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私が必要なのは貴方の方でしょ? でも私は帰る気はありませんから。さようなら。  作者: 逆立ちハムスター


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 ガタゴトと揺れる馬車の振動が、これほど心地よく感じられるなんて。

 王都を離れる夜道、私はふかふかの座席に深く背を預け、大きく息を吐き出した。


「……終わった。本当に、終わったのね」


 独り言が暗い車内に溶けていく。

 エリオット殿下は「泥水をすするがいい」と仰ったけれど、残念ながら私の手元にあるのは泥水ではなく、数年かけて着々と蓄えてきた莫大な「個人資産」と、隣国の有力者との間に結んだ「秘密の契約書」だ。


 私が無能? 聖女の力が衰えた?

 笑わせてくれる。

 半年前、エリオット様が私の忠告を無視して聖域の木を切り倒したあの夜、私は悟ったのだ。この男は救いようのない愚か者であり、この国はもう長く持たないと。

 それからの私の行動は早かった。


 王妃教育の合間を縫って、自分の給与や公爵家からの援助を少しずつ換金し、信頼できる商会を通じて隣国『ゼニス帝国』の銀行へ送金した。

 さらに、私が独自に開発した「魔力ポーション」の特許を匿名で登録し、そのロイヤリティだけで一生遊んで暮らせるだけの富を築いている。


「アニエス様、お疲れ様でございました」


 御者台から小窓越しに声をかけてきたのは、幼い頃から私に仕えてくれた従者のライルだ。彼は公爵家を見限り、私の「夜逃げ」に喜んで同行してくれた、この国で唯一の味方である。


「ええ、ライル。準備は完璧だったわね」


「はい。王宮の結界維持に使われていたアニエス様の魔力が完全に途絶えたことで、今頃は魔力感知型の警報機が鳴り響いているはずです。……もっとも、殿下たちがその意味に気づくのは、明日の朝以降でしょうが」


 想像するだけで、唇の端が吊り上がる。

 私がペンダントを外したことで、王宮内の「温度調節」「自動洗浄」「害虫忌避」といった生活魔法の基幹システムもすべて停止したはずだ。

 明日の朝、エリオット様は冷え切った部屋で目覚め、詰まった便器と格闘することになる。聖女を道具扱いした代償としては、まだ序の口だ。


「それで、アニエス様。まずは予定通り、国境の街『フェンリル』へ向かいますか?」


「ええ。そこで『聖女アニエス』は死ぬわ。これからは、ただのアニエスとして生きるの」


 私は窓の外を流れる景色を見つめた。

 王都の華やかな灯りはもう見えない。代わりに見えるのは、満天の星空と、どこまでも続く暗い森。

 これまでは「国を守るため」に、この森に潜む魔物の気配に怯え、魔力を注ぎ続けてきた。けれど今は、その魔物たちさえ私を縛る鎖から解放してくれた同志のように思える。


 ふと、馬車が急停車した。


「……ライル? どうしたの?」


「アニエス様、申し訳ありません。前方に……『客』がおります。それも、招かれざる客ではないようで」


 私は眉をひそめ、ドアを開けて外に出た。

 夜の静寂を切り裂くように、数人の騎士たちが馬に乗って立ち塞がっている。

 その鎧に刻まれているのは、我が公爵家の紋章――私を勘当したはずの、父の手の者だ。


「アニエス様! 止まりなさい!」


 先頭に立つのは、公爵家の騎士団長、バルト。幼い頃に剣術を教わったこともある、厳格な男だ。


「何の用かしら、バルト。私は既に勘当され、国外追放を命じられた身よ。今更連れ戻そうなんて言わないわよね?」


 バルトは苦渋に満ちた表情で、馬から降りて膝をついた。


「……公爵閣下からの伝言です。『ペンダントを返せ。あれは公爵家の至宝であり、王家との契約の証。手放すことは許されぬ』と」


 私は思わず吹き出した。

 あの不気味な呪いの道具を、まだ私の所有物だと思っているの?


「あら、あれはエリオット殿下の足元に置いてきたわ。拾うなり踏みつけるなり、好きにすればいいと伝えてちょうだい」


「いけません! あの石は、アニエス様の指紋と魔力波長でロックされています。貴女様が直接触れて再起動させねば、この国の結界は完全に崩壊する……! 閣下も殿下も、そこまでは想定していなかったのです!」


 夜風が冷たく吹き抜ける。

 バルトの言葉は、この国のエリートたちがどれほど「聖女」という存在を、ただの「便利な電池」程度にしか考えていなかったかを物語っていた。

 

 スイッチを入れれば光り、切れば止まる。

 壊れたら修理すればいい。

 そんな傲慢な勘違いが、今、彼らの首を絞め始めているのだ。


「想定していなかった? ……バカバカしい」


 私は一歩、彼らに歩み寄った。

 指先にほんの少しだけ魔力を込める。

 聖女としての「慈愛」ではない。敵を排除するための、鋭利な「力」だ。


「私が八年間、どんな思いであの石に魔力を注ぎ、心を削ってきたか。それを『想定していなかった』の一言で済ませるつもり? 貴方たちが私に強いたのは、王妃の座という名の監獄だったわ」


「アニエス様……!」


「帰りなさい。私にはもう、あの石を動かす魔力も、この国を守る義理もありません。……どうしても通さないというのなら、ここで『元聖女』の本気を見せてあげてもいいけれど?」


 私の背後で、空気の密度が物理的に増していく。

 長年抑圧されていた魔力が、主の怒りに呼応して溢れ出していた。

 騎士たちの馬が恐怖に嘶き、後退りする。


 バルトは驚愕に目を見開いた。

 彼が見てきた「おしとやかで、自己犠牲を厭わないアニエス」は、もうどこにもいない。


「……今の私は、とても気分がいいの。邪魔をしないで」


 冷たい微笑みを浮かべると、バルトは力なく首を振った。


「……負けました。狂っているのは、閣下たちの方だ。……行かれませ。ですが、これだけは覚えておいてください。貴女様がいなくなったこの国は、おそらく冬を越せません」


「ええ。承知しているわ」


 私は再び馬車に乗り込み、扉を閉めた。


「ライル、出して」


「御意」


 馬車は再び走り出す。

 追いかけてくる者はもういない。

 

 冬を越せない?

 勝手にすればいいわ。

 燃え盛る暖炉も、温かいスープも、愛する人の腕も。

 すべてを当たり前だと思って踏みにじった者たちに、相応しい結末が訪れるだけ。


 私は鞄の中から、一枚の地図を取り出した。

 目的地は、帝国の保養地として知られる美しい湖畔の別荘。

 そこには既に、私の新しい名前と、新しい戸籍が用意されている。


「さようなら、私の地獄」


 私はようやく「自分」を取り戻した。

 物語はここから。

 追いかけてくるであろう、絶望に染まったエリオット様の顔を想像しながら、私は至福の眠りに落ちた。

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