第2話 呪いと林檎
ほんの数か月前のこと。
「はじめまして、赤ずきん」
「失せろ、オオカミ」
美しい春の朝だった。
おぞましいほど濃厚な甘い匂いが、呪いの森に充満した。
オオカミがその匂いを追ってゆくと、古びた楡の巨木がそびえていた。もくもくとふくらむ新緑が暗雲のように空を覆い、無数の枝々が幾重にも絡み合い、木陰には深い洞窟のごとき暗闇が潜む。
その根元に、深紅のマントをまとう若い男がうずくまっていた。
灰色狼の毛皮をかぶる女を見て、男はすぐにそれがオオカミだと悟ったようだ。
オオカミもまた、赤いフードを目深にかぶった男の顔かたちを見なくても、彼が何者か分かった。
この地を治める伯爵は代々、赤いマントをまとう。
領民たちは尊敬と親愛を込めて、領主を “赤ずきん” と呼ぶ。
オオカミは領民ではないが、呪いの森の住民ではあるので勝手にそう呼ぶことにした。
「赤ずきん、どうしてそんなにたくさん呪われているの?」
大抵の人には、赤ずきんはとても具合が悪く見えただろう。でもそれだけだ。
オオカミには、赤ずきんが汚泥より濁った穢れにまみれ、吐瀉物より饐えた毒に冒され、蠢く蟲どもに食い荒らされて見えた。酷いありさまだった。控えめに言って、死に体だった。
「オオカミ、獣の臣下よ、失せろと言ったはずだ」
「すごくいい匂い。美味しそうだねぇ」
赤いフードの下から、研いだ剣より張り詰めた視線がオオカミに突き刺さった。
「赤ずきん、あなたの呪いを食べていい?」
なに言ってんだこいつ――赤ずきんの視線は雄弁だった。
こんな酷い状態なのに助けを乞いもせず、厳しい表情と疑わしげな目つきで相手を睨むことができるなんてやっぱり貴族はすごいなぁ、とオオカミは感心した。
「あなたを食べたいわけじゃないよ。あなたにかけられた呪いを食べたいんだ」
オオカミは楡の木の下の暗闇に潜り込んだ。赤ずきんの隣に腰を下ろすと、思わず涎が垂れそうになった。
「こんなに甘く美味しそうな呪い、今まで一度もお目にかかったことがない」
巨木の根本に背を預けたまま、赤ずきんはオオカミを見た。
「オオカミよ、貴様は呪いを食べる…… 消すことができるのか?」
「うん。林檎の実を木からもいで食べる。食べたら林檎はなくなる。呪いも林檎も同じだよ」
「私の呪いを食べたら、貴様はどうなる?」
「美味しい呪いでお腹いっぱいになる」
「貴様が呪いを食べたら、私はどうなる?」
「呪いがなくなるから楽になるんじゃないかな」
「私を呪ったやつらはどうなる?」
赤ずきんの声は苦しげにかすれていたが、静かで強かった。死にかけているのに、恐怖、怯え、不安はどこにも見当たらなかった。警戒さえ理性的で、この状況を見極める冷徹な意志があった。領主ってすごいな、まだ若いのにえらいな、とオオカミは素直に赤ずきんに感服した。
「わたしが食べるから呪いは彼らに返らない。ただ、あちらは呪いを取り戻せなくなるから、身を削って作った呪いが使い捨ての無駄づかいになっちゃうかも」
「それはいいな」
赤ずきんは手負いの猛獣が牙を剥くように笑った。愛くるしい笑顔だなぁ、とオオカミの胸は破裂しそうなほど高鳴った。
「赤ずきん、死んじゃ嫌だよ」
オオカミは赤ずきんの呪いを夢中で食べていたが、一人でひとつひとつ咀嚼するので時間がかかった。赤ずきんにかけられた呪いはどれも強く、濃く、大きく、数もやたらと多かった。このままでは、オオカミが呪いをすべて食べ終えるよりも、呪いが赤ずきんの命を喰らい尽くすほうが早そうだった。
「あなたが死んじゃったら、この甘くて美味しい呪いも食べられなくなっちゃう。もったいない」
赤ずきんはオオカミに微笑んだ。
血の気を失い、苦しそうに声もなく、端麗な面立ちは苦痛に歪んでいるのに、深紅のフードの奥で真っ青な目が愉快そうにぎらりと光った。赤ずきんの尊大な生気はオオカミをぞくぞくさせた。強烈な飢えに衝き動かした。
オオカミの腹が鳴る。涎があふれた。赤ずきんに手を伸ばした。上衣の釦をはずし、シャツの裾をたくしあげる。赤ずきんは静かにオオカミを見つめていた。
「……私の腹を割き、呪いを食べるのか?」
「全部一呑みできるかな。初めてだけどきっとうまくいくよ」
毛皮の狼が深紅のフードにがぶりと口づけた。
「オオカミよ、感謝する。貴様の尽力により、呪いは消えた」
金色の髪はぐしゃぐしゃにかき乱されたままだった。赤ずきんの顔色は健やかな血色を取り戻し、目元まで上気していた。なぜかオオカミと目を合わせようとしなかったけれど。
「どういたしまして。どこも痛くない? 苦しくない? 楽になった?」
「……あぁ」
「うまくいってよかったねぇ」
オオカミはほっと安堵して、赤ずきんの膝の上で彼に抱きついた。汗ばんで温かい肌の下で力強い鼓動が跳ねた。
「赤ずきんの呪い、とっても美味しかった! わたしこそありがとう」
巨木の暗い根元で、赤ずきんは救いを求めるように天を仰いだ。
オオカミはぴんときた。赤ずきん、心配しないで、わたしはちゃんと分かっているよ。
「また呪いをかけられたら遠慮なく声をかけて。今日みたいに、いつでも私が食べてあげる」
「オオカミさん! 乙女がそのように危険な言葉を軽率に口走ってはいけません!」
赤ずきんは真剣な表情でオオカミに苦言を呈そうとしたが、膝に乗せた女からあわてて目を逸らした。オオカミの肩にかろうじて引っ掛かっていた灰色の外套をつかむと、赤ずきんはあられもなく無頓着な女をきっちりとくるんだ。
「赤ずきん、話し方が変だよ。呪いの影響かな?」
「これが素の口調です。若造の領主と舐められないよう、偉そうに威厳を示さなきゃいけないんです」
「伯爵様は大変だねぇ」
オオカミののんきな様子は、赤ずきんをさらに打ちのめしたようだ。
「呪いで穢れるから立ち去ってくださいと懇願したのに!」
「“失せろ” ってそういう意味だったんだ」
「林檎をもいで食べるのと同じなら問題ないと思ったら、こんな…… こんなことになるなんて! 私は命の恩人に…… 純潔の乙女になんという非道を犯してしまったのか……」
「元気になってよかったねぇ。でも、赤ずきん――」
オオカミが赤ずきんの頬をなでると、彼はぴたりと動きを止めた。
「あなたはこれからも呪われ続けるよね」
「そうでしょうね」
赤ずきんはこの呪いの森を守ってくれる。
森を切り拓き街道を通す計画を、領主の権限で反対してくれている。彼が邪魔な人間は多い。赤ずきんはすぐまた呪われるだろう。
「あなたに死なれると困るなぁ」
赤ずきんはオオカミの手のひらに頬を押しつけた。乱れた金の髪の隙間から、甘える仔犬のような、あるいは獲物に狙いを定めた猛獣のような眼差しがオオカミを捕らえた。
「赤ずきん、私にあなたの呪いを食べさせて。呪いの森では騎士道を忘れて。ここは獣の縄張りだよ」
あらためて思い返しても、オオカミは自分の軽率さに驚かされる。
とはいえ、森を守ってくれる領主はありがたい。うっとりするほど甘く美味しい呪いを差し引いても、赤ずきんに死なれると困るのは本当だ。それは今も変わらない。
晴れた初夏の午後、オオカミは呪いの森の陰鬱な獣道を進む。
薄暗い緑の天井から射し込むか細い木漏れ日が揺れた。風を押しのける強い羽ばたきとともに、オオカミの頭上で太い枝がぎしりと軋んだ。灰色狼の毛皮の中から見上げると、大きな漆黒のワタリガラスがオオカミに重く濁った鳴き声をあげた。
『おい、オオカミ』
「やっほー、ワタリガラス」
『獣の伝令だ。獲物が来たぞ。狩りの時間だ』




