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シャンデリアの豪奢な光が、網膜を刺すように痛い。
王宮の大広間は、着飾った貴族たちの熱気と、芳醇すぎる薔薇の香水、そして隠しきれない悪意に満ちていた。その中心で、私は一人の男と対峙している。
私の婚約者であり、この王国の第一継承者――エリオット・ド・ラ・ヴァリエール。
「……というわけだ。アニエス、貴様との婚約を今この瞬間、破棄することを宣言する!」
朗々と響き渡る声。静まり返る会場。
彼の腕には、桃色のドレスを纏った小柄な娘がしがみついている。私の異母妹、リリアだ。彼女は大きな瞳を潤ませ、勝ち誇ったような光をその奥に潜ませながら、わざとらしく肩を震わせた。
「お姉様……ごめんなさい。私とエリオット様は、真実の愛で結ばれてしまったのですわ。貴女のような冷徹な方に、殿下を縛り付ける権利はありません」
冷徹、か。
私は心の中で、乾いた笑いを漏らした。
この八年間、私がどれほどの「熱」を彼とこの国に注いできたか。
聖女の守護を司る公爵家の長女として生まれ、十歳で婚約が調ったその日から、私の生活はすべて「王妃」と「結界の維持」に捧げられた。
朝五時に起き、山のような書類を捌き、午後は祈祷室に籠もって魔力を削り、夜はエリオット様の未熟な執務を影で代筆する。
彼が「名君」と称えられた数々の政策は、すべて私が寝る間を惜しんで書き上げたものだ。
私の指先は、絶え間ない魔力の行使で常に微かに痺れ、肌は日光を浴びる暇もなく青白い。それを「愛想がない」「不健康で気味が悪い」と切り捨てたのは、目の前の殿下、貴方ではないか。
「理由は……それだけでしょうか、殿下」
私は努めて冷静に問い返した。声が震えないのは、悲しみよりも先に、得も言われぬ「虚無」が胸を支配したからだ。
「ふん、往生際が悪いな! 聖女としての力も最近は目に見えて衰えている。魔物除けの結界は薄れ、領民からは不安の声が上がっているのだぞ。その上、愛らしいリリアを嫉妬に駆られて虐げ、階段から突き落とそうとしたという報告も受けている。このような邪悪な女、王妃の座に置くわけにはいかん!」
嘘八百、という言葉では生ぬるい。
結界が薄れているのは、エリオット様が「王家の威厳を見せる」と称して、守護の要である聖域の木々を伐採し、別荘を建てたからだ。私はその穴を埋めるために、自らの生命力を削って魔力を供給し続けていた。
リリアを突き落とした? 彼女が自分で転んで、近くにいた私に濡れ衣を着せた現場に、殿下がタイミングよく現れただけのこと。
「……そうですか。私の力は、もう必要ないと」
「ああ! 幸いリリアにも聖女の兆しが見えている。貴様のような出がらしはいらん。今すぐこの場から去れ! 公爵家からも除籍するよう、既に父上に進言してある。貴様のような女に、名門の姓を名乗る資格はない!」
周囲の貴族たちから、さざなみのような嘲笑が漏れる。
「哀れなものね」「能力もないのに椅子にしがみついて」「リリア様こそ真の王妃だわ」
昨日まで私に媚を売っていた者たちが、手のひらを返したように毒を吐く。
私はゆっくりと、首元に触れた。
そこには、歴代の聖女が王家との契約の証として身につける「天界の涙」と呼ばれる魔石のペンダントがあった。
この石が、私の魔力を増幅し、国中に張り巡らされた結界のコントロールユニットとなっている。
「分かりました。婚約破棄、並びに国外追放、謹んでお受けいたしますわ」
「ふん、聞き分けが良いな。だが言っておくが、後で泣きついても遅いぞ! 落ちぶれた貴様が泥水をすすりながら『戻りたい』と縋り付いてきても、私は二度と視界に入れてやらん!」
エリオット様はリリアの腰を抱き寄せ、これ見よがしに彼女の額に口づけた。
私は無表情のまま、ペンダントの留め具を外した。
「ええ、ご心配なく。私からも、一つだけ。……このペンダントを外せば、私は契約から解放されます。それはつまり、私がこれまで個人的に維持していた『すべて』の権利と加護が、消失することを意味しますが……よろしいですね?」
「言葉遊びはやめろ! 貴様の微々たる加護など、リリアがいれば十分だ。さっさと消え失せろ、この無能が!」
「……承知いたしました」
私はペンダントを、足元の絨毯に無造作に落とした。
カラン、と硬質な音が響く。
その瞬間、私の背中を常に覆っていた重苦しい「鎖」が弾け飛ぶ感覚があった。
八年間。
この国のために、この男のために、私は自分を殺してきた。
食事の味も、花の香りも、眠りの心地よさも、すべてを魔力変換の触媒にして捧げてきた。
(ああ、なんて――なんて、軽いの)
視界が急にクリアになる。
エリオット様の顔が、驚くほど滑稽に見える。
「では、失礼いたします。エリオット殿下、そしてリリア様。どうぞ、末永くお幸せに」
私は最高に優雅な、そして人生で最も心のこもっていないカーテシーを披露した。
そのまま、振り返ることもなくホールの出口へと歩き出す。
「おい、どこへ行く! 衛兵! こいつを国境まで連行しろ!」
「必要ありませんわ。既に荷物はまとめてありますし、行き先も決まっております。貴方たちの手を煩わせるほど、私は厚かましくありませんから」
私は背中越しに言い放った。
門をくぐる直前、背後で微かな「音」が聞こえた。
パキ、と。
それは王宮を覆っていた目に見えない結界に、最初の亀裂が入った音。
気づいていないのかしら。
私というフィルターを通さなくなった王宮の空気が、急激に澱み始めていることに。
リリア様が持っているという「聖女の兆し」なんて、私が彼女の体裁を保つために分け与えていた、残り香のような魔力に過ぎないということに。
夜風が頬を撫でる。
王宮の外に待たせていた馬車に乗り込むと、私は御者に短く告げた。
「出して。……二度と、ここには戻らないわ」
馬車が走り出す。
遠ざかる王宮を見上げながら、私はそっと唇を綻ばせた。
明日には、魔物たちが結界の綻びを見つけるだろう。
一週間後には、エリオット様が「自分が書いていたはずの」書類の山に埋もれて絶望するだろう。
一ヶ月後には、枯れ始めた農地と暴動の兆しを前に、私の名前を叫ぶに違いない。
「必要だったのは、私の方ではなく……貴方の方だったのよ。エリオット様」
でも、もう遅い。
私はもう、ただの便利な道具ではない。
自由な一人の女として、私は私の人生を始めるのだ。
夜の帳の向こう側、隣国へと続く道は、驚くほど明るく開けていた。




