王宮の影
王宮の朝は、驚くほど静かだった。
廊下を歩く侍従たちの足音。
遠くから聞こえる衛兵の号令。
窓から差し込む柔らかな日差し。
昨日までの騒ぎが嘘のように、何もかもが普段どおりに見える。
だが、その静けさが、今の俺には不気味に感じられた。
この王宮のどこかに、秘密組織へ情報を流している人物がいるかもしれない。
そう考えると、すれ違う人々の顔を、つい確かめてしまう。
「……シオン」
隣を歩くヴィオレッタが、小さく声をかけてきた。
「さっきから、ずいぶん周りを見ているわね」
「……分かる?」
「ええ。三回も同じ衛兵を振り返っていたもの」
「……三回?」
「正確には四回かしら」
俺は思わず顔をしかめた。
「そんなに見てたのか……」
ヴィオレッタは小さく笑った。
「気持ちは分かるけど、あまり露骨に警戒すると、かえって目立つわよ」
「……気をつける」
彼女は俺の手を軽く握った。
「それに、疑うことと、決めつけることは違うでしょう?」
俺は彼女を見た。
「……そうだな」
今のところ、内部に協力者がいるという確証はない。
敵が襲撃地点を事前に準備していたこと。
移送経路を把握していたこと。
その二つは、確かに不自然だ。
だが、情報を得る方法は王宮内部からの漏洩だけではない。
移送隊を尾行した可能性もある。
天文台の地下拠点が襲撃されることを、敵が予測していた可能性もある。
……焦って結論を出すのは危険だ。
俺は深く息を吐いた。
「ありがとう、ヴィオレッタ」
「どういたしまして」
彼女は微笑んだ。
「でも、もし本当に裏切り者がいるなら、見つけないといけないわね」
「ああ」
俺たちは、エレノア殿下に指定された会議室へ向かった。
◇
会議室には、すでにエリオットとリシアがいた。
机の上には、古代装置の図面と、襲撃事件の報告書が並べられている。
「シオン、ヴィオレッタ」
エリオットが顔を上げた。
「ちょうどよかった。少し見てほしいものがあるんだ」
「何か分かったのか?」
「うん。昨日から、どうしても気になっていたことがあってね」
エリオットは一枚の地図を広げた。
王都から旧王立天文台へ続く山道。
そして、襲撃を受けた地点。
そこには、赤い印がつけられていた。
「ここが、昨日の襲撃地点だよ」
「……ああ」
「それで、こっちが、封魔陣の中継点が設置されていた場所」
地図には、六つの小さな丸印が描かれていた。
俺は、その配置を見つめた。
「……道路を囲むようになってるな」
「そうなんだ」
エリオットはうなずいた。
「しかも、かなり正確に配置されている」
ヴィオレッタが眉をひそめた。
「それが、何か問題なの?」
「問題というより、不自然なんだ」
エリオットは説明を続けた。
「封魔陣の中継点は、一定の距離と角度を保たないと効果が弱くなる。でも、あの場所は山道で、地形が複雑だった」
「……つまり?」
「実際に測量しないと、あんな配置にはできないと思う」
俺は息をのんだ。
「……敵は、事前に現地を調べていた?」
「少なくとも、そう考えるのが自然だね」
リシアが腕を組んだ。
「でも、山道を調べるくらいなら、誰でもできるんじゃない?」
「それだけならね」
エリオットは別の資料を取り出した。
「問題は、ここなんだ」
彼が示したのは、襲撃地点の道路管理記録だった。
「……道路の補修工事?」
俺が尋ねる。
「うん。三週間前に、この区間で排水溝の補修が行われている」
ヴィオレッタが目を細めた。
「……まさか」
「その可能性がある」
エリオットはうなずいた。
「封魔陣の中継点が設置されていた場所のうち、三か所が、補修工事の範囲と重なっているんだ」
俺は、地図を見つめ直した。
……なるほど。
工事を装えば、山道で長時間作業していても不自然ではない。
測量もできる。
魔導具を埋め込むこともできる。
「……工事を担当した業者は?」
俺が尋ねると、エリオットは一枚の書類を差し出した。
「王都の土木業者だよ。ただ、気になることがある」
「何?」
「工事の発注元は、王国の道路管理局になってる。でも、通常の入札記録が見当たらない」
リシアが顔をしかめた。
「……怪しいわね」
「うん。ただ、緊急補修なら入札を省略することもあるから、これだけでは不正とは言えない」
エリオットは慎重に答えた。
俺は、少しだけ感心した。
エリオットは、こういうとき本当に頼りになる。
古代装置の解析だけでなく、資料の矛盾を見つけるのも得意だ。
「……じゃあ、次は工事の発注記録を調べるべきだな」
「そう思う」
エリオットはうなずいた。
「誰が、いつ、どういう理由で工事を指示したのか。それが分かれば、何か見えてくるかもしれない」
そのとき。
会議室の扉が開いた。
「……その件なら、こちらでも調べている」
ヴァルターさんだった。
◇
「ヴァルターさん」
俺は立ち上がった。
「何か分かったんですか?」
「ああ」
ヴァルターさんは机へ近づき、一枚の書類を置いた。
「道路管理局に確認した。例の補修工事は、確かに正式な手続きで発注されている」
エリオットが顔を上げた。
「……じゃあ、問題はなかった?」
「いや」
ヴァルターさんは首を振った。
「工事の必要性を判断した報告書が、妙なんだ」
「……妙?」
「道路の損傷が激しいため、早急な補修が必要と書かれている」
「それなら普通じゃないですか?」
俺が尋ねると、ヴァルターさんは苦笑した。
「普通ならな」
彼は、別の書類を示した。
「だが、工事の一週間前に行われた定期点検では、その区間に大きな問題はないと報告されている」
俺は眉をひそめた。
「……一週間で急に悪くなった?」
「そういうことになる」
ヴァルターさんはうなずいた。
「しかも、緊急補修の判断をしたのは、道路管理局の副局長だ」
エリオットが尋ねた。
「……副局長が直接?」
「ああ」
ヴァルターさんは腕を組んだ。
「通常なら、現場の責任者が報告し、上司が承認する。だが今回は、副局長が直接、工事を指示している」
リシアが眉をひそめた。
「……それって、かなり怪しくない?」
「怪しいな」
ヴァルターさんは即答した。
「だが、まだ決定的ではない」
その言葉に、俺はうなずいた。
……確かに。
副局長が直接指示したからといって、秘密組織の協力者とは限らない。
だが、調べる価値は十分にある。
「……その副局長は、今どこに?」
俺が尋ねると、ヴァルターさんの表情が少しだけ険しくなった。
「……それが問題だ」
「……何ですか?」
「今朝から、出勤していない」
会議室が静まり返った。
「……休暇ですか?」
「いや」
ヴァルターさんは首を振った。
「無断欠勤だ」
俺は思わず息をのんだ。
……まさか。
昨日の襲撃事件が失敗したことで、逃げたのか?
だが、まだ決めつけることはできない。
秘密組織に口封じされた可能性もある。
「……捜索は?」
俺が尋ねると、ヴァルターさんはうなずいた。
「すでに始めている」
そして、静かに続けた。
「だが、俺は別のことが気になっている」
「……別のこと?」
「この工事の発注書だ」
ヴァルターさんは、書類の右下を指さした。
そこには、承認印が押されていた。
「……これが?」
「副局長の印だ。だが、書類の最終確認欄には、別の部署の印もある」
俺は目を凝らした。
そこには、王宮の紋章が刻まれていた。
「……王宮?」
ヴィオレッタが小さくつぶやいた。
ヴァルターさんはうなずいた。
「王宮の施設管理部だ」
……王宮。
ついに、その名前が出てきた。
◇
その頃。
エレノア殿下は、王宮の執務室で一人の男と向かい合っていた。
男は、五十歳前後。
整えられた灰色の髪。
上質な礼服。
落ち着いた物腰。
王宮施設管理部の責任者、オルフェン子爵だった。
「……エレノア殿下」
男は深々と頭を下げた。
「お呼びと伺いました」
「ええ」
殿下は静かに答えた。
「少し、確認したいことがあります」
「何なりと」
殿下は机の上に、一枚の書類を置いた。
「三週間前、王都北東部の山道で行われた補修工事についてです」
男の表情は変わらなかった。
「……補修工事、ですか」
「はい」
殿下はうなずいた。
「この工事の発注書に、王宮施設管理部の確認印があります」
男は書類へ視線を落とした。
「……確かに」
「なぜ、王宮の施設管理部が、一般道路の補修工事に関与しているのでしょうか?」
男は少しだけ考えた。
「……王宮関係者が利用する道路だったため、でしょう」
「……でしょう?」
殿下の声が、わずかに鋭くなる。
男は微笑んだ。
「申し訳ありません。すべての書類を私が直接確認しているわけではありませんので」
「……なるほど」
殿下はうなずいた。
「では、この確認印を押した人物を教えてください」
男は、わずかに目を細めた。
「……それは、調べなければ分かりません」
「分かりました」
殿下は静かに答えた。
「では、調査のうえ、報告してください」
「承知いたしました」
男は深く頭を下げた。
そして、退室しようとした。
だが。
「……オルフェン子爵」
殿下が呼び止めた。
「はい?」
「もう一つ、確認したいことがあります」
男は振り返った。
殿下は、静かに言った。
「ベルハルト伯爵家とは、以前から親交があるそうですね」
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
男の表情が変わった。
だが、すぐに穏やかな笑みへ戻る。
「……ええ。社交の場で何度かお会いしたことがあります」
「……そうですか」
殿下はうなずいた。
「ご協力、ありがとうございました」
男は再び頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
殿下は、静かに息を吐いた。
「……やはり、何かありますね」
その声は、誰にも聞こえなかった。
◇
午後。
俺たちは、王宮の資料室にいた。
エリオットが、古い記録を調べている。
リシアは窓際で腕を組み、退屈そうにしていた。
「……ねえ、エリオット」
「何?」
「これ、いつまで続くの?」
「必要な資料が見つかるまで」
「……それ、答えになってないわよ」
エリオットは苦笑した。
「ごめん。でも、もう少しで終わると思う」
俺は、机の上の資料を見つめた。
王宮施設管理部。
道路管理局。
ベルハルト伯爵家。
それぞれの関係を調べている。
だが、今のところ決定的な証拠は見つかっていなかった。
「……シオン」
ヴィオレッタが声をかけた。
「少し休憩しない?」
「……そうだな」
俺は椅子の背もたれに身体を預けた。
朝から資料を読み続けている。
さすがに、目が疲れてきた。
「……何か飲み物を持ってくるわ」
「ありがとう」
ヴィオレッタが立ち上がる。
そのとき。
「……あれ?」
エリオットが、小さく声を上げた。
「どうした?」
俺が尋ねると、彼は一枚の古い書類を取り出した。
「……これ、見て」
俺たちは、机の周りに集まった。
書類には、王宮施設管理部の過去の支出記録が記されている。
「……何かおかしいのか?」
「うん」
エリオットは、ある項目を指さした。
「ここ。十年前から、毎年同じ時期に、同じ金額の支出がある」
「……何の支出?」
「古代遺跡の保全費用、って書かれてる」
俺は眉をひそめた。
「……古代遺跡?」
「そう」
エリオットはうなずいた。
「でも、王宮施設管理部が、王都の外にある古代遺跡を管理する理由が分からない」
ヴィオレッタが資料をのぞき込んだ。
「……場所は?」
エリオットは、書類の下部を指さした。
そこには、小さな文字で地名が記されていた。
――ベルハルト伯爵領。
俺は、思わず顔を上げた。
「……また、そこか」
エリオットはうなずいた。
「うん」
彼は、さらに別の資料を取り出した。
「しかも、この支出の承認者は……」
俺たちは、書類を見つめた。
そこには、同じ名前が記されていた。
――オルフェン子爵。
部屋が静まり返った。
「……つながったな」
俺がつぶやくと、エリオットは慎重に答えた。
「少なくとも、調べる理由は十分にあると思う」
ヴィオレッタが腕を組んだ。
「……エレノア殿下に報告しましょう」
「ああ」
俺はうなずいた。
そのとき。
廊下から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
扉が開く。
そこには、王宮の衛兵が立っていた。
「……失礼します!」
衛兵は、息を切らしていた。
「エレノア殿下より、至急お集まりいただきたいとのことです!」
「……何かあったんですか?」
俺が尋ねると、衛兵は答えた。
「……道路管理局の副局長が、発見されました」
俺は息をのんだ。
「……どこで?」
衛兵は、少しだけ言葉を詰まらせた。
そして、低い声で答えた。
「……王都郊外の倉庫です」
「……無事なんですか?」
俺が尋ねると、衛兵は首を振った。
「……いいえ」
その表情が、すべてを物語っていた。
俺たちは、急いで会議室へ向かった。
◇
会議室には、エレノア殿下とヴァルターさんがいた。
殿下の表情は険しい。
ヴァルターさんも、いつになく無言だった。
「……殿下」
俺が声をかけると、殿下は顔を上げた。
「……皆さん」
彼女は、静かに言った。
「道路管理局の副局長が、遺体で発見されました」
俺たちは、言葉を失った。
「……殺されたんですか?」
俺が尋ねると、ヴァルターさんが答えた。
「まだ断定はできない。だが、他殺の可能性が高い」
彼は、机の上に一枚の報告書を置いた。
「……首に、細い刃物で切られた傷があった」
俺は、思わず息をのんだ。
……口封じ。
その言葉が、頭をよぎった。
「……それだけではありません」
殿下が続けた。
「遺体の近くに、あるものが残されていました」
彼女は、小さな金属片を机の上へ置いた。
黒い金属。
表面には、古代文字のような模様。
俺は、目を見開いた。
「……これ」
エリオットが、すぐに身を乗り出した。
「……天文台の地下施設で見つかった魔導具と、似てる」
殿下はうなずいた。
「はい」
俺は、金属片を見つめた。
……秘密組織。
やはり、王宮の中に協力者がいるのかもしれない。
だが。
もしそうなら。
その人物は、今もこの王宮のどこかにいる可能性がある。
俺は、窓の外へ視線を向けた。
夕日が、王都の建物を赤く染めている。
……王宮の影。
その正体は、まだ見えない。
だが、確かに存在している。
そして。
俺たちは、ようやくその輪郭をつかみ始めていた。
◇
その夜。
王宮の一室。
オルフェン子爵は、静かに書類を燃やしていた。
暖炉の炎が、紙を飲み込んでいく。
机の上には、いくつもの封書。
そのうち一通には、ベルハルト伯爵家の紋章が刻まれていた。
「……予定より早いな」
男は、小さくつぶやいた。
そのとき、扉がノックされた。
「……誰だ」
「……報告です」
低い声。
オルフェン子爵は、少しだけ考えてから答えた。
「……入れ」
扉が開く。
黒い外套の男が姿を現した。
「……副局長の件、処理しました」
オルフェン子爵は、静かにうなずいた。
「……ご苦労」
男は続けた。
「ただし、王宮側が動き始めています」
「……分かっている」
オルフェン子爵は、暖炉の炎を見つめた。
「エレノア殿下は、思った以上に鋭い」
「……どうしますか?」
男が尋ねた。
オルフェン子爵は、ゆっくりと立ち上がった。
「……計画を早める」
彼は、机の上に残った一通の封書を手に取った。
ベルハルト伯爵家の紋章。
その封書を、黒い外套の男へ渡す。
「……これを届けろ」
「……承知しました」
男は深く頭を下げた。
そして、部屋を出ていった。
オルフェン子爵は、静かに窓の外を見つめた。
王都の夜景。
遠くに見える王宮の塔。
その表情には、わずかな焦りが浮かんでいた。
「……もう、後戻りはできんか」
暖炉の炎が、静かに揺れた。
――王宮の内部で、秘密組織の計画が動き始めていた。




