第1話 オオカミと赤ずきん
「こんにちは、赤ずきん」
「こんにちは、オオカミさん」
オオカミは舌なめずりした。
赤ずきんは甘い匂いがする。
呪いの森は昼でも鬱蒼と薄暗い。生い茂る枝葉が頭上で絡み合い、木陰は真夜中のようだ。ここには秘密を隠す場所がたくさんある。
オオカミが赤ずきんのフードをはずし、紐をほどく。深紅のマントが落ちて、血溜まりのように広がる。赤ずきんに抱き締められ、毛皮をなでられる。うっとりする。極上の葡萄酒のようだ。早く味わいたい。食べ尽くしたい。
美味しい。赤ずきんは、なんて美味しいんだろう。
歯を立て、食んで、舐めて、吸って、皮膚がほてる。重ねすぎた唇がひりつく。真上から赤ずきんの汗が滴る。お日様のような金の髪がこぼれ落ち、灰褐色の髪と混じる。真っ青な瞳が琥珀色の目をのぞきこむ。赤ずきんの微笑みが甘く蕩ける。オオカミは厚くたくましい胸板に押しつぶされる。重い。熱い。オオカミの腹が満たされる。
「オオカミさん、私の呪いは美味しいですか?」
赤ずきんの青い目が爛々と輝いている。オオカミはつい、生臭くてかわいいなぁ、とにっこりしそうになった。しなかったけど。ぎりぎり危なかった。
オオカミは最近いつも思う。
しくじったなぁ。この男に手を出すべきじゃなかった。
「甘くてすごく美味しいよ」
「ご満足いただけましたか?」
「うん、お腹いっぱい。赤ずきんは体調どう?」
「オオカミさんが呪いをすべて食べてくれたので身軽になりました!」
けだるげな満足感とすがすがしい解放感って共存できるんだ、すごいなぁ、とオオカミはちょっとだけ赤ずきんに見惚れた。ちょっとだけ。
赤ずきんからは、健やかな汗と清潔な蝋のような匂いがする。
泥のように甘い呪いの臭いは、もうしない。
「よかった」
「よかったですか!? やったぁ!」
「呪いが消えてよかったね、って意味」
オオカミは赤ずきんの金色の頭をなでながら起き上がった。
この男には、金毛の猟犬が尻尾をぶんぶんと振るような愛らしさがある。苔むした地面に深紅のマントを敷く貴公子らしさがある。鬱蒼とした森の暗い木陰で女と抱き合う野蛮さがある。
赤ずきんの生身の人間らしさが、オオカミはたまらなく愛おしい。
「次はいつ会えますか?」
赤ずきんは上衣の釦をかけながら、いつものようにオオカミにたずねた。
「あなたの呪いが溜まったら」
「じゃあ、すぐですね!」
赤ずきんは、これまたいつものように、初夏の太陽くらいまばゆい笑みを輝かせた。残念、やはり背後の景色と合わない。ここは優雅な領主の城ではない。陰鬱な呪いの森だ。
「嬉しそうに笑うことかなぁ?」
「私を殺したい輩は山ほどいます。呪いも毎日山盛りです!」
「伯爵様は大変だねぇ」
赤ずきんはこれでもこの地を治める伯爵だ。
二十歳そこそこなのに、領主として重責を背負い、日々呪いをかけられ、命と領地を狙われている。
オオカミは赤ずきんが心配だし労わるが、可哀想だなぁと憐憫を覚えはしない。彼を呪う者たちに怒りも非難も感じない。貴い者、強い者は、望むと望まざるとにかかわらず非があろうとなかろうと、それだけで妬まれ恨まれ呪われる宿命にある。仕方がない。人間だもの。
ただオオカミは、呪いをかけてまでその座を狙う者たちの気が知れない。
呪いは人を容赦なく削り取るのに。
「大変ですよ」
赤ずきんは屈託なく認めると、オオカミを両腕できつく抱きすくめた。
「だから、オオカミさん、これからも私をいっぱい食べてくださいね」
赤ずきんはオオカミの耳を唇で食みながらささやいた。こめかみと頬をついばみ、オオカミと額をこつんとつき合わせる。オオカミが琥珀色の目だけで赤ずきんを見上げると、金褐色の睫毛の下から空色の瞳が見つめていた。餌をねだる飢えた金毛の仔犬のように。
いや、こんな厄介な仔犬がいてたまるか、とオオカミは自分を奮い立たせた。
「赤ずきんの呪いは美味しいからいつでもおいで。そろそろ行かなきゃ。腕を放して」
オオカミが思っていたより、ずいぶんそっけない声が出た。
赤ずきんはすぐに従った。両腕が開き、オオカミが身を離す。赤ずきんはあからさまにしょんぼりと寂しげな顔になった。そのくせ、熱っぽく獰猛に、決してオオカミから目を離さない。オオカミは赤ずきんを抱きしめ、噛みつくように口づけたい衝動に駆られた。またしても危なかった。
赤ずきんの求愛はオオカミをいつもたじろがせる。
熱烈で潔い。貪欲で容赦ない。素直で危なっかしい。
ただの救命活動だよと苦笑いで受け流せたらいいのに。残酷に弄んで突き放せたらいいのに。できないんだよなぁ、これが。
オオカミは狼の頭の毛皮をかぶり直す。
赤ずきんは深紅のマントを再びまとう。
「またね、赤ずきん」
「それではまたすぐに、オオカミさん」
呪いの森には大きな道がひとつ、小さな横道またの名を獣道が無数にある。
赤ずきんは大きな道を戻って城へ。オオカミは横道に入って森の奥へ。
まさかこんなことになっちゃうとはなぁ、人生なにが起きるか分からないものだねぇ、とオオカミは暗い獣道を足早に歩く。
この呪いの森で赤ずきんと初めて出会ったときの情景が、ふとオオカミの脳裏によみがえった。




