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国境を越える瞬間、空気の質が変わったのがわかった。
重苦しく淀んだ王国の魔力溜まりから抜け出し、ゼニス帝国の清冽で力強い大気が肺を満たす。
私は馬車の窓を開け、夜明け前の冷たい風を全身で受け止めた。
「アニエス様、まもなく入国審査場です。準備はよろしいですか?」
ライルの落ち着いた声に、私は深く頷く。
手元には、数ヶ月前から用意していた偽造……いえ、「予備」の身分証がある。名前はアニエス・グレー。没落貴族の娘という、ありふれた肩書きだ。
入国ゲートには、帝国特有の漆黒の鎧を纏った兵士たちが並んでいた。王国の軟弱な門番とは違い、彼らの瞳には厳しい規律と、何より「自国への誇り」が宿っている。
「次、止まれ。……入国の目的は?」
無愛想な兵士が馬車を覗き込む。
私はあらかじめ用意していた、少しばかり「幸の薄そうな令嬢」の仮面を被って微笑んだ。
「療養のため、湖畔の別荘へ向かいます。親戚を頼りにしておりますの」
差し出した身分証を、兵士が魔法具の照合機にかける。
心臓がわずかに高鳴るが、この身分証は帝国の裏社会にも通じる最高級の品だ。弾かれるはずがない。
「……アニエス・グレー嬢。問題ない。ようこそゼニス帝国へ。……おや、顔色が悪いようだが。聖女の加護がない国から来た者は、よく体調を崩すと聞く。無理はしないことだ」
「お気遣い、ありがとうございます」
皮肉なものだ。
聖女の加護を「作っていた」本人が、加護不足を心配されるなんて。
無事にゲートを通過し、馬車が再び走り出す。
これで私は、法的にも物理的にも、あの地獄から解放されたのだ。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
国境近くの宿場町に入ったところで、ライルが緊張した面持ちで馬車を止めた。
「……アニエス様。どうやら、予定していた宿に先客がいるようです。それも、かなりの大物が」
宿の入り口には、見覚えのない……いや、歴史の証書や外交文書で目にしたことのある「蒼氷の獅子」の紋章が掲げられた軍馬が繋がれていた。
ゼニス帝国の第二皇子、セドリック・フォン・ゼニス。
冷徹無比で知られ、若くして帝国の軍権を握る「戦神」の異名を持つ男。
(どうしてこんな辺境に皇子がいるの?)
嫌な予感がした。
私は顔を隠すようにフードを深く被り、ライルの後に続いて宿のロビーに足を踏み入れた。
目立たぬよう、端の席でチェックインを待とうとしたその時――。
「……随分と遠くまで来たものだな。王国の『宝石』殿」
低く、地響きのような声が背後から届いた。
心臓が跳ね上がる。
ゆっくりと振り返ると、そこには磨き上げられた漆黒の軍服に身を包んだ、銀髪の男が立っていた。
セドリック皇子。
冷たくも美しい双眸が、鋭く私を捉えている。
「人違いではございませんか? 私はただの療養客で――」
「嘘が下手だな。貴女が放つその魔力の残滓、この国の結界を一瞬で揺るがすほどの密度だ。それを隠しきれていると思っているのは、貴女か、あるいは貴女を捨てたあの馬鹿王子くらいだろう」
彼は迷いのない足取りで近づき、私の目の前で足を止めた。
圧倒的な威圧感。
だが、その瞳に宿っているのは敵意ではなく、どこか奇妙な「歓喜」だった。
「アニエス・公爵令嬢。……いや、今は名無しの聖女か。エリオットが貴女を追放したという報を聞き、国境まで迎えに来た。私の読みが当たって光栄だよ」
「……迎えに? 帝国が私を捕らえて、王国への外交カードにするおつもりですか?」
私が警戒して指先に魔力を込めると、セドリックはふっと口角を上げた。
「まさか。あんな腐りかけの国に恩を売るほど、私はお人好しではない。……私が欲しいのは、カードではない。プレイヤー自身だ。アニエス、我が帝国へ来い。貴女が王国で受けていた扱いの、百倍の報酬と自由を約束しよう」
あまりにも直球なスカウトに、言葉を失う。
「……私はもう、聖女として働く気はありません。疲れ果てたのです。静かに暮らしたいだけなの」
「分かっている。無理に祈れとは言わん。だが、貴女がそこにいるだけで、周辺の魔素が安定する。その『存在の価値』を、正当に評価したいと言っているのだ。……それに」
彼は一歩、距離を詰めて囁いた。
「貴女を捨てた報いを、あの愚か者たちに見せてやりたくはないか?」
その言葉は、私の心の奥底に沈んでいた黒い感情を的確に突き動かした。
────
一方、その頃。
国境を越えた先にある王国・王宮では、異変が現実のものとなっていた。
「……おい、どういうことだ! なぜ湯が出ない!」
エリオット殿下の怒号が、冷え切った寝室に響き渡る。
メイドたちは真っ青な顔で平伏していた。
「申し訳ございません、殿下! 魔力温熱器の魔石が、今朝から全く反応しないのです!」
「ふん、魔石の交換を怠ったのか? まったく、アニエスがいなくなってからというもの、使用人どもの手際が悪すぎる。リリア、君からも何か言ってやってくれ」
隣で着飾ったリリアが、震える手で茶杯を持っていた。
「え、ええ……。でもエリオット様、なんだか部屋が……異様に、カビ臭くありませんこと?」
それは、アニエスが毎日無意識に行っていた「空間浄化」が途絶えた結果だった。
壁の隅からは黒い染みが広がり始め、豪華な絨毯には不気味な虫が這い出している。
さらに、王宮のバルコニーに立ったエリオットは、地平線の彼方を見て目を見開いた。
澄み渡っていたはずの空が、不気味な紫色に染まっている。
王国を覆っていた巨大な結界が、まるで割れたガラスのように、あちこちで剥離し、地上へと降り注いでいた。
「な……なんだ、あれは……。リリア! すぐに祈れ! 聖女の力を見せてみろ!」
「えっ!? あ、あの、わ、私……そんな、急に言われても……っ」
リリアの祈りは、空しく空に消えていく。
彼女が持っていたはずの「聖女の兆し」は、アニエスが慈悲で分け与えていた魔力の残滓に過ぎなかったのだから。
王国が「真の地獄」へと足を踏み入れたその瞬間。
アニエスは、帝国の皇子の差し出した手を見つめていた。
「……いいでしょう。ただし、私の条件は厳しいですよ、セドリック様」
「望むところだ。その方が、手に入れがいがある」
アニエスの新しい物語が、今、猛烈なスピードで動き始めようとしていた。




