6
帝都グラナダから北へ数刻。
かつて「不毛の魔山」と呼ばれ、帝国の発展を阻んできた峻険な山脈の麓に、私は立っていた。
そこは、王国の瑞々しい緑とは対照的な、灰色の岩肌が露出した死の土地だ。
「……本当に、ここでやるのか? アニエス。無理はしなくていいと言ったはずだ」
背後でセドリック様が、心配そうに私の肩に手を置く。
周囲には帝国の魔導技師たちや、護衛の精鋭が固唾を呑んで見守っている。彼らの目は、期待と「本当に元聖女一人でこの土地が変えられるのか」という疑念が入り混じっていた。
「セドリック様。王国での私は、溢れ出る魔力を削って『維持』することに必死でした。……でも、今は違います」
私は深く息を吸い込み、大地に両手をかざした。
八年間、エリオット様やリリアに吸い取られ続け、無理やり抑え込んできた私の「本質」。
それは、ただの癒しや浄化ではない。
――あらゆる生命の循環を強制的に加速させる「豊穣」の奔流だ。
「……解き放たれなさい。私の、本当の力」
カッと、視界が真っ白に染まった。
指先から溢れ出した魔力は、王国のそれとは比較にならないほどの密度で大地へ突き刺さる。
次の瞬間、地鳴りが響いた。
灰色の岩肌から、瑞々しい若芽が爆発するように芽吹き、一瞬で大樹へと成長していく。澱んでいた大気が一気に浄化され、乾いた風が花の香りを運ぶ春の旋風へと変わった。
「な……なんだ、これは……! 伝説の『創世の祈り』か!?」
技師たちが腰を抜かし、叫び声を上げる。
セドリック様は、驚愕に目を見開き、そして歓喜に震える声で笑った。
「素晴らしい……! アニエス、君は『聖女』などという器に収まる女ではなかった。君こそが、この世界を塗り替える真の主だ!」
私は額の汗を拭い、微笑んだ。
この山が緑に包まれたことで、帝国の物流は安定し、国力はさらに強固になる。
私が注いだ力は、そのまま私を大切にしてくれる「新しい居場所」の血肉となるのだ。
────
その頃。
対照的に、ラ・ヴァリエール王国の王都は、文字通りの地獄と化していた。
結界が完全に消失したことで、街の至る所に下級魔物が現れ、住民たちは恐怖に震えている。
王宮内も悲惨だった。魔導設備がすべて沈黙したため、夜は暗闇に包まれ、冬でもないのに凍えるような寒さが廊下を支配している。
「……アニエスは。アニエスはまだ見つからないのか!」
玉座の間で、エリオット殿下が狂ったように叫んでいた。
彼の顔は、不摂生とストレスで土気色になり、かつての「輝ける第一王子」の面影はない。
「報告します……! 帝国の国境へ向かった特使カイルは、入国を拒否された上、アニエス様から『さようなら』と拒絶されたとのこと……!」
「馬鹿な……! あの女が、私を捨てるはずがない! 私がいなければ、あいつは行き場のない惨めな女だったはずだ!」
そこへ、ボロボロになったリリアが駆け込んできた。
彼女の美しいはずの髪はパサつき、肌は荒れ果てている。アニエスが密かに施していた「美容の加護」が切れた影響は、残酷なまでに顕著だった。
「エリオット様! お願いです、今すぐ隣国へ逃げましょう! 私の部屋に……私の部屋に、巨大なクモの魔物が出たんですの! 衛兵たちも、もう言うことを聞いてくれませんわ!」
「黙れ! 貴様が、貴様がアニエスの真似事さえできれば、こんなことには……っ!」
エリオットはリリアを突き飛ばした。
愛を誓い合った二人の絆は、極限状態の中で呆気なく崩れ去っていた。
「……殿下、もはや一刻の猶予もございません」
かつてアニエスを追い詰めた重臣たちが、震える声で進言した。
「今朝、帝国の『不毛の山』が、アニエス様の手によって緑豊かな森に変わったという報告が入りました。……彼女の力は、我々が知っていたものよりも遥かに強大だったのです。彼女を失った我々に、民はもう従いません」
「そんな……。嘘だ。あんな女に、そんな力があるはずが……」
エリオットの言葉を遮るように、王都の鐘が乱打された。
それは、防衛線の最終突破を告げる絶望の音。
「殿下! 魔物の大群が正門を突破しました! 民衆も『聖女を追い出した無能な王族を差し出せ』と暴動を起こしています!」
「あ……あぁ……」
エリオットは腰を抜かし、震えながら呟いた。
「アニエス……。すまなかった……。戻ってきてくれ……。お前さえいれば、私はまた完璧な王子に戻れるんだ……!」
だが、その声が彼女に届くことは二度とない。
帝国では、セドリック様が私の腰を抱き寄せ、冷徹なまでの勝利を宣言していた。
「アニエス。見ろ、南の空が赤く染まっている。……王国の終焉だ」
私はセドリック様の胸に顔を寄せ、目を閉じた。
かつて私を必要としていた場所が燃え上がる音を聞きながら、私は生まれて初めて、深い安らぎの中で微笑んでいた。
「ええ。さようなら、私の過去。……これからは、この輝かしい帝国の未来だけを見つめて生きていきますわ」
王国という泥沼に沈んだ「出がらし」は、帝国の「生ける女神」として完全に新生したのだ。




