第3話 狩りと獲物
「どこにいるの?」
『白い花畑のあたりをうろついている』
「よかった。赤ずきんがお城に帰る方向とは反対だね」
オオカミはひとまずほっとした。
黒い羽根に覆われたワタリガラスが頭上の枝からぬるりと首を伸ばし、沼地のように濁った鳴き声で笑った。
『獣が喜んでいたぞ。“あれは良い人間だ” と』
「獣が赤ずきんを?」
『“よく呪われ、よく足掻き、よく欲しがる。じつに愛らしい” だとさ』
オオカミはにんまりと笑みを深めた。
獣から見ても赤ずきんは生臭くてかわいいんだなぁ、と愛おしさがふくらむ。
呪いの森の獣は、人間が好きだ。
正確には、人間の感情が好きだ。獣の血と肉と力になる栄養源だから。
愛情。執着。欲望。愉悦。嫉妬。不安。憂鬱。諦め。後悔。恐怖。怒り。憎悪。悲嘆。絶望。人間はいつだって願い、求め、呪う。
人間がいるところに獣は棲む。
だから獣は人間をかわいがる。芽吹きほころぶ花を愛でるように。地面を這う蟻を眺めるように。嵐に沈む小舟を見守るように。
「獣に気に入られるとろくな目に遭わないのにねぇ」
『お前みたいにな』
ワタリガラスはオオカミをせせら笑い、黒光りする翼を広げて飛び去った。しゃがれた鳴き声が森の奥へこだまする。
オオカミが白い花畑のほうに行くと、たしかに獲物はいた。
影と呼ぶには脆く、靄と呼ぶには目につく、呪いの残り滓。
役目を果たしたのか、剥がされ投げ捨てられたのか、いずれにせよ生まれた場所に帰ることができずにさまよっている。
つまるところ、迷子の呪いだ。
迷子のお守りが “狩り” とは、物騒なのか長閑なのか。
呪いの森は、呪いを引き寄せる。
しかし、ここは獣の縄張りだ。
よそで生まれた呪いがいつまでも居座れば、生みの親、呪った者に獣が牙を剥く。とはいえ、獣自身はワタリガラス曰く「お前ら人間が大好きだから寛大に甘々」なので、オオカミが迷い込んだ呪いを狩り、森から連れ出してやれば不問に処している。今のところは。
オオカミはこの狩りの役目のために、獣に契約を結ばされたようなものだ。
「最近多いなぁ。地図でも持たせてやってよ」
オオカミはぼやきつつも、迷子の呪いの手――彼女はつかめたところをそう呼んでいる――を取った。
皮を剥がれた鶏のように肌があわだち、腹をかき混ぜられて吐き気がせり上がる。呪いの記憶が、泥水のようにオオカミの中に流れ込んでくる。呪った者の憎悪と呪われた者の絶望が混ざり絡まりもつれ合い、頭の中を濁流が這いずり回る。
呪った人も呪われた人もどこの誰かも分からないが、どうやらこの迷子は、呪いの役目は立派に果たしたらしい。
呪った者は今頃、呪いが帰ってこないと慌てているかもしれない。もしくは、返されなくてよかったと安心してすっかり忘れているかもしれない。
呪いは人からしか生まれない。
だから人が行く道から人をたどって帰ることができる。
どこかの誰かさんに食べられない限りは。
オオカミは迷子の呪いの手を引いて獣道を戻り、人がいないことを確かめてから林道に出た。
「がんばったねぇ。生まれた場所にお帰り」
迷子の呪いの手を放してもそれはすぐに消えず、両手を伸ばして「遊ぼう」とオオカミにねだっているかのようだった。
「ここにいちゃだめだよ。さぁ、お行き」
オオカミが手を振ると、迷子の呪いはたどたどしい足取りで一生懸命に林道を下って行った。
迷子の呪いから、そこまで美味しそうな匂いはしない。
まだ赤く熟れていない硬い林檎のような匂い。涎は出ないし喉も鳴らない。もぎ取って食べようとは思わない。
赤ずきんと出会って以来、オオカミは呪いの匂いを確かめずにいられなくなった。
灰色狼の毛皮を深くかぶり直す。
まずいなぁ、とオオカミは日を追うごとに危機感を募らせていた。
「迷子の呪いは可哀想でちょっとかわいいよ。赤ずきんにこびりつく豪勢な呪いと違って」
今日も今日とて迷子の呪いをいくつか林道に送り出したあとの午後。
オオカミは呪いの森の暗い木陰で赤ずきんを胸に抱き、ぐしゃぐしゃにかき乱された金の髪をなでていた。
「まるで迷子の子供をあやしてやっているように聞こえます」
赤ずきんは頬ずりしたまま目だけ上げると、不満げに訴えた。
「実際そんな感じだよ。手をつないで道までつれていってあげるんだ」
「呪いの分際で忌々しい…… 身のほどを弁えさせるべきです」
「迷子の呪いたちはお行儀がいいよ。多少ぐずっても、みんなちゃんと帰っていくもの」
ここ最近、赤ずきんは毎日――文字通り――呪いの森を訪れている。
本当にすぐ呪いが溜まるなぁ、よく生きているなぁ、なんでこんなに元気なの?とオオカミは引いた。ちょっとだけ。
「ね? 言ったでしょう? 私を殺したい輩は山ほどいる、呪いも毎日山盛りだ、と」
赤ずきんは開口一番、どこか得意げでむやみに爽やかだった。
たった一日でこんなに大量に呪いがこびりつくなんて、いくらなんでも早すぎる。異常だ。それはそれとして、赤ずきんの呪いは涎があふれそうになるほど甘く匂い、オオカミは夢中になって貪ってしまった。
貴族は呪われるのが日常すぎて慣れっこなのかな、赤ずきんは武勇の誉れ高い騎士でもあるから名誉の負傷みたいな扱いなのかな、やばすぎでしょ、とオオカミは自身の想像にますます引いた。
「オオカミさん、明日と明後日はお仕事をお休みできませんか?」
赤ずきんはオオカミを背後から抱き込み、彼女がシャツの編み紐を結ぶのを邪魔しながら申し訳なさそうに告げた。
「なにかあるの?」
「隣の領主がこの森を視察に来ます」
オオカミはシャツの編み紐を手放し、赤ずきんの大きな手に痩せた自身の手を重ねた。
「ということは、狩猟をするのかな?」
「はい。万が一にも鉄砲の流れ弾に当たっては大変です」
赤ずきんの節くれだった指と皮膚が硬くなった手のひらを、オオカミはつまんだり押したりして味わう。木漏れ日が二人の爪を追いかけ踊る。
「街道を通したい人?」
「状況次第の人ですね」
状況次第でこちら側に引き入れられるかもしれない人。
赤ずきんは領主として呪いの森を守ってくれる。この森はオオカミにとっては家で、彼にとっては財産であり広大な自然の城壁だ。
「分かった。二日くらいなら獣も気にしないと思う」
「もし獣の許しが下りなければ、すぐに教えてください。オオカミさんに危険が及ばないよう、狩猟する範囲を調整します。心配しないでください」
オオカミは赤ずきんのたくましい肩に頭をもたれ胸板に背を預けた。首にかかる彼の呼吸が温かく、くすぐったい。
「二日間も会えないんだねぇ」
赤ずきんが息を呑んだ。
ばかなことを口走った、とオオカミはとっさに固まった彼の手をぎゅっと掴む。
「心配なのはわたしより赤ずきんの呪いのほうだよ。このところほとんど毎日わたしに呪いを食べさせにここに来ているでしょう? 狩猟していても私はいつでも待ち合わせできるよ。いつでも駆けつけるからね」
呪いの森で独りで暮らす欠点は、城下の村々と違い日常的に人と話す機会が極端に減るため、言葉の選び方が致命的に下手くそになることかもしれない。
二日後、昼下がり。
葡萄酒の大瓶を抱え、オオカミは鬱蒼と薄暗い森をこそこそと突き進んだ。




