伯爵家の歓迎
敵が必ずしも剣を抜くとは限らない。
笑顔で迎え、食事を振る舞い、こちらが求める資料を差し出す。
そして、何も隠していないように振る舞う。
……考えてみれば、そちらの方が厄介かもしれない。
少なくとも、目の前に広がる光景を見た俺は、そう思った。
◇
ベルハルト伯爵領の中心都市、ベルンハイム。
王都から北東へ延びる街道を進み、昼前に到着したその街は、想像していた以上に活気があった。
石造りの建物が整然と並び、中央広場には大きな噴水がある。
商店の軒先には色鮮やかな布が飾られ、荷馬車が忙しそうに行き交っていた。
「……思ったより、ずっと賑やかだな」
俺が窓の外を眺めながら言うと、エリオットがうなずいた。
「鉱山で栄えた街らしいよ。昔は魔鉱石の取引が盛んだったんだって」
「今は違うのか?」
「主要な鉱脈が枯れたらしくてね。今は加工業と交易が中心みたい」
なるほど。
閉鎖された鉱山。
古代文明の遺跡。
そして、伯爵家への不自然な保全費用。
この土地には、まだ何かが眠っているのかもしれない。
「……シオン」
隣のヴィオレッタが、小さく声をかけた。
「何?」
「あの建物、見える?」
彼女が示した先には、街を見下ろす丘があった。
その頂上に、大きな屋敷が建っている。
白い外壁。
青灰色の屋根。
周囲には美しく整えられた庭園。
「あれがベルハルト伯爵邸か」
「ええ。以前、父から話を聞いたことがあるわ」
「どんな?」
「ベルハルト家は、古くから王国北東部の鉱山と街道を管理してきた家系なの。財政的にも、それなりの力を持っているはずよ」
ヴィオレッタは、少しだけ表情を引き締めた。
「ただ、最近は中央の貴族たちとの交流が減っていると聞いたわ」
「……何か理由が?」
「分からない。でも、王宮から距離を置くようになったのは、ここ数年のことらしいの」
俺は、丘の上の屋敷を見つめた。
その屋敷が、今日の最初の訪問先だった。
◇
伯爵邸の正門には、すでに出迎えの者たちが並んでいた。
馬車が止まると、執事らしい初老の男性が一歩進み出た。
「王国監察官ハロルド・セイン卿と、調査団の皆様でいらっしゃいますね」
「そうだ」
ハロルド卿が馬車を降り、王命書を提示する。
「国王陛下の命により、古代遺跡保全費用に関する調査に参った」
「承っております」
執事は丁寧に頭を下げた。
「当主がお待ちしております。どうぞ、こちらへ」
……あっさりしているな。
もっと警戒されると思っていた。
少なくとも、王宮の不正支出に関する調査だ。
歓迎されるような話ではない。
俺がヴァルターさんを見ると、彼もわずかに眉を動かしていた。
だが、何も言わない。
俺たちは、執事の案内で屋敷へ入った。
広い玄関ホール。
磨き上げられた大理石の床。
壁には歴代当主の肖像画が並んでいる。
……立派な屋敷だ。
ただ、装飾は意外なほど控えめだった。
財力を誇示するというより、格式を守ることを重視しているように見える。
「こちらでございます」
案内された応接室には、一人の男性が立っていた。
五十代半ばほどだろうか。
灰色がかった金髪を後ろへ流し、深緑の上着を身につけている。
姿勢はまっすぐで、表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
男は、丁寧に一礼した。
「ベルハルト伯爵家当主、コンラート・フォン・ベルハルトです」
ハロルド卿が、代表して挨拶する。
「王国監察官、ハロルド・セインです。突然の調査にもかかわらず、ご協力いただき感謝します」
「とんでもありません」
伯爵は微笑んだ。
「王国の公金が適切に使われているか確認することは、当然の務めでしょう」
……正論だ。
あまりにも正論すぎて、逆に反応に困る。
「必要な資料は、すでに用意させております」
伯爵は続けた。
「施設の視察についても、可能な限り協力いたしましょう」
ハロルド卿は、慎重にうなずいた。
「それは助かります」
「ただし、閉鎖鉱山の一部は崩落の危険があります。安全上の理由から、立ち入りを制限している区域もございます」
……来た。
俺は、内心で身構えた。
閉鎖鉱山。
秘密組織が活動していると考えられる場所だ。
伯爵は、こちらの反応を確かめるように微笑んだ。
「もちろん、安全を確認できる範囲であれば、ご案内いたします」
……うまいな。
全面拒否ではない。
危険を理由に、必要な範囲だけを制限する。
それなら、こちらも簡単には反論できない。
◇
応接室を出たあと、俺たちは調査用に用意された別室へ案内された。
そこには、驚くほど多くの書類が積まれていた。
「……全部、保全費用の関係資料ですか?」
俺が尋ねると、案内役の文官がうなずいた。
「はい。過去十年分の支出記録、工事報告書、点検記録、請負契約書を揃えております」
……十年分。
それも、これだけ整理された状態で。
ハロルド卿は、無言で書類の一冊を手に取った。
俺たちも、それぞれ資料を確認し始めた。
レティシアさんは、古代遺跡の保全記録。
フィオナさんは、魔導装置の点検記録。
エリオットは、回路修復に関する図面。
俺とヴィオレッタは、支出一覧と工事日程の照合を担当した。
「……シオン」
しばらくして、ヴィオレッタが小声で呼んだ。
「何かあった?」
「この支出、見て」
彼女は、一枚の表を指さした。
そこには、毎年ほぼ同額の保全費用が記載されていた。
「……ずいぶん安定してるな」
「そうね。でも、気になるのはそこじゃないわ」
ヴィオレッタは、別の書類を並べた。
「こちらは、実際に実施した工事の一覧よ」
俺は、二つの資料を見比べた。
支出額は、毎年ほぼ一定。
だが、工事内容は年度によって大きく違っていた。
ある年は排水路の補修。
別の年は坑道の安全対策。
さらに別の年は、古代魔導装置の保護措置。
「……工事内容が違うのに、金額が似すぎてる?」
「ええ」
ヴィオレッタはうなずいた。
「定額契約なら説明はつくけれど、その契約条件が見当たらないの」
俺は、書類をもう一度確認した。
確かに。
毎年の支出額を決める根拠が、資料の中にない。
「……ハロルド卿に報告しよう」
「そうね」
俺たちは、すぐに監察官のもとへ向かった。
◇
「……なるほど」
ハロルド卿は、資料を見比べた。
「確かに、契約条件の説明が不足している」
「……不正の可能性がありますか?」
俺が尋ねると、彼は首を振った。
「まだ分からない」
そして、静かに続けた。
「書類が足りないことと、不正があったことは別だ」
……そのとおりだ。
俺はうなずいた。
「ただし、確認すべき点ではある」
ハロルド卿は、文官を呼んだ。
「この支出の根拠となる基本契約書と、各年度の精算資料を提出してほしい」
文官は、少しだけ困った表情を浮かべた。
「……確認いたします」
そして、部屋を出ていった。
俺は、その背中を見送った。
……今の反応。
何かを隠しているのか。
それとも、本当に書類の所在が分からないだけなのか。
まだ判断できない。
そのとき。
「……シオン君」
レティシアさんが、俺を呼んだ。
「ちょっと来てくれる?」
「……はい」
俺は、彼女のもとへ向かった。
机の上には、古代遺跡の図面が広げられていた。
「……これ、見て」
レティシアさんは、二枚の図面を並べた。
一枚は、伯爵領の古代施設。
もう一枚は、王宮で見つかった記録媒体の構造図だった。
「……似ていますね」
「そうなの。でも、少し変なのよ」
「……変?」
レティシアさんは、図面の一部を指さした。
「伯爵領の施設は、古代文明の観測装置を保護するためのものだと説明されているわ」
「……はい」
「でも、これを見る限り、観測装置の周囲にある回路が、全部新しいの」
俺は、眉をひそめた。
「……修復されたんじゃないですか?」
「そう考えることもできるわね」
レティシアさんはうなずいた。
「でも、修復記録には、外周の保護回路を交換したという記載がないのよ」
……なるほど。
新しい回路があるのに、工事記録がない。
それは確かに不自然だ。
「……フィオナさんは?」
「今、魔力の流れを調べてもらっているわ」
レティシアさんは、少しだけ表情を引き締めた。
「もし、保護回路じゃないとしたら……」
「……別の目的がある?」
「そういうことね」
◇
午後。
調査隊は、伯爵家の案内で古代施設へ向かった。
場所は、街の北側にある丘陵地帯。
かつて鉱山管理所として使われていた石造りの建物だった。
周囲には柵が設けられ、入口には警備員が立っている。
「こちらが、保全対象となっている古代魔導施設です」
案内役の管理官が説明した。
「現在は、安全上の理由から一般公開しておりません」
俺たちは、建物の中へ入った。
内部は、想像していたよりも整備されていた。
床は清掃され、壁には新しい照明用魔導具が設置されている。
奥の部屋には、大きな石の台座があった。
その中央には、古代文字が刻まれた金属製の装置が置かれている。
「……これが、観測装置ですか?」
エリオットが尋ねた。
「はい」
管理官はうなずいた。
「古代文明の遺物と考えられています」
レティシアさんが、装置へ近づいた。
「……なるほどね」
彼女は、表面の文字を慎重に観察する。
フィオナさんは、解析用の魔導具を取り出した。
「……少し、魔力反応を確認してもよろしいですか?」
「もちろんです」
管理官は、すぐに答えた。
……ずいぶん協力的だ。
俺は、周囲を見回した。
壁。
床。
天井。
特に怪しいものは見当たらない。
だが、何となく違和感があった。
「……シオン」
ヴィオレッタが、小声で言った。
「……どうした?」
「この施設、少し新しすぎないかしら」
俺は、改めて周囲を見た。
確かに。
古代文明の遺跡にしては、壁や床の状態が良すぎる。
もちろん、保全工事をしているのだから当然とも言える。
だが。
「……見せるために整えた、って感じはするな」
「ええ」
ヴィオレッタはうなずいた。
「少なくとも、長年放置されていた施設には見えないわ」
そのとき。
「……シオン君」
フィオナさんが、静かに声をかけた。
「……何か分かりましたか?」
「少し、気になることがあります」
彼女は、魔導具の表示を見せた。
「この装置、魔力の流れが不自然なんです」
「……不自然?」
「ええ」
フィオナさんは、台座を指さした。
「本来なら、中央の記録部分へ魔力が集まるはずなんですが……」
彼女は、壁の奥へ視線を向けた。
「……魔力が、別の方向へ流れています」
俺は、思わず眉をひそめた。
「……どこへ?」
「……この建物の外です」
エリオットが、顔を上げた。
「……外?」
「はい」
フィオナさんはうなずいた。
「しかも、地下方向へ続いているようです」
レティシアさんが、静かに言った。
「……やっぱりね」
俺は、彼女を見た。
「……何か分かったんですか?」
「この装置、観測記録を保存するためのものじゃないわ」
「……え?」
レティシアさんは、台座の側面を指さした。
「古代文字の配置が違うの。これは、情報を受け取るための装置よ」
エリオットが、すぐに図面を確認した。
「……本当だ」
彼は、少し興奮したように言った。
「この回路、外部からの信号を受け取って、別の場所へ送る構造になってる!」
俺は、フィオナさんを見た。
「……つまり?」
彼女は、静かに答えた。
「ここは、観測記録を保存する施設ではありません」
そして、壁の奥へ視線を向けた。
「……別の場所にある装置へ、情報を中継する施設です」
……中継施設。
俺は、思わず息をのんだ。
つまり。
本当の観測装置は、別の場所にある?
◇
その後、俺たちは管理官に追加の説明を求めた。
「……この施設の地下に、別の装置がある可能性があります」
フィオナさんが言うと、管理官は少しだけ困った表情を浮かべた。
「……地下、ですか?」
「はい。魔力の流れが、地下方向へ続いています」
管理官は、首を振った。
「申し訳ありませんが、当施設に地下設備はございません」
……ない?
俺は、思わずレティシアさんを見た。
彼女は、落ち着いた表情で尋ねた。
「じゃあ、地下へ続いている魔力の流れは、どう説明するの?」
「……古代文明の装置ですので、詳しいことは分かりかねます」
……なるほど。
そう来たか。
管理官は、嘘をついているとは限らない。
本当に知らない可能性もある。
だが、これ以上の説明は得られそうになかった。
ハロルド卿が、一歩前に出た。
「この施設の建設図面と、地下構造に関する調査記録を提出してほしい」
「……承知しました」
管理官は、丁寧に頭を下げた。
「確認のうえ、ご用意いたします」
……また、確認。
俺は、少しだけ嫌な予感がした。
◇
施設を出たあと。
ヴァルターさんが、俺の隣へ来た。
「……どう思う、シオン」
「……怪しいですね」
俺は答えた。
「でも、今の段階では何もできません」
「ああ」
ヴァルターさんはうなずいた。
「向こうは、こちらの調査権限を理解している」
「……だから、見せられるものだけを見せている?」
「そうだろうな」
彼は、施設を振り返った。
「……だが、あれだけ準備しているということは、何かを隠している可能性もある」
俺は、静かにうなずいた。
……問題は、その何かがどこにあるかだ。
「……シオン」
ヴァルターさんが、低い声で続けた。
「今夜は、少し警戒を強めた方がいい」
「……何か気になることが?」
「ああ」
彼は、周囲を見回した。
「……施設の警備員だ」
「……警備員?」
「人数が多すぎる」
俺は、思わず振り返った。
確かに。
入口だけでなく、建物の周囲にも複数の警備員が配置されていた。
「……古代遺跡の警備としては、普通じゃないんですか?」
「普通なら、あそこまで必要ない」
ヴァルターさんは答えた。
「しかも、何人かは動きが違った」
「……動き?」
「剣を使い慣れている」
俺は、息をのんだ。
「……兵士ですか?」
「それに近いな」
ヴァルターさんは、静かに答えた。
「ただの警備員じゃない」
……やっぱり。
あの施設には、何かがある。
◇
夕方。
伯爵邸では、調査隊のために夕食が用意されていた。
長い食卓。
銀の食器。
丁寧に盛りつけられた料理。
……正直、落ち着かない。
俺は、ヴィオレッタの隣に座っていた。
向かいには、ベルハルト伯爵。
その隣には、ハロルド卿がいる。
「本日の調査はいかがでしたかな?」
伯爵が、穏やかに尋ねた。
ハロルド卿は、慎重に答えた。
「資料の確認と施設の視察を行いました。追加で確認したい点もありますが、調査にはご協力いただいております」
「それは何よりです」
伯爵は微笑んだ。
「我が家としても、疑惑を残すことは望んでおりません」
……本当に、隙がない。
俺は、静かに料理を口へ運んだ。
そのとき。
「……シオン・クレイヴェル殿」
伯爵が、突然俺を呼んだ。
「……はい」
俺は、顔を上げた。
「あなたのお噂は、以前から耳にしております」
……噂?
嫌な予感がする。
「古代魔導技術の研究に関わり、王都でもいくつかの功績を挙げられたとか」
「……大したことはしていません」
俺は、慎重に答えた。
伯爵は、穏やかに笑った。
「ご謙遜を」
そして、少しだけ目を細めた。
「……古代文明には、ずいぶん興味がおありのようですな」
「……ええ」
俺はうなずいた。
「分からないことが多いですから」
「なるほど」
伯爵は、静かにグラスを置いた。
「……未知のものを知りたいという気持ちは、よく分かります」
その言葉に、俺は少しだけ違和感を覚えた。
伯爵は、何かを知っているのだろうか。
それとも、ただの世間話か。
「……ですが」
伯爵は、穏やかな表情のまま続けた。
「知らない方が幸せなことも、この世にはございます」
……。
俺は、思わず彼を見つめた。
伯爵は、何事もなかったように微笑んでいる。
「……ご忠告、ありがとうございます」
俺は、静かに答えた。
伯爵は、満足そうにうなずいた。
……何なんだ、この人は。
◇
夕食後。
俺たちは、宿泊用に用意された客室へ戻った。
伯爵邸の客室は広く、調度品も立派だった。
だが、安心して休める気分にはなれない。
俺は、窓の外を見つめていた。
庭園には、夜間警備の者たちが巡回している。
「……シオン」
背後から、ヴィオレッタが声をかけた。
「……何?」
「伯爵の言葉、気になっているのね」
「……ああ」
俺はうなずいた。
「知らない方が幸せなこともある、って」
ヴィオレッタは、少しだけ考え込んだ。
「……単なる忠告かもしれないわ」
「……そうだな」
「でも、今の状況では、別の意味があるようにも聞こえるわね」
俺は、苦笑した。
「……やっぱり、そう思う?」
「ええ」
彼女は、俺の隣へ来た。
「でも、シオン」
「……何?」
「私たちは、真実を知るために来たのでしょう?」
俺は、彼女を見た。
「……ああ」
「なら、怖がっていても仕方ないわ」
彼女は、静かに微笑んだ。
「もちろん、無茶は駄目だけどね」
……そうだな。
俺は、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとう」
ヴィオレッタは、少しだけ頬を赤くした。
「……別に、お礼を言われるようなことじゃないわ」
俺は、思わず笑った。
そのとき。
扉が、小さくノックされた。
「……シオン」
ヴァルターさんの声だった。
俺は、すぐに扉を開けた。
「……どうしました?」
ヴァルターさんは、廊下の左右を確認した。
そして、低い声で言った。
「……少し、面白いものを見つけた」
「……面白いもの?」
「ああ」
彼は、小さな紙片を取り出した。
そこには、短い文章が書かれていた。
――今夜、北棟の地下倉庫へ。
――誰にも知らせず、一人で来い。
俺は、思わず眉をひそめた。
「……誰からですか?」
「分からん」
ヴァルターさんは答えた。
「俺の部屋の扉の下に差し込まれていた」
……罠だ。
どう考えても。
「……行くんですか?」
俺が尋ねると、ヴァルターさんは小さく笑った。
「……まさか」
そして、紙片を指で弾いた。
「一人で来いと言われて、本当に一人で行く馬鹿がいるか」
……ですよね。
俺は、少しだけ安心した。
だが、ヴァルターさんの表情は真剣だった。
「……ただ、誰がこれを置いたのかは気になる」
彼は、静かに続けた。
「敵の罠かもしれないし、内部の協力者かもしれない」
俺は、うなずいた。
「……どうします?」
「まず、ハロルド卿に報告する」
ヴァルターさんは答えた。
「それから、北棟の周囲を調べる」
……なるほど。
無闇に動かず、まず情報を集める。
今の状況では、それが一番だろう。
◇
同じ頃。
伯爵邸の地下。
薄暗い通路を、一人の男が歩いていた。
黒い外套。
顔を覆う布。
男は、突き当たりの扉を開けた。
その先には、小さな部屋があった。
机の上には、魔導具が置かれている。
男は、その前に座る人物へ報告した。
「……手紙は渡しました」
「……そうか」
椅子に座っていた男が、静かに答えた。
「相手は?」
「ヴァルターです」
「……反応は?」
「まだ確認できていません」
男は、少しだけ考え込んだ。
そして、静かに言った。
「……おそらく、一人では来ないだろう」
「……では、失敗ですか?」
「いや」
椅子の男は、首を振った。
「……それでいい」
黒い外套の男が、眉をひそめた。
「……どういう意味ですか?」
「こちらの目的は、彼を地下倉庫へ誘い込むことではない」
男は、机の上の魔導具を見つめた。
「……彼らが、どのように動くかを確認することだ」
黒い外套の男は、しばらく黙っていた。
「……監視、ですか」
「そうだ」
椅子の男は、静かにうなずいた。
「王国最強の剣士が、どれほど慎重なのか」
そして、わずかに笑った。
「……それを知っておく必要がある」
机の上の魔導具が、青白い光を放った。
――OBSERVATION / RECORD / 06
――STATUS : INCOMPLETE
――EXTERNAL SIGNAL : DETECTED
男は、その文字を見つめた。
「……もう少しだ」
小さく、つぶやく。
「……もう少しで、必要な情報が揃う」
地下の奥で、低い機械音が響いた。
――ゴウン。
その音は、まるで何かが目覚めようとしているかのようだった。
そして。
王国の調査隊は、まだ知らない。
自分たちが調べているはずの場所で。
逆に、自分たちの行動が観測されていることを。




