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群星のヴェルシェリア  作者: セイ
第三部 古代遺跡と王国の影

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113/116

伯爵家の歓迎

 敵が必ずしも剣を抜くとは限らない。


 笑顔で迎え、食事を振る舞い、こちらが求める資料を差し出す。


 そして、何も隠していないように振る舞う。


 ……考えてみれば、そちらの方が厄介かもしれない。


 少なくとも、目の前に広がる光景を見た俺は、そう思った。


     ◇


 ベルハルト伯爵領の中心都市、ベルンハイム。


 王都から北東へ延びる街道を進み、昼前に到着したその街は、想像していた以上に活気があった。


 石造りの建物が整然と並び、中央広場には大きな噴水がある。


 商店の軒先には色鮮やかな布が飾られ、荷馬車が忙しそうに行き交っていた。


「……思ったより、ずっと賑やかだな」


 俺が窓の外を眺めながら言うと、エリオットがうなずいた。


「鉱山で栄えた街らしいよ。昔は魔鉱石の取引が盛んだったんだって」


「今は違うのか?」


「主要な鉱脈が枯れたらしくてね。今は加工業と交易が中心みたい」


 なるほど。


 閉鎖された鉱山。


 古代文明の遺跡。


 そして、伯爵家への不自然な保全費用。


 この土地には、まだ何かが眠っているのかもしれない。


「……シオン」


 隣のヴィオレッタが、小さく声をかけた。


「何?」


「あの建物、見える?」


 彼女が示した先には、街を見下ろす丘があった。


 その頂上に、大きな屋敷が建っている。


 白い外壁。


 青灰色の屋根。


 周囲には美しく整えられた庭園。


「あれがベルハルト伯爵邸か」


「ええ。以前、父から話を聞いたことがあるわ」


「どんな?」


「ベルハルト家は、古くから王国北東部の鉱山と街道を管理してきた家系なの。財政的にも、それなりの力を持っているはずよ」


 ヴィオレッタは、少しだけ表情を引き締めた。


「ただ、最近は中央の貴族たちとの交流が減っていると聞いたわ」


「……何か理由が?」


「分からない。でも、王宮から距離を置くようになったのは、ここ数年のことらしいの」


 俺は、丘の上の屋敷を見つめた。


 その屋敷が、今日の最初の訪問先だった。


     ◇


 伯爵邸の正門には、すでに出迎えの者たちが並んでいた。


 馬車が止まると、執事らしい初老の男性が一歩進み出た。


「王国監察官ハロルド・セイン卿と、調査団の皆様でいらっしゃいますね」


「そうだ」


 ハロルド卿が馬車を降り、王命書を提示する。


「国王陛下の命により、古代遺跡保全費用に関する調査に参った」


「承っております」


 執事は丁寧に頭を下げた。


「当主がお待ちしております。どうぞ、こちらへ」


 ……あっさりしているな。


 もっと警戒されると思っていた。


 少なくとも、王宮の不正支出に関する調査だ。


 歓迎されるような話ではない。


 俺がヴァルターさんを見ると、彼もわずかに眉を動かしていた。


 だが、何も言わない。


 俺たちは、執事の案内で屋敷へ入った。


 広い玄関ホール。


 磨き上げられた大理石の床。


 壁には歴代当主の肖像画が並んでいる。


 ……立派な屋敷だ。


 ただ、装飾は意外なほど控えめだった。


 財力を誇示するというより、格式を守ることを重視しているように見える。


「こちらでございます」


 案内された応接室には、一人の男性が立っていた。


 五十代半ばほどだろうか。


 灰色がかった金髪を後ろへ流し、深緑の上着を身につけている。


 姿勢はまっすぐで、表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。


「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」


 男は、丁寧に一礼した。


「ベルハルト伯爵家当主、コンラート・フォン・ベルハルトです」


 ハロルド卿が、代表して挨拶する。


「王国監察官、ハロルド・セインです。突然の調査にもかかわらず、ご協力いただき感謝します」


「とんでもありません」


 伯爵は微笑んだ。


「王国の公金が適切に使われているか確認することは、当然の務めでしょう」


 ……正論だ。


 あまりにも正論すぎて、逆に反応に困る。


「必要な資料は、すでに用意させております」


 伯爵は続けた。


「施設の視察についても、可能な限り協力いたしましょう」


 ハロルド卿は、慎重にうなずいた。


「それは助かります」


「ただし、閉鎖鉱山の一部は崩落の危険があります。安全上の理由から、立ち入りを制限している区域もございます」


 ……来た。


 俺は、内心で身構えた。


 閉鎖鉱山。


 秘密組織が活動していると考えられる場所だ。


 伯爵は、こちらの反応を確かめるように微笑んだ。


「もちろん、安全を確認できる範囲であれば、ご案内いたします」


 ……うまいな。


 全面拒否ではない。


 危険を理由に、必要な範囲だけを制限する。


 それなら、こちらも簡単には反論できない。


     ◇


 応接室を出たあと、俺たちは調査用に用意された別室へ案内された。


 そこには、驚くほど多くの書類が積まれていた。


「……全部、保全費用の関係資料ですか?」


 俺が尋ねると、案内役の文官がうなずいた。


「はい。過去十年分の支出記録、工事報告書、点検記録、請負契約書を揃えております」


 ……十年分。


 それも、これだけ整理された状態で。


 ハロルド卿は、無言で書類の一冊を手に取った。


 俺たちも、それぞれ資料を確認し始めた。


 レティシアさんは、古代遺跡の保全記録。


 フィオナさんは、魔導装置の点検記録。


 エリオットは、回路修復に関する図面。


 俺とヴィオレッタは、支出一覧と工事日程の照合を担当した。


「……シオン」


 しばらくして、ヴィオレッタが小声で呼んだ。


「何かあった?」


「この支出、見て」


 彼女は、一枚の表を指さした。


 そこには、毎年ほぼ同額の保全費用が記載されていた。


「……ずいぶん安定してるな」


「そうね。でも、気になるのはそこじゃないわ」


 ヴィオレッタは、別の書類を並べた。


「こちらは、実際に実施した工事の一覧よ」


 俺は、二つの資料を見比べた。


 支出額は、毎年ほぼ一定。


 だが、工事内容は年度によって大きく違っていた。


 ある年は排水路の補修。


 別の年は坑道の安全対策。


 さらに別の年は、古代魔導装置の保護措置。


「……工事内容が違うのに、金額が似すぎてる?」


「ええ」


 ヴィオレッタはうなずいた。


「定額契約なら説明はつくけれど、その契約条件が見当たらないの」


 俺は、書類をもう一度確認した。


 確かに。


 毎年の支出額を決める根拠が、資料の中にない。


「……ハロルド卿に報告しよう」


「そうね」


 俺たちは、すぐに監察官のもとへ向かった。


     ◇


「……なるほど」


 ハロルド卿は、資料を見比べた。


「確かに、契約条件の説明が不足している」


「……不正の可能性がありますか?」


 俺が尋ねると、彼は首を振った。


「まだ分からない」


 そして、静かに続けた。


「書類が足りないことと、不正があったことは別だ」


 ……そのとおりだ。


 俺はうなずいた。


「ただし、確認すべき点ではある」


 ハロルド卿は、文官を呼んだ。


「この支出の根拠となる基本契約書と、各年度の精算資料を提出してほしい」


 文官は、少しだけ困った表情を浮かべた。


「……確認いたします」


 そして、部屋を出ていった。


 俺は、その背中を見送った。


 ……今の反応。


 何かを隠しているのか。


 それとも、本当に書類の所在が分からないだけなのか。


 まだ判断できない。


 そのとき。


「……シオン君」


 レティシアさんが、俺を呼んだ。


「ちょっと来てくれる?」


「……はい」


 俺は、彼女のもとへ向かった。


 机の上には、古代遺跡の図面が広げられていた。


「……これ、見て」


 レティシアさんは、二枚の図面を並べた。


 一枚は、伯爵領の古代施設。


 もう一枚は、王宮で見つかった記録媒体の構造図だった。


「……似ていますね」


「そうなの。でも、少し変なのよ」


「……変?」


 レティシアさんは、図面の一部を指さした。


「伯爵領の施設は、古代文明の観測装置を保護するためのものだと説明されているわ」


「……はい」


「でも、これを見る限り、観測装置の周囲にある回路が、全部新しいの」


 俺は、眉をひそめた。


「……修復されたんじゃないですか?」


「そう考えることもできるわね」


 レティシアさんはうなずいた。


「でも、修復記録には、外周の保護回路を交換したという記載がないのよ」


 ……なるほど。


 新しい回路があるのに、工事記録がない。


 それは確かに不自然だ。


「……フィオナさんは?」


「今、魔力の流れを調べてもらっているわ」


 レティシアさんは、少しだけ表情を引き締めた。


「もし、保護回路じゃないとしたら……」


「……別の目的がある?」


「そういうことね」


     ◇


 午後。


 調査隊は、伯爵家の案内で古代施設へ向かった。


 場所は、街の北側にある丘陵地帯。


 かつて鉱山管理所として使われていた石造りの建物だった。


 周囲には柵が設けられ、入口には警備員が立っている。


「こちらが、保全対象となっている古代魔導施設です」


 案内役の管理官が説明した。


「現在は、安全上の理由から一般公開しておりません」


 俺たちは、建物の中へ入った。


 内部は、想像していたよりも整備されていた。


 床は清掃され、壁には新しい照明用魔導具が設置されている。


 奥の部屋には、大きな石の台座があった。


 その中央には、古代文字が刻まれた金属製の装置が置かれている。


「……これが、観測装置ですか?」


 エリオットが尋ねた。


「はい」


 管理官はうなずいた。


「古代文明の遺物と考えられています」


 レティシアさんが、装置へ近づいた。


「……なるほどね」


 彼女は、表面の文字を慎重に観察する。


 フィオナさんは、解析用の魔導具を取り出した。


「……少し、魔力反応を確認してもよろしいですか?」


「もちろんです」


 管理官は、すぐに答えた。


 ……ずいぶん協力的だ。


 俺は、周囲を見回した。


 壁。


 床。


 天井。


 特に怪しいものは見当たらない。


 だが、何となく違和感があった。


「……シオン」


 ヴィオレッタが、小声で言った。


「……どうした?」


「この施設、少し新しすぎないかしら」


 俺は、改めて周囲を見た。


 確かに。


 古代文明の遺跡にしては、壁や床の状態が良すぎる。


 もちろん、保全工事をしているのだから当然とも言える。


 だが。


「……見せるために整えた、って感じはするな」


「ええ」


 ヴィオレッタはうなずいた。


「少なくとも、長年放置されていた施設には見えないわ」


 そのとき。


「……シオン君」


 フィオナさんが、静かに声をかけた。


「……何か分かりましたか?」


「少し、気になることがあります」


 彼女は、魔導具の表示を見せた。


「この装置、魔力の流れが不自然なんです」


「……不自然?」


「ええ」


 フィオナさんは、台座を指さした。


「本来なら、中央の記録部分へ魔力が集まるはずなんですが……」


 彼女は、壁の奥へ視線を向けた。


「……魔力が、別の方向へ流れています」


 俺は、思わず眉をひそめた。


「……どこへ?」


「……この建物の外です」


 エリオットが、顔を上げた。


「……外?」


「はい」


 フィオナさんはうなずいた。


「しかも、地下方向へ続いているようです」


 レティシアさんが、静かに言った。


「……やっぱりね」


 俺は、彼女を見た。


「……何か分かったんですか?」


「この装置、観測記録を保存するためのものじゃないわ」


「……え?」


 レティシアさんは、台座の側面を指さした。


「古代文字の配置が違うの。これは、情報を受け取るための装置よ」


 エリオットが、すぐに図面を確認した。


「……本当だ」


 彼は、少し興奮したように言った。


「この回路、外部からの信号を受け取って、別の場所へ送る構造になってる!」


 俺は、フィオナさんを見た。


「……つまり?」


 彼女は、静かに答えた。


「ここは、観測記録を保存する施設ではありません」


 そして、壁の奥へ視線を向けた。


「……別の場所にある装置へ、情報を中継する施設です」


 ……中継施設。


 俺は、思わず息をのんだ。


 つまり。


 本当の観測装置は、別の場所にある?


     ◇


 その後、俺たちは管理官に追加の説明を求めた。


「……この施設の地下に、別の装置がある可能性があります」


 フィオナさんが言うと、管理官は少しだけ困った表情を浮かべた。


「……地下、ですか?」


「はい。魔力の流れが、地下方向へ続いています」


 管理官は、首を振った。


「申し訳ありませんが、当施設に地下設備はございません」


 ……ない?


 俺は、思わずレティシアさんを見た。


 彼女は、落ち着いた表情で尋ねた。


「じゃあ、地下へ続いている魔力の流れは、どう説明するの?」


「……古代文明の装置ですので、詳しいことは分かりかねます」


 ……なるほど。


 そう来たか。


 管理官は、嘘をついているとは限らない。


 本当に知らない可能性もある。


 だが、これ以上の説明は得られそうになかった。


 ハロルド卿が、一歩前に出た。


「この施設の建設図面と、地下構造に関する調査記録を提出してほしい」


「……承知しました」


 管理官は、丁寧に頭を下げた。


「確認のうえ、ご用意いたします」


 ……また、確認。


 俺は、少しだけ嫌な予感がした。


     ◇


 施設を出たあと。


 ヴァルターさんが、俺の隣へ来た。


「……どう思う、シオン」


「……怪しいですね」


 俺は答えた。


「でも、今の段階では何もできません」


「ああ」


 ヴァルターさんはうなずいた。


「向こうは、こちらの調査権限を理解している」


「……だから、見せられるものだけを見せている?」


「そうだろうな」


 彼は、施設を振り返った。


「……だが、あれだけ準備しているということは、何かを隠している可能性もある」


 俺は、静かにうなずいた。


 ……問題は、その何かがどこにあるかだ。


「……シオン」


 ヴァルターさんが、低い声で続けた。


「今夜は、少し警戒を強めた方がいい」


「……何か気になることが?」


「ああ」


 彼は、周囲を見回した。


「……施設の警備員だ」


「……警備員?」


「人数が多すぎる」


 俺は、思わず振り返った。


 確かに。


 入口だけでなく、建物の周囲にも複数の警備員が配置されていた。


「……古代遺跡の警備としては、普通じゃないんですか?」


「普通なら、あそこまで必要ない」


 ヴァルターさんは答えた。


「しかも、何人かは動きが違った」


「……動き?」


「剣を使い慣れている」


 俺は、息をのんだ。


「……兵士ですか?」


「それに近いな」


 ヴァルターさんは、静かに答えた。


「ただの警備員じゃない」


 ……やっぱり。


 あの施設には、何かがある。


     ◇


 夕方。


 伯爵邸では、調査隊のために夕食が用意されていた。


 長い食卓。


 銀の食器。


 丁寧に盛りつけられた料理。


 ……正直、落ち着かない。


 俺は、ヴィオレッタの隣に座っていた。


 向かいには、ベルハルト伯爵。


 その隣には、ハロルド卿がいる。


「本日の調査はいかがでしたかな?」


 伯爵が、穏やかに尋ねた。


 ハロルド卿は、慎重に答えた。


「資料の確認と施設の視察を行いました。追加で確認したい点もありますが、調査にはご協力いただいております」


「それは何よりです」


 伯爵は微笑んだ。


「我が家としても、疑惑を残すことは望んでおりません」


 ……本当に、隙がない。


 俺は、静かに料理を口へ運んだ。


 そのとき。


「……シオン・クレイヴェル殿」


 伯爵が、突然俺を呼んだ。


「……はい」


 俺は、顔を上げた。


「あなたのお噂は、以前から耳にしております」


 ……噂?


 嫌な予感がする。


「古代魔導技術の研究に関わり、王都でもいくつかの功績を挙げられたとか」


「……大したことはしていません」


 俺は、慎重に答えた。


 伯爵は、穏やかに笑った。


「ご謙遜を」


 そして、少しだけ目を細めた。


「……古代文明には、ずいぶん興味がおありのようですな」


「……ええ」


 俺はうなずいた。


「分からないことが多いですから」


「なるほど」


 伯爵は、静かにグラスを置いた。


「……未知のものを知りたいという気持ちは、よく分かります」


 その言葉に、俺は少しだけ違和感を覚えた。


 伯爵は、何かを知っているのだろうか。


 それとも、ただの世間話か。


「……ですが」


 伯爵は、穏やかな表情のまま続けた。


「知らない方が幸せなことも、この世にはございます」


 ……。


 俺は、思わず彼を見つめた。


 伯爵は、何事もなかったように微笑んでいる。


「……ご忠告、ありがとうございます」


 俺は、静かに答えた。


 伯爵は、満足そうにうなずいた。


 ……何なんだ、この人は。


     ◇


 夕食後。


 俺たちは、宿泊用に用意された客室へ戻った。


 伯爵邸の客室は広く、調度品も立派だった。


 だが、安心して休める気分にはなれない。


 俺は、窓の外を見つめていた。


 庭園には、夜間警備の者たちが巡回している。


「……シオン」


 背後から、ヴィオレッタが声をかけた。


「……何?」


「伯爵の言葉、気になっているのね」


「……ああ」


 俺はうなずいた。


「知らない方が幸せなこともある、って」


 ヴィオレッタは、少しだけ考え込んだ。


「……単なる忠告かもしれないわ」


「……そうだな」


「でも、今の状況では、別の意味があるようにも聞こえるわね」


 俺は、苦笑した。


「……やっぱり、そう思う?」


「ええ」


 彼女は、俺の隣へ来た。


「でも、シオン」


「……何?」


「私たちは、真実を知るために来たのでしょう?」


 俺は、彼女を見た。


「……ああ」


「なら、怖がっていても仕方ないわ」


 彼女は、静かに微笑んだ。


「もちろん、無茶は駄目だけどね」


 ……そうだな。


 俺は、ゆっくりとうなずいた。


「……ありがとう」


 ヴィオレッタは、少しだけ頬を赤くした。


「……別に、お礼を言われるようなことじゃないわ」


 俺は、思わず笑った。


 そのとき。


 扉が、小さくノックされた。


「……シオン」


 ヴァルターさんの声だった。


 俺は、すぐに扉を開けた。


「……どうしました?」


 ヴァルターさんは、廊下の左右を確認した。


 そして、低い声で言った。


「……少し、面白いものを見つけた」


「……面白いもの?」


「ああ」


 彼は、小さな紙片を取り出した。


 そこには、短い文章が書かれていた。


 ――今夜、北棟の地下倉庫へ。


 ――誰にも知らせず、一人で来い。


 俺は、思わず眉をひそめた。


「……誰からですか?」


「分からん」


 ヴァルターさんは答えた。


「俺の部屋の扉の下に差し込まれていた」


 ……罠だ。


 どう考えても。


「……行くんですか?」


 俺が尋ねると、ヴァルターさんは小さく笑った。


「……まさか」


 そして、紙片を指で弾いた。


「一人で来いと言われて、本当に一人で行く馬鹿がいるか」


 ……ですよね。


 俺は、少しだけ安心した。


 だが、ヴァルターさんの表情は真剣だった。


「……ただ、誰がこれを置いたのかは気になる」


 彼は、静かに続けた。


「敵の罠かもしれないし、内部の協力者かもしれない」


 俺は、うなずいた。


「……どうします?」


「まず、ハロルド卿に報告する」


 ヴァルターさんは答えた。


「それから、北棟の周囲を調べる」


 ……なるほど。


 無闇に動かず、まず情報を集める。


 今の状況では、それが一番だろう。


     ◇


 同じ頃。


 伯爵邸の地下。


 薄暗い通路を、一人の男が歩いていた。


 黒い外套。


 顔を覆う布。


 男は、突き当たりの扉を開けた。


 その先には、小さな部屋があった。


 机の上には、魔導具が置かれている。


 男は、その前に座る人物へ報告した。


「……手紙は渡しました」


「……そうか」


 椅子に座っていた男が、静かに答えた。


「相手は?」


「ヴァルターです」


「……反応は?」


「まだ確認できていません」


 男は、少しだけ考え込んだ。


 そして、静かに言った。


「……おそらく、一人では来ないだろう」


「……では、失敗ですか?」


「いや」


 椅子の男は、首を振った。


「……それでいい」


 黒い外套の男が、眉をひそめた。


「……どういう意味ですか?」


「こちらの目的は、彼を地下倉庫へ誘い込むことではない」


 男は、机の上の魔導具を見つめた。


「……彼らが、どのように動くかを確認することだ」


 黒い外套の男は、しばらく黙っていた。


「……監視、ですか」


「そうだ」


 椅子の男は、静かにうなずいた。


「王国最強の剣士が、どれほど慎重なのか」


 そして、わずかに笑った。


「……それを知っておく必要がある」


 机の上の魔導具が、青白い光を放った。


 ――OBSERVATION / RECORD / 06


 ――STATUS : INCOMPLETE


 ――EXTERNAL SIGNAL : DETECTED


 男は、その文字を見つめた。


「……もう少しだ」


 小さく、つぶやく。


「……もう少しで、必要な情報が揃う」


 地下の奥で、低い機械音が響いた。


 ――ゴウン。


 その音は、まるで何かが目覚めようとしているかのようだった。


 そして。


 王国の調査隊は、まだ知らない。


 自分たちが調べているはずの場所で。


 逆に、自分たちの行動が観測されていることを。


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