異世界からの勇者たち
その日の昼休み、久世朔也が考えていたのは、放課後に寄る本屋のことだった。
数学の小テストも終わった。
午後の授業は二時間。
帰宅したら、読みかけの小説を片づけよう。
そんな、どこにでもある高校生の一日。
少なくとも、世界が変わる五分前までは。
◇
「久世、今日の数学、何点くらい?」
隣の席から、高橋悠斗が身を乗り出してきた。
「八十点くらいかな」
「……裏切り者」
「何でだよ」
「昨日、一緒に難しいって言ってただろ!」
「難しいとは言ったけど、勉強してないとは言ってない」
「そういうところだぞ、お前!」
悠斗が机に突っ伏した。
朔也は苦笑しながら弁当箱を開ける。
窓の外には、よく晴れた空が広がっていた。
廊下では、別のクラスの生徒たちが騒いでいる。
教室の後方では、女子たちがスマートフォンの画面を見ながら笑っていた。
いつもの昼休みだった。
「ねえ、久世君」
声をかけてきたのは、学級委員長の佐伯美咲だった。
「午後の委員会、覚えてる?」
「ああ。放課後のやつだろ?」
「そう。先週の資料、持ってきてくれた?」
「鞄に入ってる」
「よかった。忘れてたらどうしようかと思った」
「信用ないな、俺」
「この前、提出するのを忘れてたでしょう?」
「……あれは不可抗力で」
「何が不可抗力なの?」
美咲が笑う。
朔也は、返す言葉を失った。
そのときだった。
教室の床に、細い光が走った。
「……ん?」
最初は、窓から差し込んだ光が反射したのだと思った。
だが、違う。
光は床の上を這うように伸び、複雑な模様を描き始めた。
円。
三角形。
幾重にも重なる文字のような記号。
それらが、机や椅子の下を通り抜け、教室全体へ広がっていく。
「……何これ?」
美咲が足元を見た。
悠斗も顔を上げる。
「プロジェクションマッピング?」
「そんな設備、うちの教室にないだろ」
朔也は立ち上がった。
光の線が、さらに強くなる。
その瞬間。
――キィィィン!
耳の奥を突き刺すような音が響いた。
「きゃあっ!」
「何だよ、これ!」
「先生! 先生呼んで!」
教室が、一瞬で騒然となった。
窓際の生徒が扉へ駆け寄る。
だが。
「……開かない!」
男子生徒が叫んだ。
「鍵なんかかかってないだろ!」
「分かってるよ!」
扉の取っ手が激しく揺れる。
それでも、扉はびくともしなかった。
朔也は、床を見た。
光の模様は、すでに教室全体を覆っている。
……まずい。
「みんな、落ち着いて!」
朔也は声を張り上げた。
「窓から離れて! 何が起きるか分からない!」
その声に、何人かが振り返った。
だが、次の瞬間。
床の光が、爆発するように広がった。
「……っ!」
朔也は、とっさに近くにいた美咲の腕をつかんだ。
もう片方の手で、悠斗の制服をつかむ。
「二人とも、離れるな!」
「朔也!?」
「久世君!」
足元の感覚が消えた。
体が宙へ引き上げられる。
教室の壁が遠ざかり、窓の外の景色が白く染まる。
誰かの悲鳴。
机が倒れる音。
そして、何も見えなくなった。
◇
冷たい。
最初に感じたのは、頬に触れる石の感触だった。
「……う」
朔也は、ゆっくりと目を開けた。
目の前にあったのは、教室の床ではなかった。
白い石材。
複雑な紋様。
淡く輝く巨大な円陣。
その向こうには、見上げるほど高い天井が広がっていた。
「……どこだ、ここ」
朔也は体を起こした。
周囲には、クラスメイトたちが倒れている。
制服姿の男子。
女子。
見慣れた顔。
だが、その周囲を囲んでいるのは、見知らぬ人々だった。
金属の鎧を着た兵士。
長い杖を持つ老人。
黒と赤の衣装をまとった神官らしい者たち。
そして、壁には巨大な紋章が掲げられている。
黒い双頭の鷲。
その背後に交差する二本の剣。
……何だ、あれ。
「……朔也?」
隣から声がした。
悠斗が、ゆっくりと起き上がる。
「悠斗! 大丈夫か?」
「……頭、痛い」
悠斗は周囲を見回した。
そして、目を見開いた。
「……は?」
数秒間の沈黙。
「……どこだよ、ここ!?」
その声に反応するように、周囲の生徒たちも次々と目を覚ました。
「え、何?」
「学校じゃない!」
「夢?」
「スマホ、圏外なんだけど!」
「お母さんに電話したい……!」
混乱が広がっていく。
朔也は、すぐに立ち上がった。
……まずは人数だ。
「みんな、聞いて!」
彼は、できる限り大きな声を出した。
「近くにいる人の無事を確認して! 怪我をしている人がいたら教えて!」
何人かが、朔也を見た。
「久世?」
「こっちは大丈夫!」
「こっちも!」
朔也は、周囲を見回した。
美咲が、少し離れた場所で起き上がっている。
「佐伯!」
「……久世君?」
「人数を確認してくれないか!」
美咲は、一瞬だけ戸惑った。
だが、すぐにうなずいた。
「分かった!」
……よし。
朔也は、ようやく少しだけ息を整えた。
そのとき。
「――異界より来たりし勇者たちよ!」
広間の奥から、低い声が響いた。
◇
高い階段の上に、一人の男が立っていた。
年齢は五十代ほどだろうか。
黒と赤を基調とした豪華な祭服。
胸元には、銀色の紋章。
その背後には、数人の神官が控えている。
「ようこそ、ヴァルディア帝国へ!」
男は、両手を広げた。
「長き祈りの末、ついに皆様をお迎えすることができました!」
……帝国?
朔也は眉をひそめた。
聞いたことのない国名だ。
そもそも、男の言葉も日本語ではない。
発音はまるで違う。
それなのに、意味が分かる。
「……朔也」
悠斗が、小声で尋ねた。
「今の、何語?」
「分からない」
「でも、言ってることは分かるよな?」
「ああ」
朔也は、男を見つめた。
……何かがおかしい。
いや。
ここまで来れば、おかしくないものを探す方が難しい。
「私は、ヴァルディア帝国宮廷神官長、ローデリック・アルヴェイン」
男は、堂々と名乗った。
「皆様は、我らが世界を救うため、異界より召喚された勇者なのです!」
その瞬間。
広間が、ざわめいた。
「……勇者?」
「異世界召喚?」
「嘘だろ……」
悠斗が、ぽつりと言った。
「……これ、漫画で見るやつじゃん」
朔也は、答えられなかった。
漫画や小説なら、知っている。
異世界に召喚され、特別な力を得て、魔王を倒す。
そんな物語は、いくらでもある。
だが。
自分が、その当事者になるなんて。
……冗談じゃない。
「……質問があります」
朔也は、一歩前へ出た。
神官長が、彼を見た。
「何でしょう、勇者殿」
「俺たちは、あなたたちに呼ばれたんですか?」
「はい」
神官長は、穏やかにうなずいた。
「帝国に伝わる古代召喚術によって、お迎えいたしました」
「……俺たちの同意は?」
神官長の表情が、わずかに変わった。
「……同意、ですか?」
「はい」
朔也は、まっすぐに男を見た。
「俺たちは、普通に学校にいたんです。家族もいます。帰る場所があります」
周囲の生徒たちが、静かになった。
「それなのに、突然こんな場所へ連れてこられた」
朔也は、拳を握った。
「……どうしてですか?」
神官長は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「我らが帝国は、今、大きな危機に直面しております」
「……危機?」
「魔族の脅威です」
男は、厳しい表情になった。
「近年、魔族の活動が活発化し、各地で被害が広がっています」
……魔族。
朔也は、眉をひそめた。
「それで、俺たちに戦えと?」
「皆様には、特別な力が宿っているはずです」
神官長は、静かに続けた。
「その力を、どうか我らが世界のためにお貸しください」
……お貸しください、か。
朔也は、周囲を見た。
泣いている女子生徒。
顔を青くしている男子。
状況を理解できず、呆然としている者たち。
……誰も、戦争なんか望んでいない。
「……帰る方法は?」
朔也が尋ねた。
神官長は、少しだけ目を細めた。
「……帰還の方法については、研究が進められております」
「今すぐ帰れますか?」
「……それは」
「帰れるんですか?」
朔也は、繰り返した。
沈黙。
神官長は、ゆっくりと首を振った。
「現時点では、確実な方法は確立されておりません」
その瞬間。
広間の空気が、変わった。
「……え?」
「帰れないの?」
「そんな……!」
「ふざけんなよ!」
男子生徒の一人が、怒鳴った。
「勝手に連れてきて、帰れないってどういうことだよ!」
兵士たちが、一斉に身構える。
金属音が響いた。
朔也は、すぐに振り返った。
「待って!」
生徒たちへ向けて、声を張り上げる。
「今は、落ち着こう!」
「でも、久世!」
「分かってる!」
朔也は、拳を握った。
「俺だって、納得してない!」
そして、神官長を見た。
「……ただ、ここで争っても、帰る方法は見つからない」
神官長は、静かに朔也を見つめていた。
その目には、わずかな興味が浮かんでいた。
◇
しばらくして。
生徒たちは、別の広間へ案内された。
長い机。
椅子。
温かい食事。
そして、飲み物。
待遇だけを見れば、悪くない。
だが、誰も安心していなかった。
「……三十二人」
美咲が、小さく言った。
朔也は、顔を上げた。
「……全員いる?」
「うん。教室にいた生徒は、全員いると思う」
朔也は、少しだけ息を吐いた。
……よかった。
少なくとも、誰かが行方不明になったわけではない。
「怪我をしている人は?」
「大きな怪我はないみたい。でも、気分が悪い人が何人かいる」
「……分かった」
朔也は、静かにうなずいた。
「休める場所を用意してもらおう」
美咲は、少しだけ不安そうな顔をした。
「……久世君」
「何?」
「……本当に、帰れるのかな」
朔也は、すぐには答えられなかった。
分からない。
今は、何も分からない。
だが。
「……帰ろう」
朔也は、静かに言った。
美咲が、顔を上げる。
「……え?」
「全員で帰ろう」
朔也は、まっすぐに彼女を見た。
「方法が分からないなら、探せばいい」
美咲は、しばらく黙っていた。
そして、小さくうなずいた。
「……うん」
その目には、まだ不安が残っていた。
それでも。
少しだけ、表情が和らいだ。
◇
同じ頃。
ヴァルディア帝国、皇城。
重厚な扉に守られた会議室では、皇帝の側近たちが集まっていた。
壁には、帝国領を示す巨大な地図が掲げられている。
その中央には、いくつもの赤い印が記されていた。
国境。
要塞。
軍の集結地点。
そして。
西方に位置する、アルセリア王国。
「……召喚は成功したのか?」
軍服姿の男が尋ねた。
神官長ローデリックは、静かにうなずいた。
「はい。異界より、三十二名の若者を迎えることに成功しました」
会議室が、ざわめいた。
「三十二名……」
「予想以上の人数だな」
「全員が勇者なのか?」
ローデリックは、少しだけ首を振った。
「現時点では不明です」
「……不明?」
「召喚された者たちには、特異な魔力反応が確認されています。しかし、能力の詳細はまだ判明しておりません」
軍服姿の男が、腕を組んだ。
「……では、戦力になるかどうかも分からないのか」
「はい」
ローデリックは答えた。
「ですが、召喚の成功そのものが、古代の記録に記された現象と一致しています」
その言葉に、一人の老臣が反応した。
「……古代の記録?」
「ええ」
ローデリックは、静かに続けた。
「異界からの来訪者について記された、古い文献です」
老臣は、少しだけ眉をひそめた。
「……その文献は、どこで発見された?」
ローデリックは、一瞬だけ言葉を止めた。
「……帝国の古代研究施設です」
その答えを聞いて、老臣は黙り込んだ。
……何かを知っているのだろうか。
だが、会議はそのまま進んだ。
「とにかく、召喚者たちの保護を最優先とする」
軍服姿の男が言った。
「彼らを刺激するな。必要な情報を与え、能力を確認する」
「承知しました」
ローデリックが頭を下げた。
しかし。
その表情には、どこか複雑なものが浮かんでいた。
◇
会議が終わったあと。
軍服姿の男は、窓の外を見つめていた。
帝都の街並み。
巨大な城壁。
そして、遠くに見える軍の訓練場。
「……三十二人か」
男は、小さくつぶやいた。
その背後から、別の声が響いた。
「……予想以上でしたな」
振り返ると、黒い外套を着た男が立っていた。
「……お前か」
軍服姿の男は、眉をひそめた。
「召喚術の提供者として、成果を確認しに参りました」
黒い外套の男は、静かに笑った。
「……帝国は、約束を守るのでしょうな?」
軍服姿の男は、しばらく黙っていた。
そして、低い声で答えた。
「……勇者たちが戦力になるなら、考えよう」
「……それで十分です」
黒い外套の男は、静かにうなずいた。
「彼らは、必ず帝国の力になります」
軍服姿の男は、窓の外を見た。
地平線の向こう。
そこには、アルセリア王国がある。
「……魔族への備えだけではない」
男は、小さくつぶやいた。
「帝国が次の時代を迎えるためにも、力が必要だ」
黒い外套の男は、何も答えなかった。
ただ。
その口元には、薄い笑みが浮かんでいた。
◇
夜。
召喚された生徒たちは、皇城の客室に案内されていた。
男女別の部屋。
十分な寝具。
温かい食事。
そして、警備の兵士。
待遇だけを見れば、悪くない。
だが、誰も安心していなかった。
「……朔也」
悠斗が、窓の外を見つめながら言った。
「……俺たち、本当に異世界に来たんだな」
「……そうみたいだ」
朔也は、静かに答えた。
窓の外には、見知らぬ街並みが広がっていた。
石造りの建物。
魔導灯の光。
そして、遠くに見える巨大な城壁。
……日本じゃない。
それだけは、もう疑いようがなかった。
「……なあ」
悠斗が、少しだけ声を落とした。
「もし、帰れなかったらどうする?」
朔也は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……帰る方法を探す」
「……それでも、見つからなかったら?」
「……そのとき考える」
悠斗は、少しだけ笑った。
「……お前らしいな」
朔也も、苦笑した。
だが。
心の中では、決めていた。
誰か一人だけが帰れればいいわけじゃない。
特別な力を持った者だけが、生き残ればいいわけでもない。
俺たちは、三十二人でここへ来た。
なら。
……三十二人で帰る。
それが、今の俺にできる唯一の約束だった。
◇
同じ夜。
アルセリア王国へ向かう街道。
シオン・クレイヴェルは、馬車の中で目を覚ました。
……何だ?
胸の奥に、奇妙な感覚があった。
魔力が、かすかに震えている。
いや。
自分の魔力だけではない。
周囲の空気そのものが、わずかに揺らいでいるような感覚。
「……シオン?」
隣で眠っていたヴィオレッタが、目を開けた。
「……どうしたの?」
「……いや」
シオンは、窓の外を見た。
夜空には、無数の星が輝いている。
その中で、一つだけ。
妙に明るい星が見えた。
「……何か、変な感じがする」
ヴィオレッタは、少しだけ眉をひそめた。
「……魔力?」
「……たぶん」
シオンは、静かにうなずいた。
……何だろう。
懐かしいような。
それでいて、ひどく不安になるような。
そんな感覚だった。
だが、理由は分からない。
シオンは、しばらく夜空を見つめていた。
そして、小さくつぶやいた。
「……何かが、始まったのかもしれない」
ヴィオレッタは、彼の手を取った。
「……何があっても、一緒よ」
シオンは、彼女を見た。
そして、静かに微笑んだ。
「……ああ」
馬車は、夜の街道を進んでいく。
その先に待つ、新たな運命を知らないまま。
◇
さらに遠く。
ヴァルディア帝国の地下研究施設。
古い魔導装置の前で、一人の研究者が記録を確認していた。
表示板には、異常な数値が並んでいる。
――EXTERNAL TRANSFER : CONFIRMED
――SUBJECT COUNT : 32
――MEMORY CONTINUITY : STABLE
研究者は、息をのんだ。
「……本当に、成功したのか」
その背後から、低い声が響いた。
「……成功したようだな」
振り返ると、黒い外套の男が立っていた。
研究者は、慌てて頭を下げた。
「……はい」
黒い外套の男は、装置を見つめた。
「……三十二名か」
そして、静かに笑った。
「……予想以上だ」
研究者は、少しだけ眉をひそめた。
「……ですが、召喚された者たちは、まだ何も知りません」
「……それでいい」
男は答えた。
「彼らは、これから知ることになる」
「……何を、ですか?」
黒い外套の男は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……この世界が、彼らを必要としている理由を」
装置の光が、ゆっくりと強くなっていく。
異世界から来た三十二人。
古代文明が残した観測記録。
そして、秘密組織の新たな計画。
それぞれの運命は、まだ交わっていない。
だが。
その距離は、確実に縮まり始めていた。




