観測された者たち
人は、自分の知らないものに名前をつける。
名前があれば、理解したような気持ちになれるからだ。
魔法。
魔物。
古代文明。
この世界に生まれ育った人々にとって、それらは当たり前の存在なのだろう。
けれど、俺にとっては違う。
俺は、別の世界を知っている。
魔法のない世界。
自動車が走り、飛行機が空を飛び、人々が電気で明かりを灯す世界。
そこで俺は、ごく普通の会社員だった。
そして、気づけばシオン・クレイヴェルとして、この世界に生まれていた。
どうしてなのか。
何が起きたのか。
十五年経った今でも、その答えは分からない。
……分からないままでいいと思っていた。
少なくとも、昨日までは。
◇
翌朝。
王宮の一室を借りて設けられた臨時研究室には、朝早くから明かりが灯っていた。
長机の上には、古代文字の写し、魔導回路の解析図、押収資料の目録が並んでいる。
部屋の中央では、レティシアさんが大きな紙に何かを書き込んでいた。
「……おはようございます」
俺が声をかけると、彼女は顔を上げた。
「あら、シオン君。早いわね」
「レティシアさんこそ。もしかして、徹夜ですか?」
「少しだけよ」
……少しだけ。
机の上に置かれた空の茶器は、少なくとも四つあった。
研究者の言う「少しだけ」は信用しない方がいい。
「レティシアさん、またそういうことを言って」
奥からフィオナさんの声がした。
彼女は分厚い資料を抱えている。
「夜明け前まで解析していたでしょう?」
「……フィオナも一緒だったじゃない」
「私は途中で休憩しました」
「十分ほどでしょ?」
「十五分です」
……大差ない気がする。
俺が苦笑していると、エリオットが机の向こうから顔を出した。
「シオン、ちょうどよかった」
「どうした?」
「昨日の金属板、少しだけ読めるようになったんだ」
その言葉に、俺は足を止めた。
「……本当か?」
「うん。ただ、まだ確定できない部分も多い」
エリオットは、机の上の図面を指さした。
そこには、見覚えのある文字が書かれていた。
――OBSERVATION / RECORD / 06
――STATUS : INCOMPLETE
昨日、王宮施設管理部の隠し収納から発見された記録媒体。
あれは、秘密組織が奪った補助鍵と関係する可能性が高い。
だが、記録の大部分は保護されていた。
「……何が分かったんだ?」
俺が尋ねると、レティシアさんが椅子を引いた。
「まずは、こっちを見て」
彼女は、一枚の紙を差し出した。
そこには、三つの項目が並んでいた。
――観測対象
――出現地点
――記録状態
「……出現地点?」
俺は、思わずその文字を見つめた。
「そう」
レティシアさんはうなずいた。
「これまで私たちは、古代文明の観測記録を、天体や魔力の流れに関するものだと考えていたの」
「……違ったんですか?」
「少なくとも、それだけじゃないみたいね」
フィオナさんが、別の資料を広げた。
「昨日の記録媒体には、同じ形式の項目が繰り返し現れています」
彼女は、いくつかの文字を指さした。
「場所、時刻、対象の状態。そして、観測の継続時間」
エリオットが続けた。
「しかも、対象の状態を示す部分が、普通の魔物や魔導具の記録と違うんだ」
「……どう違う?」
「魔力量だけじゃなくて、生命反応に似た情報がある」
俺は、眉をひそめた。
「……生き物を観測していた?」
「その可能性が高い」
エリオットはうなずいた。
レティシアさんが、静かに言った。
「そして、もう一つ」
彼女は、紙の端に書かれた古代文字を指さした。
「……これが、今回もっとも重要な部分よ」
俺は、その文字を見つめた。
知らない文字だった。
だが、なぜか胸の奥がざわついた。
「……何て書いてあるんですか?」
レティシアさんは、少しだけ間を置いた。
「完全な翻訳じゃないけどね」
そして、静かに答えた。
「……『外部世界より到来した個体』よ」
俺は、息を止めた。
◇
……外部世界。
その言葉が、頭の中で繰り返された。
「……シオン君?」
レティシアさんが、心配そうに俺を見た。
「……どうしたの?」
「……いえ」
俺は、慌てて首を振った。
「少し、驚いただけです」
……落ち着け。
まだ、何も決まったわけじゃない。
外部世界という言葉が、俺の知っている地球を意味するとは限らない。
別の大陸かもしれない。
異なる魔法領域かもしれない。
あるいは、古代文明独自の分類なのかもしれない。
だが。
どうしても、無関係だとは思えなかった。
「……それって、異世界から来た人間ってことですか?」
俺は、できるだけ自然な口調で尋ねた。
レティシアさんは、慎重に答えた。
「その可能性はあるわ。ただし、『人間』と断定できる段階じゃないの」
フィオナさんがうなずく。
「古代文明の分類では、私たちの知る種族と違う基準が使われていた可能性もあります」
「……なるほど」
俺は、ゆっくりとうなずいた。
エリオットが、机の上の図面を指さした。
「でも、もう一つ気になることがあるんだ」
「……何だ?」
「この記録、出現を予測しているんじゃない」
俺は、顔を上げた。
「……どういうこと?」
「記録されている時刻が、対象の出現後なんだ」
エリオットは、二つの数字を指さした。
「こっちが最初に反応を検知した時刻。こっちが観測を開始した時刻」
俺は、数字を見比べた。
確かに、後者の方が遅い。
「……つまり?」
エリオットは答えた。
「古代文明は、対象が現れたことを確認してから観測を始めていたんだと思う」
レティシアさんが、静かに補足した。
「少なくとも、今回確認できた記録に、対象を呼び寄せたり、別の世界から移動させたりする操作は見つかっていないわ」
俺は、その言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。
……そうか。
古代文明が、俺をこの世界へ連れてきたわけではない。
少なくとも、今ある証拠はそう示していない。
だが、それなら。
俺は、どうしてこの世界に生まれたんだ?
……いや。
今は、それを考えても答えは出ない。
「……シオン?」
背後から、声がした。
振り返ると、ヴィオレッタが立っていた。
「……大丈夫?」
「ああ」
俺は笑った。
「ちょっと、考え事をしてただけ」
彼女は、俺の顔をじっと見つめた。
「……そう」
その表情は、どこか心配そうだった。
だが、彼女はそれ以上尋ねなかった。
代わりに、俺の隣へ立つ。
「……私にも、説明してもらえるかしら?」
レティシアさんがうなずいた。
「もちろんよ」
俺は、彼女の横顔を見た。
……ありがとう。
心の中で、そうつぶやいた。
◇
午前十時。
王宮の会議室には、エレノア殿下とヴァルターさんが集まっていた。
昨日の調査結果を受け、正式な報告が行われることになったのだ。
レティシアさんが、解析資料を机の上に広げる。
「……現時点で分かったことを説明するわね」
殿下は、静かにうなずいた。
「お願いします」
「王宮施設管理部から発見された記録媒体は、古代文明の観測記録に関するものと考えられるわ」
レティシアさんは、資料を指さした。
「そして、その観測対象は、通常の魔導現象ではなく、外部世界から現れた存在である可能性があるの」
会議室が、静まり返った。
「……外部世界?」
エレノア殿下が、ゆっくりと繰り返した。
「……異なる世界、という意味でしょうか?」
「可能性はあるわ。ただし、まだ断定はできないわね」
ヴァルターさんが腕を組んだ。
「……つまり、古代文明は別の世界の存在を知っていたかもしれない、ということか」
「そういうことね」
フィオナさんが続けた。
「しかも、記録の形式を見る限り、一度きりの観測ではありません」
「……何度も?」
殿下が尋ねる。
「ええ」
フィオナさんはうなずいた。
「少なくとも、複数の観測記録が存在した可能性があります」
エリオットが、資料を指さした。
「ただ、番号が連続しているとは限らないんだ」
「……どういうことですか?」
殿下が尋ねる。
「第六観測記録と、以前見つかったORIGINの記録は、分類が違うかもしれない」
エリオットは説明した。
「同じ数字があっても、同じ対象を指すとは限らないし、番号が違うから別の対象とも言い切れない」
レティシアさんがうなずいた。
「……慎重に扱う必要があるわね」
殿下は、しばらく考え込んだ。
そして、静かに言った。
「……その記録を、秘密組織が求めているのですね」
「おそらくね」
レティシアさんは答えた。
「でも、何のために必要としているのかは分からないわ」
ヴァルターさんが、低い声で言った。
「……分からないものを奪うために、あれだけの人数を動かしたのか」
俺は、うなずいた。
山道での襲撃。
王宮内部での証拠隠滅。
道路管理局の副局長の殺害。
そして、オルフェン子爵の逃亡。
すべてが、一つの記録につながっている。
……何か、大きな目的がある。
それだけは、間違いない気がした。
◇
「……それと、もう一つ報告があります」
ヴァルターさんが口を開いた。
エレノア殿下が顔を上げる。
「……オルフェン子爵についてですね」
「ああ」
ヴァルターさんは、机の上に一枚の地図を広げた。
王都の地下通路。
城壁の外。
そして、北東へ伸びる古い街道。
「昨日、子爵が逃げた地下通路を調べた」
「……何か分かりましたか?」
「途中で、三つに分かれていた」
ヴァルターさんは、地図を指さした。
「一つは王都の北門。もう一つは旧水路。そして、最後の一つが、王宮の外にある古い倉庫へつながっていた」
俺は、思わず身を乗り出した。
「……倉庫?」
「ああ」
ヴァルターさんはうなずいた。
「そこから、馬車が一台出ていったという証言がある」
「……子爵が乗っていたんですか?」
「そこまでは確認できていない」
彼は慎重に答えた。
「だが、馬車の車輪跡が残っていた」
エレノア殿下が尋ねた。
「……行き先は?」
「北東だ」
会議室が、静まり返った。
……北東。
ベルハルト伯爵領。
俺は、思わずヴィオレッタと顔を見合わせた。
「……やっぱり、あそこへ向かったんでしょうか」
俺が尋ねると、ヴァルターさんは首を振った。
「まだ分からない」
彼は答えた。
「途中で進路を変えた可能性もある。追跡を避けるために、わざと痕跡を残した可能性もある」
……確かに。
相手は、これまで何度もこちらの動きを読んできた。
単純に足跡を追えば、罠に誘い込まれるかもしれない。
「……それでも、調べる価値はありますね」
ヴィオレッタが言った。
「ああ」
ヴァルターさんはうなずいた。
「すでに、別の部隊を向かわせている」
エレノア殿下は、静かに息を吐いた。
「……ありがとうございます」
そして、俺たちへ視線を向けた。
「ベルハルト伯爵領への正式な調査についても、準備を進めています」
「……許可は下りそうですか?」
俺が尋ねる。
殿下は、少しだけ表情を曇らせた。
「……簡単ではありません」
彼女は答えた。
「伯爵家は、王国の有力貴族です。関係者も多く、反対する者もいます」
ヴァルターさんが、低い声で言った。
「……だが、王宮の内部でここまでのことが起きた」
「はい」
殿下はうなずいた。
「だからこそ、慎重に進めます」
彼女の表情には、強い決意が浮かんでいた。
「……必ず、真実を明らかにします」
◇
会議が終わったあと。
俺は、王宮の庭園を歩いていた。
秋の風が、木々の葉を揺らしている。
空は青く、遠くには王都の街並みが広がっていた。
……外部世界から現れた存在。
その言葉が、頭から離れない。
古代文明は、異世界から来た人々を観測していた。
もし、それが本当なら。
俺と同じような存在が、過去にもいたということになる。
……いや。
すでに、俺は一人知っている。
アルセリア王都で出会った、アレン。
彼も、俺と同じ秘密を知っている。
あのときは、まさかこんな形で古代文明とつながるとは思わなかった。
「……シオン」
背後から、声がした。
振り返ると、ヴィオレッタが立っていた。
「……探したわ」
「……ごめん」
「謝らなくていいわ」
彼女は、俺の隣へ並んだ。
しばらく、二人で庭園を歩く。
風が、彼女の髪を揺らした。
「……今日の話、気になっているのね」
ヴィオレッタが、静かに言った。
「……ああ」
俺はうなずいた。
「少しな」
「……そう」
彼女は、それ以上尋ねなかった。
俺は、彼女の横顔を見た。
……言うべきなのだろうか。
俺が、別の世界の記憶を持っていること。
この世界に生まれる前、別の人生を生きていたこと。
ヴィオレッタなら、きっと受け入れてくれる。
そう思う。
だが。
それでも、簡単には言えなかった。
今の俺は、シオン・クレイヴェルだ。
父さんと母さんの息子で。
兄さんたちの弟で。
姉さんの弟で。
ミリアの兄で。
そして。
ヴィオレッタの恋人だ。
……前世の記憶があるからといって、そのすべてが変わるわけじゃない。
分かっている。
それでも。
彼女が俺を見る目が変わってしまうかもしれない。
そんな不安が、心のどこかにあった。
「……シオン」
ヴィオレッタが、静かに俺の手を取った。
「……何?」
「無理に話さなくてもいいわ」
俺は、思わず彼女を見た。
「……え?」
「何か、考えていることがあるんでしょう?」
彼女は、少しだけ微笑んだ。
「でも、今すぐ話せないなら、それでいいの」
俺は、何も言えなかった。
「……ただ」
ヴィオレッタは、俺の手を少しだけ強く握った。
「一人で抱え込まないでね」
……本当に。
彼女には、かなわない。
「……ありがとう」
俺は、静かに答えた。
ヴィオレッタは、嬉しそうに微笑んだ。
「……どういたしまして」
俺たちは、しばらくそのまま歩いた。
何も話さなくても、不思議と落ち着いた。
◇
同じ頃。
王宮の臨時研究室。
レティシアとフィオナは、解析結果を見つめていた。
エリオットは、隣の机で魔導回路の図面を描いている。
「……フィオナ」
レティシアが口を開いた。
「……何でしょう?」
「この記録、少し気にならない?」
フィオナは、資料へ視線を落とした。
「……観測対象の分類ですか?」
「そう」
レティシアはうなずいた。
「通常の生命体とは、違う項目が使われているのよ」
フィオナは、しばらく考え込んだ。
「……確かに」
彼女は、資料の一部を指さした。
「魔力の性質だけでなく、記憶に関する情報が含まれているように見えます」
「……記憶?」
エリオットが顔を上げた。
「うん」
フィオナはうなずいた。
「まだ完全には読めないけど、対象が持つ情報の継続性を示す項目があるみたい」
レティシアが、静かに言った。
「……つまり、異なる世界から来た存在が、以前の記憶を保持していた可能性があるってことね」
エリオットは、しばらく黙っていた。
「……そんなことが、あり得るのかな」
「分からないわ」
レティシアは答えた。
「でも、古代文明がそれを観測していた可能性はあるわね」
フィオナは、資料を見つめた。
「……もし本当なら、世界の成り立ちに関わる発見になるかもしれませんね」
レティシアは、静かにうなずいた。
「そうね」
そして、少しだけ表情を曇らせた。
「……だからこそ、秘密組織がこの記録を求めている理由が気になるのよ」
エリオットが、低い声で言った。
「……単なる学術的な興味じゃないよね」
「おそらくね」
レティシアは答えた。
「何か、別の目的があるんでしょうね」
三人は、しばらく黙って資料を見つめた。
古代文明が残した記録。
そこには、まだ誰も知らない秘密が眠っている。
そして、その秘密を求める者たちがいる。
◇
夜。
ベルハルト伯爵領。
閉鎖された鉱山の地下。
巨大な古代装置の前で、白衣の男が記録を確認していた。
中央の台座には、奪われた補助鍵が設置されている。
青白い光が、ゆっくりと脈打っていた。
「……進捗は?」
背後から声がした。
白衣の男は振り返った。
黒い外套の男が立っていた。
「……補助鍵の認証は完了しています」
白衣の男は答えた。
「ただし、記録の復元にはまだ時間が必要です」
「……どれくらいだ?」
「……二日ほど」
黒い外套の男は、少しだけ眉をひそめた。
「……遅いな」
「古代文明の記録です。現代の技術で扱うには限界があります」
白衣の男は、不満そうに答えた。
「それに、観測対象の情報が強く保護されています」
「……保護?」
「ええ」
白衣の男は、表示板を指さした。
そこには、古代文字が浮かび上がっていた。
――OBSERVATION / RECORD / 06
――STATUS : INCOMPLETE
――ACCESS : RESTRICTED
黒い外套の男は、静かに画面を見つめた。
「……それでも、必要な情報は取り出せるんだな?」
「……可能性はあります」
白衣の男は答えた。
「ただし、記録の一部が欠損しています」
黒い外套の男は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……なら、欠損部分を補え」
「……簡単ではありません」
「分かっている」
男は、低い声で続けた。
「だが、時間がない」
白衣の男は、息を吐いた。
「……承知しました」
黒い外套の男は、装置の奥を見つめた。
青白い光。
古代文字。
そして、失われた記録。
「……王宮が動き始めた」
男は、静かにつぶやいた。
「こちらも、急がなければならない」
その言葉に応えるように。
装置の光が、わずかに強くなった。
――観測された者たち。
古代文明は、彼らを呼び寄せたのではない。
ただ、その存在を記録していた。
そして今。
その記録をめぐって、新たな争いが始まろうとしていた。




