおりです」
ユリウスは書類を差し出した。
「現在、工房の使用者と納入業者の記録を照合しています」
ガルドは頷いた。
「よし。そっちは任せる」
「承知しました」
「それと、学園の坊主たちはどうだった?」
ユリウスは少し微笑んだ。
「興味深い提案をしてくれました」
「ほう?」
「魔導回路の異常を、発生前の小さな変化から検知する方法を検討しています」
「……そんなことができるのか?」
「まだ分かりません。ですが、試す価値はあるでしょう」
ガルドは感心したように唸った。
「若いのに大したもんだな」
「ええ」
ユリウスは頷いた。
「ただし、彼らはまだ学生です。無理な協力を求めないよう、こちらも配慮する必要があります」
「分かってるよ」
ガルドは笑った。
「俺だって、子どもを危険な場所に放り込むつもりはねえ」
「……その言葉、ぜひご自身にも当てはめていただきたいものです」
「ん?」
「何でもありません」
ユリウスは静かに微笑んだ。
ガルドは首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
そのとき、扉が叩かれた。
「失礼します!」
騎士が入ってくる。
「北区の工房について、追加報告です!」
「何だ?」
ガルドが尋ねる。
「工房の使用者が判明しました。ただし……」
騎士は言葉を詰まらせた。
「……どうした?」
「使用契約の名義人が、すでに亡くなっている人物でした」
ガルドの表情が変わった。
「……何?」
ユリウスも目を細める。
「死亡時期は?」
「二年前です」
短い沈黙。
ガルドが低い声で言った。
「……契約はいつ結ばれた?」
「半年前です」
ユリウスは静かに息を吐いた。
廃棄されたはずの検査装置。
不自然な検査証明書。
夜間に運び込まれる荷物。
そして、死亡した人物の名義で結ばれた契約。
偶然や記録ミスだけでは説明しにくい事実が、少しずつ積み重なっていた。
「……団長」
ユリウスが言った。
「正式な捜査へ移行する必要がありそうです」
ガルドは頷いた。
「ああ」
そして、机の上に置かれた書類を見つめた。
「……どうやら、ただの設備事故じゃ済まなさそうだな」
◇
夜。
学園の男子寮。
シオンは机に向かい、今日の記録を整理していた。
試作品はまだ不完全だった。
測定器の誤差も、補助回路の問題も残っている。
騎士団へ提出できるような成果は、まだない。
それでも。
今日、自分たちは一つの問題を見つけ、その原因を少しだけ絞り込んだ。
小さな前進だった。
「……焦っても仕方ないか」
シオンは呟いた。
南区と西区の事故。
原因不明の星晶石。
騎士団の調査。
気になることは、いくらでもある。
だが、すべてを一度に解決することはできない。
自分にできることを、一つずつ進めるしかない。
そう考えたとき。
机の上に置いていた一通の手紙が目に入った。
故郷から届いた、グレンの手紙だった。
シオンは封を開き、読み始めた。
『シオンへ。
お前が学園で魔導技術を学んでいると聞いて、安心した。
こっちは相変わらず忙しい。
例の劣化警告装置も、少しずつ改良している。
最近は、回路の異常が出る前に、ほんのわずかな変化を拾えるようになってきた。
もっとも、まだ誤作動が多い。
お前なら、何か面白い考えを思いつくかもしれんな。
今度帰ってきたら、また一緒に試してみよう。』
シオンは、思わず笑みを浮かべた。
「……グレンさんも、同じことを考えてたのか」
遠く離れた故郷で、グレンもまた、同じような問題に向き合っている。
失敗を重ねながら。
少しずつ、前に進んでいる。
シオンは手紙を机に置いた。
そして、もう一度図面を広げる。
「……よし」
まだ、答えは出ていない。
だが、考えることはできる。
試すこともできる。
そして、必要なときには、自分で決めなければならない。
たとえ、その判断が間違っているかもしれないとしても。
シオンは羽ペンを取り、新しい図面を描き始めた。
その頃。
王都北区の古い工業区画では、魔導騎士団による正式な捜査の準備が進められていた。
静かな夜の街に、騎士たちの足音が響く。
閉ざされた工房の扉。
その向こうに何があるのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは。
王都で起きた一連の異常が、もはや単なる故障として片づけられる段階を過ぎつつあるということだった。




