帝国の思惑
ヴァルディア帝国の朝は、鐘の音とともに始まった。
皇城の高い塔から響く鐘が、石造りの街並みを越えて遠くまで広がっていく。窓の向こうには、黒い双頭の鷲を描いた旗が翻り、その下を鎧姿の兵士たちが整然と行進していた。
久世朔也は、机の上に置かれた一枚の書類を見つめていた。
昨夜、帝国から渡された協力条件の確認書。
帰還方法の研究を継続すること。三十二人の生活と安全を保障すること。そして、戦闘への参加を強制しないこと。
三つの条件は、確かに記されている。
しかし、最後に付け加えられた一文が問題だった。
『帝国の安全保障上、緊急の必要が認められる場合は、別途協議を行う』
朔也は、指先でその部分をなぞった。
協議を行うだけなら、問題はない。
だが、誰が緊急事態を判断するのか。協議がまとまらなかった場合、どうなるのか。何一つ書かれていない。
「まだ読んでるのか?」
寝台から起き上がった悠斗が、呆れたように声をかけた。
「ああ。今日、もう一度確認する」
「昨日も将軍相手に散々質問してただろ」
「まだ足りない」
「お前、将来は弁護士にでもなるつもりだったのか?」
「そんな予定はなかったけどな」
朔也が苦笑すると、悠斗も笑った。
だが、その笑顔はすぐに消えた。
「なあ、朔也。俺、今日から雷魔法の訓練を受けられるらしい」
「昨日の測定結果か」
「ああ。高位適性者は、帝国軍の専門教官が直接指導してくれるんだってさ」
悠斗は自分の右手を見つめた。
「昨日、水晶から雷が出ただろ。あれ、ちょっと怖かったけど……」
「けど?」
「正直、すげえと思った」
その声には、抑えきれない興奮が混じっていた。
「俺にも、本当に魔法が使えるんだって」
朔也は、すぐには答えなかった。
悠斗の気持ちは理解できる。
昨日まで存在すると思っていなかった力が、自分の中に眠っていた。興奮するなという方が難しい。
「訓練を受けるのは反対しないよ」
「本当か?」
「自分を守る方法を知るのは大切だからな。ただ、帝国軍に入る話とは分けて考えてほしい」
「分かってるって」
悠斗は軽く手を振った。
けれど、その返事はどこか曖昧だった。
◇
朝食後、三十二人の生徒たちは皇城の訓練場へ集められた。
昨日の能力測定に使用された水晶は片づけられ、代わりに木剣、金属製の標的、魔力測定板などが並べられている。
訓練場の中央には、帝国軍の教官たちが待っていた。
「本日より、諸君の適性に応じた基礎訓練を開始する」
教官長が声を張り上げる。
「訓練は三班に分けて実施する。高位適性班、一般適性班、特殊適性班だ」
朔也は、配布された名簿を確認した。
高橋悠斗――高位適性班。
佐伯美咲――高位適性班。
久世朔也――特殊適性班。
そのほかにも、昨日高い能力を示した生徒たちが高位適性班に振り分けられていた。
「……久世君」
美咲が近づいてきた。
「私、治癒魔法の訓練を受けるみたい」
「そうか。どう?」
「少し安心した。誰かが怪我をしたとき、助けられるかもしれないから」
美咲らしい答えだった。
彼女は昨日も、全員の人数を確認し、体調の悪い生徒がいないか一人ずつ尋ねて回っていた。
「ただ、気になることがあるの」
「何?」
「訓練の希望を聞かれる前に、班分けが決まっていたでしょう?」
朔也は名簿へ視線を落とした。
「……確かに」
「それに、昨日ほとんど反応がなかった子まで訓練を受けることになってる。本人が希望しているか、まだ確認されてないみたい」
「分かった。教官に聞いてみる」
そのとき、訓練場の反対側から歓声が上がった。
悠斗が、帝国軍の教官と向き合っていた。
「タカハシ・ユウト。右手を前へ」
「こうですか?」
「そうだ。今から教える魔力の流れを意識しろ」
悠斗が目を閉じる。
数秒後。
――バチッ!
指先から青白い火花が散った。
「うおっ!」
悠斗自身が驚いて飛び退く。
周囲の生徒たちが笑った。
だが、教官は笑わなかった。
「素晴らしい」
その声には、明らかな驚きがあった。
「初回で放電に成功するとは。しかも、魔力の損失が少ない」
「……そんなにすごいんですか?」
「十年訓練しても、その精度に到達できない者はいる」
悠斗の表情が変わった。
「……十年?」
「ああ。君には、類いまれな才能がある」
教官は、満足そうにうなずいた。
「帝国軍の雷撃魔導士として鍛えれば、将来は精鋭部隊の中核を担えるだろう」
朔也は、その言葉に引っかかった。
――帝国軍の雷撃魔導士として。
訓練を始めて、まだ一時間も経っていない。
それなのに、すでに軍人としての将来を語っている。
「すみません」
朔也は、教官へ声をかけた。
「訓練は、軍への所属を前提にしているんですか?」
教官は振り返った。
「君は?」
「久世朔也です」
「ああ。昨日の特殊適性者か」
その言葉に、近くの軍人が一瞬だけ顔を上げた。
「訓練自体は、軍への所属を義務づけるものではない」
「では、今の話は?」
「才能を評価しただけだ。本人が望めば、さらに高度な指導を受けられるという意味だよ」
教官の説明に、嘘があるとは限らない。
だが、朔也には気になることがあった。
「本人が断っても、不利益はありませんか?」
教官は、少しだけ眉をひそめた。
「……もちろんだ」
「ありがとうございます」
朔也が頭を下げると、教官は再び悠斗へ向き直った。
その直後、悠斗が小声で言った。
「……朔也」
「何?」
「俺、別に入隊するなんて言ってないだろ」
「分かってる」
「だったら、もう少し俺に任せてくれよ」
その言葉に、朔也は口を閉じた。
悠斗は怒っているわけではない。
ただ、自分のことを自分で決めたいのだ。
「……悪かった」
朔也が答えると、悠斗は少し気まずそうに笑った。
「いや、俺も言い方きつかった」
それでも、二人の間には小さな沈黙が残った。
◇
特殊適性班の訓練場は、他の班から離れた建物の中にあった。
窓の少ない石造りの部屋。
床には複雑な魔法陣が刻まれ、壁際には見慣れない計測装置が並んでいる。
「久世朔也君ですね」
白い研究服を着た男性が声をかけた。
「私は宮廷魔導研究院の測定主任です。本日は、昨日の結果を詳しく調べさせていただきます」
「訓練ではないんですか?」
「君の場合、適性が判明していませんからね。まずは安全に魔力を扱えるか確認する必要があります」
説明自体は理解できた。
だが、部屋の入口に立つ二人の兵士が気になった。
「……あの人たちは?」
「測定中の事故に備えた警備です」
「そうですか」
朔也は、部屋を見回した。
測定主任は、机の上から小さな金属板を取り上げた。
「昨日のように水晶を破損させないため、今日は魔力を微量ずつ流してもらいます」
「分かりました」
朔也が金属板に触れると、表面の紋様が淡く光った。
最初は白。
次に青。
そして、金色。
測定主任の手が止まった。
「……これは」
「何か問題が?」
「いえ。もう一度お願いします」
朔也は、指示に従った。
すると、今度は金属板の光が突然消えた。
部屋の奥で、別の装置が低い音を立てる。
測定主任は、慌てて記録板を確認した。
「魔力が消失した……?」
「え?」
「いや、正確には……」
研究員は、言葉を切った。
装置の針が、通常とは逆方向へ振れている。
まるで、測定対象から魔力を受け取るのではなく、何かを送り返そうとしているかのようだった。
「……本日の測定は、ここまでにしましょう」
「もう終わりですか?」
「はい。装置の調整が必要です」
朔也は、研究員の表情を見た。
明らかに、何かを隠している。
「俺の能力について、分かったことはありますか?」
「現段階では、まだ」
「結果が出たら、俺にも教えてください」
「……もちろんです」
研究員は、ぎこちなく笑った。
朔也は、それ以上追及しなかった。
しかし、部屋を出る直前、背後から聞こえた小さな声が耳に残った。
「……通常の魔力反応ではない。召喚陣の残留波形と照合しろ」
朔也は、足を止めかけた。
だが、振り返らなかった。
――召喚陣?
自分の能力と、あの召喚に何か関係があるのだろうか。
◇
同じ頃。
アルセリア王国、王都。
俺は、カイルとともに王立魔導研究所の一室にいた。
机の上には、帝国領内で観測された魔力波形の写しが広げられている。
昨日、ガルドさんから見せてもらったものだ。
「……どう思う?」
俺が尋ねると、カイルは腕を組んだ。
「普通の召喚術とは違うな」
「やっぱりそう思うか」
「ああ。魔力の集中方向がおかしい」
カイルは、波形の一部分を指さした。
「ここだ。魔力が一点に集まっているように見えるけど、実際には二つの異なる変動が重なっている」
「二つ?」
「片方は帝国側の魔力だろう。もう片方は……」
カイルは、そこで言葉を止めた。
「……分からない」
俺は、資料へ目を落とした。
確かに、二種類の波形がある。
だが、それを見分けるのは簡単ではない。
「よく気づいたな」
「……たまたまだ」
カイルは、素っ気なく答えた。
その反応に少し違和感を覚えたが、今は深く考えなかった。
「リューデンの第六観測記録と、似ている部分があるかもしれない」
俺が言うと、カイルが顔を上げた。
「第六観測記録?」
「ああ。古代文明が、外部から来た存在を観測していた記録だ」
俺は、慎重に言葉を選んだ。
「ただし、古代文明が召喚を行ったという証拠はない。記録されていたのは、あくまで観測結果だけだ」
「……なるほど」
カイルは、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で尋ねた。
「その記録、今はどこにある?」
「リューデン王国の王室管理下だ。俺たちが持ち帰ったのは、閲覧を許された範囲の解析資料だけだよ」
「そうか……」
カイルは、再び波形を見つめた。
その表情は、いつになく真剣だった。
俺は、椅子に腰を下ろした。
「それにしても、帝国は何を召喚したんだろうな」
「……人間かもしれない」
カイルが言った。
俺は、思わず顔を上げた。
「どうしてそう思う?」
「可能性の話だ。大規模な召喚なら、魔物や物資とは限らないだろ」
「……確かに」
俺は、腕を組んだ。
もし、人間が召喚されたのなら。
その人間は、自分の意思で来たのだろうか。
それとも、突然連れてこられたのだろうか。
胸の奥に、嫌な感覚が広がった。
俺自身、この世界に生まれ変わった理由を知らない。
前世の記憶は残っている。
だが、なぜ転生したのかは分からない。
もし、帝国が人間を異世界から呼び出したのなら。
それは、俺自身の謎にも関わるかもしれなかった。
◇
カイルは、シオンの横顔を見つめていた。
――どうして、そこまで気にする?
帝国が何かを召喚した。
それだけなら、国家間の軍事問題だ。
だが、シオンは明らかに別の何かを考えているようだった。
カイル自身にも、他人には話していない秘密がある。
前世の記憶。
科学と魔法が融合した、遠い世界。
そこでは魔力の流れを数値として扱い、機械によって制御する技術が発達していた。
カイルが迅雷流を改良するときにも、その知識は役立っている。
しかし、現在の身体では前世の理論を完全には再現できない。
《雷迅》を無理に使えば、筋肉や魔力回路に大きな負担がかかる。
今回の負傷も、その危険性を改めて思い知らせるものだった。
そして今、目の前にある帝国の魔力波形。
――位相同期。
前世の世界では、異なるエネルギーの振動を合わせるために使われていた技術だ。
帝国の波形には、それと似た特徴がある。
だが、規模が違いすぎる。
都市一つを覆うほどの魔力を同期させるなど、前世の技術でも容易ではなかった。
――偶然なのか?
それとも、帝国は何かを知っているのか。
「カイル?」
シオンの声で、意識が現実へ戻った。
「……何だ?」
「やっぱり、まだ肩が痛むのか?」
「いや。考え事をしてただけだ」
「そうか。無理はするなよ」
「お前もな」
二人は、顔を見合わせて笑った。
だが、カイルの胸には疑問が残っていた。
――シオン。
お前は、何を知っている?
◇
その日の午後。
リューデン王国、王宮。
エレノア・リューデンは、机に広げられた報告書を読んでいた。
帝国領内で観測された大規模な魔力反応。
アルセリア王国からの情報照会。
そして、リューデン国内の観測所から届いた異常記録。
「……やはり、同じ時刻ね」
エレノアは、静かにつぶやいた。
隣には、王室監察官ハロルド・セインが立っている。
「殿下。帝国の動きについて、追加の報告が入りました」
「聞かせて」
「帝国皇都で、大規模な儀式が行われた可能性があります。儀式の詳細は不明ですが、皇城周辺の警備が大幅に強化されているとのことです」
「……召喚術かしら」
「可能性はあります」
エレノアは、窓の外を見た。
リューデン王都の街並みが、午後の日差しに照らされている。
「第六観測記録の解析は?」
「王室研究官が継続しています。ただ、記録の欠損部分が多く、現時点では外部世界からの来訪を観測したという以上のことは分かっていません」
「……そう」
エレノアは、しばらく考え込んだ。
そのとき、扉が開いた。
「エレノア」
ヴァルターだった。
いつもの軽装姿で、腰には剣を帯びている。
「呼んだか?」
「ええ。帝国の件で、あなたにも聞いてほしいことがあるの」
ヴァルターは、机の上の資料を見た。
「……ずいぶん厄介な話になってるみたいだな」
「まだ、何が起きたのか分からないわ。でも、帝国が古代文明の技術を利用した可能性がある」
「それで?」
「もし本当に異世界から人を呼び出したのなら、その人たちは自分の意思で来たのかしら」
ヴァルターは、少しだけ表情を変えた。
「……帝国が、わざわざ本人の同意を取ったとは思えないな」
「私もそう思う」
エレノアは、静かにうなずいた。
「だから、確認したいの。何が召喚されたのか。もし人間なら、どんな扱いを受けているのか」
ハロルドが口を開いた。
「帝国への正式な照会を行いますか?」
「ええ。ただし、召喚が事実だと決めつけない形にして。まずは大規模儀式の有無と、その目的について説明を求めましょう」
「承知しました」
ハロルドが退室すると、ヴァルターがエレノアへ近づいた。
「……また危ないことを考えてないか?」
「まだ何もしていないわ」
「『まだ』って言ったな」
エレノアは、少しだけ笑った。
「あなたには、隠し事ができないわね」
「今さらだろ」
ヴァルターは、肩をすくめた。
エレノアは、その顔を見上げた。
「もし帝国が人を閉じ込めていたら、放っておけないと思うの」
「……ああ」
「でも、リューデン王国が簡単に軍を動かすわけにはいかない」
「分かってる」
ヴァルターは、静かに答えた。
「まずは調べる。それで、必要になったら俺を使え」
エレノアは、しばらく彼を見つめていた。
「……ありがとう」
「礼を言うのは、まだ早い」
ヴァルターは笑った。
「どうせ、面倒な仕事になるんだろ?」
「ええ。きっとね」
二人は、窓の向こうに広がる王都を見つめた。
遠く離れた帝国で起きた出来事が、やがて三国の運命を変えることになる。
その予感は、まだ誰にも確かな形では見えていなかった。
◇
夕刻。
ヴァルディア帝国の皇城。
朔也は、再びグライス将軍と向き合っていた。
今回は謁見室ではない。
小さな応接室だった。
同席しているのは、ローデリック神官長と数名の文官だけだ。
「協力条件の確認書について、追加の質問があるそうだな」
将軍が言った。
「はい」
朔也は、書類を机に置いた。
「この部分です」
指さしたのは、緊急時の協議に関する一文だった。
「帝国が緊急事態だと判断した場合、俺たちは戦わなければいけないんですか?」
「……必ずしも、そうではない」
「では、本人が拒否した場合は?」
将軍は、しばらく黙っていた。
「その場合は、事情を確認したうえで判断する」
「判断するのは、誰ですか?」
「帝国側の責任者だ」
「それでは、強制しないという約束になりません」
文官の一人が、顔を上げた。
「君は、帝国の善意を疑うのか?」
朔也は、そちらを見た。
「疑いたくはありません」
そして、静かに続けた。
「でも、俺たちは同意もなく連れてこられました。帰る方法も分からない。だから、言葉だけで安心することはできません」
室内が静まり返った。
ローデリックが、わずかに視線を落とした。
将軍は、朔也を見つめていた。
「……なるほど」
やがて、彼は文官へ視線を向けた。
「修正しろ」
「将軍?」
「戦闘参加は、本人の自由意思に基づくものとする。拒否を理由に、生活保障や帰還研究への参加資格を取り消してはならない」
朔也は、思わず顔を上げた。
「……いいんですか?」
「君の要求は、筋が通っている」
将軍は、静かに答えた。
「我々も、無理に戦わせた兵士が役に立つとは考えていない」
朔也は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし、能力測定と基礎訓練については、引き続き協力を求めたい」
「……訓練を断ることはできますか?」
「できる。ただし、魔力の暴走を防ぐための安全教育は受けてもらう」
朔也は、少し考えた。
安全教育なら、必要だろう。
「分かりました。それなら、みんなにも説明します」
将軍は、うなずいた。
「よろしい」
会談は、それで終わった。
部屋を出た朔也は、長く息を吐いた。
……少しだけ、前に進めた。
少なくとも、書面上は戦闘を強制されない。
それだけでも、大きな成果だった。
だが、朔也はまだ知らなかった。
帝国軍が、別の方法で勇者たちを戦場へ近づけようとしていることを。
◇
朔也が退室した後。
グライス将軍は、ローデリックを見た。
「……どう思う?」
「久世朔也ですか?」
「ああ」
「慎重で、仲間を守ろうとする意志が強い。容易には操れないでしょう」
「同感だ」
将軍は、机の上に置かれた能力測定の報告書を手に取った。
「だが、彼一人が三十二人全員の意思を決められるわけではない」
ローデリックは、沈黙した。
「高橋悠斗。雷属性の高位適性者」
将軍は、別の報告書を開いた。
「彼には、すでに精鋭魔導部隊が興味を示している」
「……軍への勧誘ですか?」
「本人が望めば、という形だ」
将軍は、静かに笑った。
「約束は守る。強制はしない」
そして、報告書を閉じた。
「だが、自ら戦うことを望む者まで止める必要はないだろう?」
ローデリックは、何も答えなかった。
その沈黙を、将軍は気にしなかった。
「三十二人全員を同じように扱う必要はない。それぞれが望むものを与えればいい」
将軍の視線が、壁に掛けられた帝国の地図へ向かう。
アルセリア王国との国境。
そこには、いくつもの赤い印が記されていた。
「……戦争が始まる前に、準備を整えなければな」
◇
夜。
勇者たちの宿舎。
朔也が食堂へ入ると、悠斗が数人の生徒に囲まれていた。
「だから、本当に雷が出たんだって!」
「すげえな!」
「もう一回やってみてよ!」
「いや、ここでやったら怒られるだろ!」
笑い声が広がっていた。
昨日までの重苦しい空気が、少しだけ和らいでいる。
朔也は、その光景を見て安心した。
しかし、悠斗が朔也に気づくと、少しだけ表情を変えた。
「……朔也」
「どうした?」
「今日、教官から言われたんだ」
「何を?」
「明日から、特別な訓練を受けないかって」
朔也は、眉をひそめた。
「特別な訓練?」
「ああ。雷撃魔導士の精鋭部隊が使う技術を教えてくれるらしい」
「……軍の訓練か」
「そう。でも、入隊しろって話じゃない」
悠斗は、少しだけ声を強めた。
「俺、受けてみたいんだ」
朔也は、しばらく黙っていた。
「……分かった」
悠斗が、驚いたように顔を上げた。
「え?」
「お前が自分で決めたなら、反対しない」
「……本当か?」
「ああ。ただ、条件は確認しておけよ」
悠斗は、苦笑した。
「またそれかよ」
「大事なことだからな」
「……分かってるって」
悠斗は、少しだけ笑った。
だが、その目には、今までとは違う光が宿っていた。
新しい力への期待。
自分にも何かができるという喜び。
そして、まだ本人も気づいていない小さな野心。
朔也は、それを否定することができなかった。
自分だって、もし特別な力を手に入れたら、同じように感じるかもしれない。
ただ、一つだけ不安だった。
――その力を、誰のために使うのか。
悠斗は、まだ答えを持っていない。
そして、それは朔也自身も同じだった。
◇
深夜。
帝国皇城の地下深く。
巨大な古代装置が、青白い光を放っていた。
金属とも石ともつかない材質で造られた円環。
その中央には、複雑な魔法陣が幾重にも重なっている。
装置の前には、黒い外套をまとった男が立っていた。
「……測定結果が出たそうだな」
背後から、グライス将軍の声が響いた。
「ええ」
男は、振り返らずに答えた。
「三十二人全員、召喚に成功しました。記憶の継続も確認されています」
「その中に、特別な個体がいると?」
「一人だけ、通常の測定では分類できない者がいます」
「久世朔也か」
「はい」
男は、装置の表面に浮かぶ文字を見つめた。
――EXTERNAL TRANSFER : CONFIRMED
――SUBJECT COUNT : 32
――MEMORY CONTINUITY : STABLE
その下に、新たな表示が現れていた。
――RESONANCE ANOMALY : DETECTED
男は、静かに目を細めた。
「……興味深い」
「何が分かった?」
将軍が尋ねた。
「召喚された者の中に、装置と異常な共鳴を示す存在がいます」
「それが久世朔也だと?」
「可能性は高いでしょう。ただし、まだ断定できません」
将軍は、腕を組んだ。
「……戦力として使えるのか?」
男は、ゆっくりと振り返った。
「将軍」
その声には、奇妙な静けさがあった。
「あなたは、勇者を兵士としてしか見ていないようですね」
「それが軍人の仕事だ」
「……なるほど」
男は、薄く笑った。
「ですが、今回の召喚には、もっと重要な目的があります」
将軍の表情が険しくなった。
「……何だ?」
男は、再び装置へ視線を向けた。
「この世界に存在する古代の観測記録。その欠けた部分を、埋めることです」
「観測記録?」
「ええ。かつて、この世界に現れた外部世界の存在について記したものです」
将軍は、眉をひそめた。
「それが、今回の召喚と何の関係がある?」
「まだ、確かなことは言えません」
男は、装置の光を見つめた。
「ですが、もし仮説が正しければ……」
そこで言葉を切った。
将軍が、苛立ったように尋ねる。
「……何だ?」
男は、静かに答えた。
「今回の三十二人は、最初の成功例にすぎないのかもしれません」
地下室に、低い駆動音が響いた。
古代装置の円環が、ゆっくりと回転を始める。
その光は、まるで遠い世界の何かを探しているかのようだった。
そして。
帝国の誰も気づかないまま、装置の最深部に新たな記録が刻まれた。
――EXTERNAL SIGNATURE : MULTIPLE
外部世界に由来する反応は、一つではない。
その意味を知る者は、まだいなかった。




