門が開いた日
その日、クレイヴェル領の北の空が裂けた。
採石場から立ち上った青白い光は、雲を貫き、北の谷へと降り注いだ。
地鳴りが村全体を揺らす。
屋敷の窓が震え、棚から食器が落ちた。
「全員、広間から離れて!」
マリアの声が響いた。
避難していた住民たちが、一斉に動き出す。
シオンはミリアの手を握り、庭へ向かった。
その途中、北の山が見えた。
山の稜線の上に、巨大な光の輪が浮かんでいる。
輪の内側には、夜のような暗闇が広がっていた。
真昼だというのに、そこだけ星が見える。
「……あれ、何?」
ミリアが震える声で尋ねた。
シオンは答えられなかった。
ただ、分かったことが一つある。
あれは、もう魔力灯の故障ではない。
何かが、この世界に起ころうとしていた。
◇
採石場では、崩落が始まっていた。
「出口へ走れ!」
アルベルトが叫ぶ。
作業員たちは、落石を避けながら通路を駆け抜ける。
ダリオは測定器を抱え、必死に走っていた。
その後ろで、レティシアが補助回路を操作している。
「レティシアさん!」
「先に行って!」
「何をしているんです!」
「補助回路を切らないと、魔力が逆流する!」
ダリオは足を止めた。
「一人では無理です!」
レティシアは舌打ちした。
「……なら、こっちの弁を閉じて!」
二人は装置へ駆け寄った。
巨大な星晶石が、激しく明滅している。
ダリオは弁を回した。
だが、動かない。
「固着しています!」
「工具を!」
レティシアが叫ぶ。
ダリオは工具を差し込み、全身の力を込めた。
ギギギ……!
弁が、わずかに動いた。
その瞬間。
天井から巨大な岩が落ちてきた。
「危ない!」
アルベルトが二人を突き飛ばした。
轟音。
岩が床を砕き、通路を塞ぐ。
「アルベルト様!」
ダリオが叫んだ。
土煙の向こうで、アルベルトが倒れていた。
左腕が、不自然な方向に曲がっている。
「……大丈夫だ」
アルベルトは歯を食いしばった。
「それより、装置を止めろ!」
レティシアは立ち上がり、補助回路の中心へ手を伸ばした。
「……これで!」
星晶石を固定していた留め具を外す。
次の瞬間、補助回路が砕け散った。
青白い光が爆発するように広がり、三人を吹き飛ばした。
そして。
採石場の巨大な装置が、完全に沈黙した。
◇
だが、北の谷では別のことが起きていた。
金属の輪が、地面からゆっくりと浮かび上がっていた。
周囲の岩盤が崩れ、古代の装置が全貌を現す。
高さは、屋敷の塔よりも大きい。
輪の中央には、黒い空間が広がっていた。
その向こうから、冷たい風が吹き出している。
やがて。
黒い空間の奥に、一つの影が現れた。
人間に似た姿。
だが、身体は薄い霧のように揺らいでいる。
影は、ゆっくりと門を越えた。
地面に足をつけた瞬間、その身体が形を持ち始める。
長い手足。
灰色の皮膚。
顔には、目も鼻もない。
ただ、口のような裂け目だけがあった。
影は、北の山を見下ろした。
そして、村の方角へ歩き始めた。
◇
村では、避難が続いていた。
「南通りの人は教会へ!」
「子どもと老人を先に!」
エドガーの指示で、住民たちは屋敷と教会へ移動している。
だが、混乱は広がっていた。
魔力灯が使えず、井戸も止まっている。
南の橋は崩落したまま。
北の山からは、不気味な光が見える。
誰もが不安を抱えていた。
そのとき。
村の北側から、一人の男が走ってきた。
「魔物だ!」
男は叫んだ。
「北の林から、魔物が来る!」
エドガーは顔を上げた。
「数は?」
「分かりません! でも、人間みたいな形のものが……!」
エドガーは即座に命じた。
「北側の住民を退避させろ! アルベルトが戻るまで、警備隊で時間を稼ぐ!」
警備隊の男たちが武器を手に取った。
だが、彼らの装備は古い。
領地の警備隊は、普段は盗賊や獣への対応が中心だった。
未知の魔物と戦う準備など、できていない。
◇
北の林。
最初に魔物と遭遇したのは、警備隊の若い隊員だった。
「……止まれ!」
剣を構える。
灰色の影は、ゆっくりと近づいてきた。
「それ以上近づくな!」
隊員は叫んだ。
だが、影は止まらない。
やがて、影が腕を伸ばした。
その腕は、不自然に長く伸びた。
「……っ!」
隊員は剣を振るった。
刃が影の腕を切り裂く。
だが、傷口から血は流れない。
黒い霧が噴き出し、すぐに元へ戻った。
「何だ、こいつ……!」
影の腕が、隊員の胸を打った。
鈍い音。
隊員は地面へ倒れた。
動かない。
後方にいた隊長が叫ぶ。
「下がれ! 全員、下がれ!」
だが、影は既に近づいていた。
そして、林の奥から。
二体目。
三体目。
同じ姿の魔物が現れた。
◇
シオンは、屋敷の庭で北の林を見つめていた。
頭痛は、まだ続いている。
だが、今は別のものが見えていた。
灰色の影たちから、細い糸が伸びている。
その糸は、北の谷へつながっていた。
「……門から来たんだ」
シオンは呟いた。
そのとき、エリシアが駆け寄ってきた。
「シオン! ここにいたのね!」
「エリシア姉さん……」
「早く屋敷の中へ!」
シオンは頷いた。
だが、足を止めた。
「姉さん」
「何?」
「北の林にいる魔物……門とつながってる」
エリシアは目を見開いた。
「どういうこと?」
「糸が見えるんだ。魔物から、北の谷まで」
エリシアは一瞬、考え込んだ。
そして、シオンの肩に手を置いた。
「分かった。父上に伝えるわ」
「……信じてくれる?」
「もちろん」
エリシアは真剣な表情で言った。
「でも、あなたはここにいて。危ないことはしないで」
シオンは頷いた。
◇
北の林では、警備隊が必死に防衛線を維持していた。
だが、魔物たちは少しずつ前進してくる。
「矢が効かない!」
「剣でも倒せないぞ!」
隊長は歯を食いしばった。
「くそっ……!」
そのとき、後方から声が響いた。
「伏せて!」
次の瞬間、赤い光が林を駆け抜けた。
炎の槍。
それが魔物の一体を貫いた。
灰色の身体が燃え上がり、黒い霧となって消える。
「……何だ!?」
隊員たちが振り向いた。
そこには、レティシアが立っていた。
右腕には包帯が巻かれ、額から血が流れている。
だが、その目は鋭かった。
「普通の剣では効きにくいわ! 魔力を込めた攻撃なら、形を崩せる!」
レティシアは再び魔法を放った。
二体目の魔物が、炎に包まれる。
だが、三体目は素早く横へ跳んだ。
「……速い!」
魔物が、レティシアへ飛びかかる。
その瞬間。
横から一本の剣が振り下ろされた。
アルベルトだった。
左腕を吊り、右手だけで剣を握っている。
「……父上の領地で、好き勝手させるか!」
剣に、淡い光が宿っていた。
レティシアが施した、一時的な魔力付与。
刃が魔物を切り裂く。
灰色の身体が崩れ、黒い霧となって消えた。
だが、アルベルトは膝をついた。
「……っ!」
左腕の痛みが、全身を走る。
レティシアが駆け寄った。
「無茶をしないで!」
「……まだ、終わっていません」
アルベルトは林の奥を見つめた。
そこには、さらに多くの影が動いていた。
◇
日が沈む頃。
村の北側に、新たな防衛線が築かれていた。
レティシアの魔法と、警備隊の連携によって、最初の魔物たちは退けられた。
だが、被害は大きかった。
警備隊員、死亡二名。
重傷三名。
民家一棟が破壊され、住民にも負傷者が出た。
エドガーは、報告書を握りしめた。
「……二人、亡くなったのか」
報告に来た隊長は、深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝るな」
エドガーは静かに言った。
「お前たちは、村を守ってくれた」
隊長は唇を噛みしめた。
エドガーは続けた。
「亡くなった者の家族には、私から直接話す」
その声は、かすかに震えていた。
◇
夜。
シオンは、屋敷の窓から村を見下ろしていた。
広場には、焚き火がいくつも灯っている。
魔力灯が消えた村を、人々は自分たちの火で照らしていた。
シオンは、昼間に聞いた言葉を思い出していた。
死亡二名。
その数字が、頭から離れなかった。
前世では、報告書に書かれた数字を見て、何度も仕事をしてきた。
けれど、今は違う。
その数字の向こうには、名前がある。
家族がいる。
帰りを待っていた人がいる。
シオンは、窓枠を握りしめた。
そのとき、背後から声がした。
「シオン」
振り向くと、エドガーが立っていた。
「父上……」
エドガーは隣に立ち、村を見下ろした。
「怖かったか?」
シオンは、少し迷ってから頷いた。
「……うん」
「そうか」
エドガーは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「私も怖い」
シオンは驚いて父を見上げた。
「父上も?」
「ああ。領民を守れないかもしれないと思うと、怖くてたまらない」
エドガーは苦笑した。
「だが、怖いからといって、逃げるわけにはいかない」
シオンは、父の横顔を見つめた。
「……僕も、何かできるかな」
「できることはある」
エドガーは頷いた。
「だが、今は生きていてくれ。それが一番大切だ」
シオンは、ゆっくりと頷いた。
◇
同じ夜。
北の谷では、巨大な門が静かに光っていた。
門の向こうには、暗い空間が広がっている。
そして、その奥で。
何かが、こちらを見ていた。
それは、灰色の魔物たちとは違っていた。
人間のような姿。
長い外套をまとい、顔を隠している。
その人物は、門の向こうから静かに呟いた。
「……まだ、閉じていなかったのか」
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
門の表面に、複雑な紋様が浮かび上がる。
青白い光が、一瞬だけ強くなった。
だが、その人物は門を越えなかった。
ただ、何かを確かめるように、こちらの世界を見つめていた。




