第5話 狩人と猟銃
オオカミは琥珀色の目を細め、耳を澄ませた。
呪いの森の木々がざわめく。風はなくとも枝葉が囁く。森は侵入者の息遣いを聞いている。
獣道の土を踏み締める人間の足音に、オオカミはすぐに気づいた。湿った苔を踏む音。革のこすれる音。落ち着いた呼吸。金属の重み。背後で乾いた音が鳴った。枝を踏む音だ。
オオカミは反射的に身を翻した。
乾いた銃声が森に響く。
放たれた銃弾がオオカミのすぐ真横をかすめ、目の前の木の幹を抉る。灰色狼の毛が数本、火花のように散った。
「うわぁ」
オオカミの口から間延びした悲鳴がこぼれた。
猟銃を構えた男が立っていた。狩人だ。背は高くも低くもない。齢は三十の半ばを過ぎたくらいだろうか。土色の外套に革手袋。腰には獲物に止めを刺すための狩猟剣。冷静な目がオオカミを見ていた。
「避けるか」
狩人は猟銃を下ろしながら感心したようにつぶやいた。
「当然でしょ。危ないなぁ。人を撃っちゃダメだよ」
オオカミは灰色狼の毛皮を押さえながら抗議した。
狩人はわずかに片方の眉を上げたが口は開かない。殺気が薄く、気配が静かなままだ。呪いの森に足を踏み入れた人間特有の怯えも興奮も狂気もない。淡々としている。請け負った仕事だから仕留める。乾いた熟練者の気配がある。
「狩人さんは何を狩りに来たの?」
「お前だ」
狩人はあっさりと答えた。
「灰色狼の毛皮をかぶり、呪いを食らう化け物を狩りに来た」
酷い言われようだなぁ、と少し憤慨しながらもオオカミは黙った。
なぜ貴くも強くもない女の命が狙われるのだろう? しかも熟練の狩人に。答えは簡単だ。
狩人は恐らく、赤ずきんを呪う者たちに雇われている。
彼らは、オオカミが赤ずきんにかけられる呪いを食べることを知っている。呪いを台無しにするオオカミは、邪魔者以外の何者でもない。
呪いを食べる女も、腹に銃弾を詰め込まれれば間違いなく死ぬ。
「あなたも赤ずきんに死んでほしい?」
「いや別に。領主としちゃ悪くない」
狩人は平然と答えた。
「へぇ、そうなの?」
「民を飢えさせない。戦える。若いのによくやっている」
狩人はそこで一度言葉を切った。
「だから厄介なんだろう」
狩人は猟銃を肩に掛けると、流れるように両手に剣を構えた。訓練と経験を積んだ無駄のない動きだ。オオカミは息を潜めて後ずさった。
「あなたの雇い主は、赤ずきんが相当目障りなんだね」
狩人は奇妙な憐れみの目でオオカミを見た。
「お前もなかなか目障りなようだぞ」
オオカミは素早く地を蹴り後ろに飛び退いた。
狩人の鋭い剣閃が彼女の喉元をかすめる。灰色狼の毛皮が警戒と威嚇をあらわに逆立ちふくらんだ。牙の代わりに研いだ短剣が突き出され、狩人が一瞬踏みとどまる。オオカミは身を捻り、すばやく駆け出した。暗い木陰を掻き分け、木々の隙間を駆け抜ける。
霧に晒された青白い首に、首輪のように赤い血がじわりとにじむ。
背後から枝を払う音が絶え間なく聞こえる。狩人の足音が迫る。
銃声が響き、弾丸がオオカミの肩の真上をかすめて前方の樫の木へ食い込んだ。木片が弾け飛び、樹皮が細かく砕け散る。
オオカミは進路を右へ変えた。
倒れた枯れ木を跳び越え、低木が茂る窪地へ飛び込む。着地とほぼ同時に再び銃声が鳴り、弾丸がオオカミの足下の土をえぐって重く湿った音を立てた。
再びオオカミは進路を変えた。立ち止まるわけにはいかない。
森で狩人と鬼ごっこなんて全然楽しくないなぁ。
オオカミが場違いな愚痴を込めて浅く息を吐くと、今度は顔の真横を弾丸が飛び越え、前方の木の根元に土煙を上げた。オオカミは舌打ちして行く手を変えた。
狩人は急いでいなかった。きっと息も乱れていない。オオカミがどちらへ走りどこで曲がるかを読み、まっすぐ逃がさないために発砲している。
獲物が力尽きるときを知っている者の足音だった。
まるで囲い込みの狩猟だ。獲物は狩人に追い込まれ、狩られる。
オオカミのこめかみに汗がにじむ。
いくら獣の縄張りといえど、走り続ければオオカミも息は上がる。足がもつれる。今日は朝から赤ずきんの呪いをたくさん食べたから、ただでさえ身体がだるく腹が重い。
オオカミは岩陰に回り込み、真っ暗な茂みに身を潜めた。
背筋を冷たいものが滑り落ちる。
茂みの向こう、木々の暗闇の奥から、狩人ではない誰かがやって来る。
オオカミは完全に挟み撃ちされた。
背後からは狩人の足音が近づいてくる。
前方からも音がした。金属部品がかすかに触れ合い、引き金に指が掛かる気配がオオカミの耳を弾いた。やけにはっきりと、ぞっとするほど近くで。猟銃の銃身がわずかに動く音だ。
オオカミは身動きが取れず息を吞んだ。
喉の細い傷に血がにじむ。短剣を握り締める。
「動かないでください」
かすかに甘い匂いがした。
暗闇の奥で猛獣の牙が鈍く光った。
次の瞬間、閃光と轟音が森を貫いた。鋭い風が通り抜ける。重く力強い衝撃が呪いの森の静寂を真っ二つに切り裂いた。暗闇から放たれた銃弾は標的を撃ち抜く。
「がぁっ!」
動物とも人ともつかない悲鳴が響いた。何かが地面に倒れ込む重い音が続き、巨木が激しく揺れる。鳥たちが一斉に飛び立ち、無数の小枝たちがばらばらと音を立てて地面に降り注いだ。
「捕らえろ」
赤ずきんが命じると角笛が鳴り響き、暗闇から大勢の猟犬たちが一斉に飛び出した。武装した兵士たちがその後を追いかける。
張り詰めた短い余韻が、枝葉へ、茂みへ、苔に、朽ちた葉と土に吸い込まれていく。
狩人の足音はもう聞こえない。
「オオカミさん、ご無事ですか?」
猟銃を携え、深紅のフードをかぶった男が茂みをのぞきこんだ。
革手袋に包まれた大きな手が、オオカミの目の前に差し出された。急いで駆けつけてくれたのだろうか。赤ずきんのこめかみにもオオカミ以上に汗がにじみ、呼吸がひどく速い。
「赤ずきん! ありがとう」
「遅くなって申し訳ありません…… オオカミさん」
「赤ずきんのおかげで助かったよ! でもなんでここにいるの?」
その手をつかみ、茂みの中から引き上げられるように抜け出すと、オオカミは赤ずきんにたずねた。
赤ずきんは何か答えようとして、ふいに口を閉ざした。
深紅のフードの奥で、空より青い瞳に黒い暗雲の翳りが落ちる。
「赤ずきん?」
「呪いに気を取られて、少し、しくじりました……」
オオカミがもう一度呼びかけたとき、つないでいた赤ずきんの手から力が抜け、深紅のマントがぐらりと傾いた。
オオカミはとっさに両腕を伸ばした。
赤ずきんの膝が折れ、長身がオオカミの痩せた身体に倒れ込んだ。
鈍く重い音を立てて地面へ崩れ落ち、深紅のマントが朽ちた落ち葉の上に広がる。本物の血溜まりのように。
オオカミは目を見開いた。
赤ずきんは食いしばった歯の隙間から苦しげに息を吐き、手で腹部を押さえている。深紅のマントの合わせ目から見える上衣に、黒ずんだ血がじわりと滲んでいた。見る見る間に色濃く広がり、赤ずきんの顔から血の気が奪われる。
乾いた泥のようにこびりついた呪いの甘い匂いに、生々しい鉄の臭いがしみ込んでいく。
「オオカミさん、あなたが無事で、よかった……」
赤ずきんはオオカミに微笑みかけた。
苦痛を全身全霊で抑え込んだ、痛ましくひたむきな眼差しだった。
撃たれて怪我を負っていたのに、オオカミを助けるために駆けつけたのだろうか?
オオカミの喉笛が恐怖で鳴った。
「やだ…… 赤ずきん!」
オオカミが叫んでも、赤ずきんは返事をしなかった。
額には脂汗が浮かび、呼吸は浅く速い。腹を押さえる手にも力が入っていない。赤ずきんはオオカミに何かを言おうとして唇を動かした。
「怖い思いをさせて、ごめんなさい……」
「もう怖くない。赤ずきんが守ってくれたから。ねぇ赤ずきん、死んじゃ嫌だよ!」
赤ずきんの呪いを食べられなくなるからではない。
ただ、赤ずきんがいなくなるのが怖い。
オオカミの視界が暗い水底に沈んでいく。
自分を守ってくれた赤ずきんを助けたいのに、オオカミがいくら呪いを食べても銃撃の傷は治せない。今もこうして両手で腹部の傷を押さえることしかできない。その指の間からは真っ赤な血がしみ出し、流れ続けている。止まらない。
「お嬢さん、手を放してください」
音もなくいつの間にか真横に影がいた。
猟銃を持った狩人が、オオカミに静かに告げた。




