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群星のヴェルシェリア  作者: セイ
第一部 目覚めの灯火

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18/116

王都で出会った二人

 王都での生活が始まって、十日が過ぎた。


 シオン・クレイヴェルは、王立魔導技術院の長い廊下を歩きながら、手元の時間割を見つめていた。


「……魔力基礎理論、魔導回路学、実技演習」


 知らない言葉ばかりだ。


 十歳になったばかりのシオンにとって、技術院での研修は想像以上に難しかった。


 クレイヴェル領では、魔法といえば灯りをともしたり、水を汲み上げたりするためのものだった。


 だが、ここでは違う。


 魔力の流れを数式で表し、魔導器具の構造を図面に起こし、失敗の原因を理論的に説明する。


 前世で会社員だったころ、仕事で覚えた専門用語に苦労したことを思い出す。


 もっとも、今度は文字どおり頭が痛くなることもあるのだが。


「……勉強すること、多すぎない?」


 誰にともなく呟いた、そのときだった。


「多いわよ。だから面白いんじゃない」


 背後から声がした。


 振り向くと、赤い髪を後ろで束ねた女性が立っていた。


 レティシア・ヴァイン。


 王立魔導技術院に所属する魔導技術者であり、一年前の北の谷の事件にも関わった人物だ。


 今日は白衣の袖を肘までまくり、腰には工具の入った革袋を下げている。


「レティシアさん」


「おはよう、シオン君。どう? 王都には慣れた?」


「道には少し。でも、授業が難しくて」


「最初から全部分かったら、私たちの仕事がなくなっちゃうわ」


 レティシアは笑いながら、シオンの時間割を覗き込んだ。


「今日は基礎測定ね。フィオナが担当するはずよ」


「はい」


「一つだけ忠告。分からないことは、分からないって言いなさい」


「……はい」


「それと、頭痛がしたらすぐ止めること。これは絶対」


 いつになく真剣な口調だった。


 シオンが頷くと、レティシアは満足そうに笑った。


「よし。じゃあ、行ってらっしゃい!」


 そう言って、彼女は大量の設計図を抱えた研究員のところへ駆けていった。


「だから、その回路を直列につないだら熱が逃げないって言ったでしょう!」


 廊下の向こうから、早速そんな声が聞こえてくる。


 シオンは思わず笑った。


 どうやら今日も、技術院は忙しそうだった。


     ◇


 午前の実習室には、シオンのほかにも数人の研修生が集まっていた。


 王立魔導技術院は研究機関だが、将来の技術者を育てるため、各地から若い研修生を受け入れている。


 ただし、シオンのような十歳の子供は珍しい。


「では、始めましょう」


 教壇に立ったフィオナ・リュミエールが、机の上に透明な球体を置いた。


 淡い金髪が肩で揺れる。


 年齢はシオンより上だが、研究員としてはまだ若い。それでも、実習が始まると彼女の説明は驚くほど明快だった。


「今日は魔力の量ではなく、流れの安定性を調べます。まず、この球体に少しだけ魔力を流してください」


 研修生たちが順番に球体へ手を触れる。


 球体の内部に光がともり、色や形が変化していった。


 シオンの番になった。


「無理に流そうとしなくていいからね」


 フィオナが声をかける。


「はい」


 シオンは球体へ手を置いた。


 淡い青色の光が生まれる。


 その瞬間、彼の視界には、光とは別のものが浮かび上がった。


 細い糸。


 球体の内部を巡る、いくつもの魔力の流れだ。


 一本だけ、ほかよりわずかに遅れている。


「……右側の流れが、少し遅いです」


 フィオナが記録板を確認した。


「正解。ほかには?」


「上のほうで、二本がぶつかっています」


「それも正解」


 周囲の研修生たちが、小さくざわめいた。


「測定板も見ずに?」


「どうやって分かるんだ?」


 シオンは、少し居心地が悪くなった。


 自分にとっては、見えているものを説明しただけだ。


 しかし、ほかの人には見えていないらしい。


 フィオナは球体の光を消した。


「シオン君の感知能力は特殊ですが、万能ではありません。今日はここまでにしましょう」


「まだ大丈夫です」


「大丈夫なうちに止めるのも訓練だよ」


 優しい声だったが、譲る気はなさそうだった。


 シオンは素直に頷いた。


     ◇


 昼休み。


 食堂へ向かおうとしたシオンは、中庭から聞こえる乾いた音に足を止めた。


 カンッ。


 カンッ。


 木と木がぶつかる音。


 中庭の一角で、一人の少年が木剣を振っていた。


 短い紺色の髪。


 鋭い灰色の瞳。


 年齢は十二歳ほどだろうか。


 動きには無駄がなく、踏み込みも速い。


 シオンは思わず見入ってしまった。


 アルベルト兄さんの剣とは違う。


 兄の剣は、相手を守りながら戦うことを意識した、落ち着いた動きだった。


 目の前の少年の剣は、もっと鋭い。


 隙を見つけた瞬間に踏み込む、攻撃的な剣だった。


「……何か用か?」


 少年が動きを止めた。


「あ、ごめん。邪魔するつもりじゃなかったんだ」


「別に邪魔じゃないけど」


 少年は木剣を肩に担いだ。


「そんなに珍しいか?」


「うん。すごく速かったから」


「……そうか?」


 少年は少し意外そうな顔をした。


「僕も兄さんに剣を教わってるけど、そんなふうには動けないよ」


「何歳?」


「十歳」


「俺は十二歳。二年も違えば、そんなもんだろ」


 少年はそう言うと、もう一本の木剣を拾い上げた。


「やってみるか?」


「えっ?」


「剣、習ってるんだろ?」


 シオンは迷った。


 見知らぬ相手との手合わせ。


 しかも、明らかに自分より強い。


 だが。


「……やってみたい」


 そう答えていた。


 少年は口元を緩めた。


「いいね」


 二人は向かい合った。


「俺はカイル。カイル・レインフォード」


「シオン・クレイヴェル」


「よろしく、シオン」


「よろしく、カイル」


 次の瞬間。


「……え?」


 シオンの木剣が、地面に転がっていた。


 何が起きたのか、ほとんど分からなかった。


「構えが高い」


 カイルが言った。


「それだと、下から払われたら簡単に崩れるぞ」


「……もう一回!」


「いいぞ」


 二度目。


 シオンは、相手の木剣をよく見た。


 いや。


 木剣そのものではなく、カイルの身体に流れる魔力を見ようとした。


 薄い糸が、腕から足へと伸びている。


 動き出す直前、わずかに流れが変わった。


 来る。


 そう思ったときには、カイルの木剣が肩に触れていた。


「痛っ!」


「……今、何かしたか?」


 カイルが眉を寄せた。


「え?」


「さっき、一瞬だけ反応が速くなった」


「魔力の流れを見ようとしたんだけど……」


「魔力?」


 カイルは興味深そうに目を細めた。


「それ、面白いな」


「でも、全然間に合わなかった」


「見えてても身体が動かなきゃ意味ないだろ」


「……そうだね」


「だったら、身体を鍛えればいい」


 あまりにも単純な答えだった。


 シオンは思わず笑ってしまった。


「カイルって、分かりやすいね」


「褒めてる?」


「たぶん」


「じゃあ、もう一回だ」


「ええっ!?」


 結局、シオンは昼休みの終わりまで、一度もカイルに勝てなかった。


     ◇


「……ひどい目に遭った」


 午後の講義を終えたシオンは、図書室の椅子に座っていた。


 腕が重い。


 足も痛い。


 何より、自分の弱さを思い知らされた。


 それでも、不思議と嫌な気分ではなかった。


 カイルは強かった。


 だが、相手を見下すような態度は一度も取らなかった。


 負けるたびに、何が悪かったのかを教えてくれた。


 最後には、明日も来いとまで言われた。


「……明日は三回くらい防げるといいな」


 シオンは小さく呟いた。


 そして、目の前の本を開いた。


『大陸諸国と古代魔導遺構』


 王都へ来てから、ずっと気になっていた本だ。


 ページには、大陸の地図が描かれていた。


 アルセリア王国。


 ヴァルディス帝国。


 リューデン王国。


 ノクティス魔王国。


 セラフィア聖教国。


 エルグラン森林連邦。


 山岳自治都市群。


 海洋都市同盟。


 シオンは指で地図をなぞった。


 クレイヴェル領は、アルセリア王国の端にある小さな領地にすぎない。


 王都でさえ、これほど広い。


 ならば、大陸全体にはどれほどの人々が暮らしているのだろう。


「その本、面白いでしょう?」


 突然、声がした。


 顔を上げると、一人の少女が立っていた。


 長い金髪を青いリボンで結び、澄んだ青い瞳をしている。


 シオンと同じくらいの年齢だろうか。


 淡い色の上質なドレスを身にまとい、背筋をまっすぐ伸ばしていた。


「……うん。色々な国のことが載っていて」


 少女は微笑んだ。


「特に、リューデン王国の歴史が面白いのよ」


「リューデン王国?」


「ええ。山に囲まれた小国だけれど、昔から優れた剣士が多いそうなの」


 少女は本の一ページを指差した。


「それに、古い遺跡もたくさんあるんですって」


「……行ってみたいな」


 シオンが呟くと、少女は嬉しそうに笑った。


「私も」


 それから、少し姿勢を正した。


「申し遅れました。ヴィオレッタ・ローゼンベルクと申します」


「シオン・クレイヴェルです」


 シオンも慌てて頭を下げた。


 少女の表情が、わずかに変わった。


「クレイヴェル……北の谷で事件があった領地の?」


「知ってるの?」


「ええ。父から聞いたわ」


 ヴィオレッタは少し声を落とした。


「大変だったそうね」


「……うん」


 シオンの脳裏に、一年前の光景が浮かんだ。


 崩れた橋。


 消えた灯り。


 谷から現れた灰色の影。


 そして、帰ってこなかった二人の衛兵。


 王都では、あの事件が古代魔導遺構の事故として語られているらしい。


 だが、シオンにとっては、単なる事故の記録ではなかった。


「……今は、だいぶ復旧したよ」


「そう。よかった」


 ヴィオレッタは、それ以上詳しく聞かなかった。


 ただ、向かいの椅子に腰を下ろした。


「その本、もう少し一緒に見てもいいかしら?」


「もちろん」


 二人は、地図を挟んで話し始めた。


     ◇


 話しているうちに、シオンは一つ気づいた。


 ヴィオレッタは、歴史や地理にとても詳しい。


 それだけではない。


 知らない国の話になると、まるで自分のことのように楽しそうに語る。


「……すごいね。よく覚えてる」


「本を読むのが好きなの」


 ヴィオレッタは微笑んだ。


「それに、知らない世界のことを考えるのって、楽しいでしょう?」


「うん。すごく分かる」


 シオンは頷いた。


 その言葉には、不思議な親近感があった。


 前世の記憶を持つ自分にとって、この世界はまだ知らないことばかりだ。


 だが、ヴィオレッタも同じように、世界の広さに憧れているらしい。


「シオン君は、将来何になりたいの?」


 突然、尋ねられた。


「……将来?」


「ええ」


 シオンは考え込んだ。


 魔導技術者。


 騎士。


 冒険者。


 王都へ来るまでは、そんな職業を身近に考えたこともなかった。


「……まだ、分からない」


 正直に答えた。


「でも、色々な場所へ行ってみたいとは思ってる」


「そう」


 ヴィオレッタは、少し羨ましそうに微笑んだ。


「いいわね」


「ヴィオレッタは?」


「私は……」


 彼女は言葉を止めた。


 ほんの一瞬。


 その瞳に、迷いのようなものが浮かんだ。


「……決められていることが、多いの」


 シオンは首を傾げた。


「決められている?」


「貴族の娘だから」


 ヴィオレッタは静かに答えた。


「自分の希望だけで、将来を決められるわけではないのよ」


 シオンは、何と答えればいいのか分からなかった。


 自分も男爵家の三男だ。


 貴族の家に生まれた以上、自由にならないことがあるのは理解している。


 だが、ヴィオレッタの言葉には、それだけではない重さがあった。


「……でも」


 シオンは、少し考えてから言った。


「まだ、何も決まってないかもしれないよ」


 ヴィオレッタが顔を上げた。


「え?」


「これから何が起こるかなんて、誰にも分からないし」


 シオンは笑った。


「僕だって、去年は王都に来るなんて思ってなかった」


 ヴィオレッタは、しばらく黙っていた。


 そして。


「……そうね」


 小さく微笑んだ。


「そうかもしれないわね」


     ◇


 図書室を出たあと、ヴィオレッタは廊下の窓辺で足を止めた。


 シオンの姿が見えなくなったことを確かめる。


 そして、小さく息を吐いた。


「……何も決まっていない、か」


 その言葉を、もう一度口の中で繰り返す。


 彼女には、誰にも話していない秘密があった。


 幼いころから、時折思い出す奇妙な記憶。


 見たことのない建物。


 聞いたことのない言葉。


 そして、物語のように描かれた、一人の公爵令嬢の人生。


 その令嬢の名前は、ヴィオレッタ・ローゼンベルク。


 自分と同じ名前だった。


 記憶の中で、彼女は多くの人に嫌われ、最後にはすべてを失っていた。


 だからこそ、ヴィオレッタは慎重に生きてきた。


 誰かを傷つけないように。


 間違った選択をしないように。


 物語の中の悪役令嬢にならないように。


「……本当に、変えられるのかしら」


 窓の外には、王都の街並みが広がっている。


 遠くで鐘が鳴った。


 ヴィオレッタは、静かに目を閉じた。


     ◇


 翌日の昼休み。


 シオンは、再び中庭へ向かった。


 そこには、すでにカイルが待っていた。


「遅いぞ」


「まだ時間前だよ」


「なら、早く始めようぜ」


 カイルは木剣を一本投げてよこした。


 シオンが受け取る。


「今日は、昨日より少しは頑張るから」


「期待してる」


 二人が構えた、そのときだった。


「あら。剣の練習?」


 聞き覚えのある声がした。


 振り向くと、ヴィオレッタが立っていた。


「ヴィオレッタ!」


 シオンが声を上げる。


 カイルは、少し不思議そうな顔をした。


「知り合い?」


「うん。昨日、図書室で会ったんだ」


 シオンは二人を紹介した。


「こちらがカイル・レインフォード。こっちがヴィオレッタ・ローゼンベルク」


 カイルは軽く頭を下げた。


「よろしく」


 ヴィオレッタも微笑んだ。


「よろしくお願いします」


 だが、カイルはすぐに眉を上げた。


「……ローゼンベルク?」


「ええ」


「もしかして、公爵家の?」


「そうです」


 カイルは、ゆっくりシオンを見た。


「……お前、すごい人と知り合ったな」


「僕も、今知った」


「今!?」


 カイルの声が中庭に響いた。


 ヴィオレッタは、口元に手を当てて笑った。


「そんなに気にしなくていいわ」


「いや、普通は気にするだろ」


「では、今までどおりに話してくださる?」


 カイルは少し考えた。


 そして、肩をすくめた。


「……分かった。じゃあ、ヴィオレッタ」


「はい」


「剣の練習、見ていく?」


 ヴィオレッタは少し驚いたあと、楽しそうに微笑んだ。


「ええ。ぜひ」


 シオンは、二人のやり取りを見て笑った。


 王都に来て、まだ十日あまり。


 知らないことばかりで、失敗も多い。


 それでも。


 少しずつ、この街に自分の居場所ができている。


 そんな気がした。


「じゃあ、始めるぞ!」


 カイルが木剣を構える。


 シオンも、慌てて構え直した。


 ヴィオレッタが、少し離れた場所から二人を見守っている。


 そして。


「……あっ!」


 開始から三秒。


 シオンの木剣が、再び地面に転がった。


「昨日より短くない?」


 カイルが首を傾げる。


「……言わないで」


 ヴィオレッタの笑い声が、中庭に響いた。


 こうして、三人の交流が始まった。


 まだ誰も知らない。


 それぞれが抱える秘密も。


 これから進む道も。


 そして、いつか三人が、まったく違う立場で再会することになる未来も。


 今はただ、王都の穏やかな昼下がりだった。

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