表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エスメラルダ  作者: 古都里
第1章 王はただ一人を追い求める
31/93

31 一瞬の独占

 マーデュリシィが目を覚ますと、沢山の巫女達が自分の周りを囲んでいた。

 マーデュリシィは不思議に思う。


 まだ、生きている。


 血族の掟に逆らった自分は、『贄』になるのではなかったか?


「マーデュリシィ様!!」


「大祭司様! お目覚め遊ばされたのですね!」


 巫女達の嬉しそうな声。


 働かない頭で、マーデュリシィは現状を把握しようとした。

 今いる場所は私室ではない。

 神殿の奥の間、常日頃マーデュリシィが祈りを捧げる祈祷の間の手前だ。

 そこの大理石の台にマーデュリシィは横たえられていた。


 半身を起しながら、マーデュリシィは必死に思い出そうとする。

 頭が割れそうに痛い。


 此処で、自分は予言に襲われた。


 予言とは、形あるものではなく幻のようなもの。

 強い予言は意識を引き摺りこみ、まるで夢を見ているような気分にさせる。

 力のない者が見ること叶わぬその予言は、マーデュリシィを選び、そして彼女は拒んだ。


「マーデュリシィ様……?」


 不安そうに声をかけたのはつい先日この神殿に迎え入れたカリカという巫女だった。

 血族の娘。

 現段階ではマーデュリシィの次に優れた力をもつ、娘。


 今わたくしが死を命じられたら、わたくしを食すのはこの子、だけれども……。


 マーデュリシィは予言を見ていない。

 その予言から逃げ出してしまった。

 何故逃げたのかも思い出せないが、きっとそれほどまでに恐ろしいものであったのだろう。


 知らなくてはならない、血族の娘がそれから逃げるなどと……それは大罪だ。


「お前達……」


 マーデュリシィは口を開いた。


 喉の奥が乾いてひりついている。その喉が痛い、と、思ったらマーデュリシィにグラスが差し出された。空っぽだったグラスは、マーデュリシィの手に触れると、水で満たされる。冷たく凍るような水に。


 こくり、と、喉を潤してからマーデュリシィは微笑を浮かべ、グラスを差し出した巫女に有難うを言ってから問うた。


「わたくしはどれ位眠っていたかしら?」


「一刻ほどです」


 巫女の答えに、マーデュリシィは胸をなでおろす。

 まだ何もかもが手遅れというわけではない、と、そう、思いたい。


「悪いのだけれども。カリカと二人きりにしてくれないかしら?」


 カリカは驚いた顔をしたが、巫女達は顔を見合わせ、そして頷いた。


「御用があればお呼び下さいまし」


 年嵩の巫女がいい、マーデュリシィは素直に「勿論」という。

 静かに、巫女達は退出して言った。


 彼女らの中で、大祭司マーデュリシィが意味のない事をしない人間だという認識がある故に、誰も不安にも不満にも思わない。

 退出して行く巫女達の後姿を見てマーデュリシィは溜息を押し隠した。


 自分が拒絶した予言は知らなくてはならないもの。

 大祭司が予言を拒むなどと本来あってはならないことだ。


 だから、責任は取らなくてはならない。


「カリカ」


「はい!」


 上ずる声で返事をするカリカに、マーデュリシィは何だかとても心が痛くなる。

 カリカはまだ十三歳。

 そんな幼い娘に自分が言おうとしている事は……。


「予言を見ましたか?」


「……いえ」


 カリカは俯いた。


「マーデュリシィ様の恐怖が流れ込んできて、悲鳴を上げてしまいました。ですが予言は……見えていません」


「……血族の掟は、知っていますね?」


 落ち着いたマーデュリシィの声にカリカは子供のように首を振った。


「嫌です! 嫌!! 私はマーデュリシィ様を食べたくない!!」


「カリカ……予言を拒絶したわたくしは責任を……」


「取る必要はないのですよ、大祭司様」


 不意に声が響き、カリカは身を震わせ、マーデュリシィは目を見開いた。その場に現れたバジリルは、何処か嬉しそうに言う。


「貴女が『贄』となることを、アユリカナ様も未来の王妃様も望んでいないのです」




◆◆◆

 レーシアーナはぼんやりと瞳を開けた。

 その青い瞳に飛び込んできたのは自分の瞳よりも更に青い、美しい宝石のような青だった。


「……ブランシール様……」


 レーシアーナは淡く微笑む。


「余り喋るな。酷い熱だ」


 そう言うとブランシールはレーシアーナの額に乗せてあった手巾をとり、サイドテーブルの上にある手桶の水にそれを浸してから、絞って、再びレーシアーナの額に乗せた。


 お優しいブランシール様……。

 

 レーシアーナは泣きたくなった。

 今の今までこの身に訪れていた夢には何の根拠もない。

 ブランシール様はこんなにもお優しく『あんな事』はなさるはずがない。

 ブランシールはそんな男ではないはずだ。


 だが、レーシアーナは何故か解っていた。



 あの夢は真実なのだと。



 マーデュリシィが拒絶したという予言を自分が見たとまではレーシアーナは知らない。


 だが、あの悪夢は真実だ。

 これから起こる悪夢は、ブランシールを殺すか、さもなくば……さもなくばレーシアーナが動かなければ確実に現実へと変わるだろう。


 それはなんという恐ろしい事か。


 ただの夢であればいい。

 産褥熱で妄想を現実と信じ込んでしまったというだけなら救われる。


 だけれどもそうでない事をレーシアーナは魂の奥深くで知っている。


「レーシアーナ、何故、泣いている? 苦しいのか?」


 ブランシールはそう言うと妻の頬に手を沿わせた。


 真っ赤な、林檎のような頬。

 愛しいとブランシールは思う。


 自分はこんなにもレーシアーナを愛していたのだと、思い知り、胸が抉られるような痛みを覚える。


 それなのに自分はレイリエを抱いたのだ。

 愛していない女の言葉に、夢遊病に掛かったかのように従ってしまったのだ。


 死んでしまいたい、とブランシールは思った。


「大丈夫、です。ブランシール様……。お一人ですか?」


 レーシアーナの言葉にブランシールは一瞬首を傾げ、すぐに頷いた。


「ああ、妻の看病をするのは夫の役目だろう? すまなかった、レーシアーナ。僕の子供を産んでくれた大事なお前だというのに看病を人任せにしてしまって……」


 レーシアーナは鼻腔がつんと痛くなるのを感じた。

 今度は喜びの涙だ。


「ブランシール様、お気になさらずに、どうか……ブランシール様には御役目があるのですもの。今は……大丈夫なのですか?」


「大丈夫だ。というより、仕事をしていたら陛下に謝られてしまったよ。自分の婚儀の準備の為にすまないとね。そしてお前の許に行けと仰られた」


「陛下は、優しいお方ですね」


 そういうレーシアーナの額に張り付いていた一筋の金の髪を、ブランシールはそっとかきあげる。


「ルジュアインは?」


 はっとしたようにそう言うとレーシアーナは飛び起きようとした。が、すぐに肩をブランシールに押さえ込まれ、寝台に沈められてしまう。


「あの子は母上が預かって下さっている。たまには夫婦二人で過ごすようにとの仰せだ」


 レーシアーナの身体からすっと力が抜けた。

 ブランシールは肩を押さえつけていた手を離し、レーシアーナの髪をもう一度かき上げると、靴を蹴り飛ばすように脱いで、レーシアーナの隣に滑り込むと、仰向けに眠っているレーシアーナを抱き締める。


「もしお前がこうしていてもいいというのなら、今夜はお前を抱き締めて眠りたい」


「……はい」


 レーシアーナは答え、額から手巾をとった。そして身体を反転させるとブランシールの胸に顔を埋める。


 石鹸の匂いは、夜故の湯浴みの所為なのだろうか? それとも……夢で見たようにレイリエと寝た、その痕跡を隠す為の物なの?


 ああ、全てが妄想であったら良いのに。


 今抱き締めてくれている腕のぬくもりだけで夫を信じ切れない自分を激しく嫌悪しながらも、レーシアーナはブランシールにしがみついて離れなかった。


 今、世界が終ればいい。

 

 そんな事が起こりうるわけではないのだと、レーシアーナには解りきっていたけれども。


「───ブランシール様……」


 震える声で、レーシアーナは言った。

 だけれども、震えてはいてもそこに湛えられるは強くしなやかな意思。


「なんだい?」


 ブランシールは問いながら、少し驚いていた。


 レーシアーナはこんなに細かっただろうか?

 強く抱き締める事が躊躇われてしまう、折れそうな身体の妻。


 ブランシールが今まで望んだものの中で唯一自分のものになったもの。

 そのレーシアーナがいう。


「……抱いてくださいませ」


 どくんっ、と、ブランシールの胸が鳴った。


 まざまざと思い出す。

 張りのある柔らかく白い肌。吸えば花を散らしたかのように紅い跡が刻まれるそんな肌。

 甘い匂いがした。

 髪からも肌からも。

 足の指の爪まで完璧に整えられてあった……レイリエ。

 淫らに乱れ、喘いで、自分を溺れさせたレイリエ。


 だが。

 ブランシールはレイリエの寝台から出ると仕事を放り投げて神殿の潔斎の場にて湯浴みを行った。

 何一つ感触を残したくなかったので、まだ寒い季節だと知っていながら、湯と石鹸で身体を洗った後に、塩と水で身を清めた。

 それでも、まだ完璧に感触が消えたとは思えない。


 その身体で、レーシアーナを抱くのか?


 それはレーシアーナを穢す行為のように思えた。



 レーシアーナは僕の聖域。

 穢してはならないもの。

 大事な大事なレーシアーナ。



「レーシアーナ、僕は……」


「汗臭い事は存じております……ですがどうか……」


 胸に顔を埋めているレーシアーナの表情は、ブランシールからはうかがい知れない。

 それでも、痛々しいくらいにつたわってくる決意。


 汗の匂いなど気にならない。

 そうじゃない、そうじゃないんだ。


「……レーシアーナ、今日は駄目だよ。汗の匂いなんか気にならない。でも熱が引くまでは……」


「嫌です」


 きっぱりと、レーシアーナは言い切る。


「───女にこのような事を言わせて、恥をかかせるおつもりですか? 酷い、方」


 ブランシールは胸が濡れるのを感じた。

 また、レーシアーナが泣いているのだ。

 新しい涙をこぼしているのだ。


 可哀想なレーシアーナ。

 不実な夫を持ってしまったレーシアーナ。


 それなのにその不実な夫を愛してしまっているレーシアーナ。


「レーシアーナ……顔を上げて」


 ブランシールは泣きたい思いでそう言った。


 愛している。愛しているんだ。

 だから僕なんか死んでしまえばいい。


 ゆっくりと顔を上げたレーシアーナの瞳には涙が盛り上がり、その赤い頬は涙の筋で汚れていた。


 ブランシールは片腕だけでレーシアーナを抱き締め、あいた手でレーシアーナの顎を持ち上げた。

 そして口づける。

 優しい口づけ。


 レイリエにした、貪るような口づけとは違う。

 だが、何倍も何倍も想いがこもったもの。


「一晩中、お前が眠ってしまうまで口づけるから、許して」


 ブランシールの言葉に、レーシアーナは仕方のない人、と、微笑んだ。


 抱いてくれと懇願したが、今の自分の身体が性愛に耐えられるのか、レーシアーナは自信がなかった。

 ルジュアインを産んですぐに医師が言ったのは産後一月経過すれば大丈夫だろうという言葉だったが、まだ悪露が完全に止まった訳でもなければすぐに熱が出てぐったりと動けなくなる。

 この身体で愛する夫と愛し合えるのかは甚だ疑問だったが、しかし、レーシアーナは強請ってしまった。


 夢の通りにブランシールがレイリエを抱いていたのならば、そんな感触を夫の中から消し去ってしまいたくて。

 

 それに今夜が最後のチャンスかもしれないとレーシアーナは思ってしまったのもある。


 ブランシールは優しく口づけを続ける。

 初めてブランシールにキスされた時は鬱憤を叩きつけられたかのように思ったけれども、今のキスはとても優しくて愛されている事だけを感じる。


 嗚呼、レイリエの事なんか考えるのはやめよう。


 レーシアーナはそう思った。


 だってわたくし、今こんなに幸せなのよ?


 つぅっと、涙が頬を伝う。


 その涙に、ブランシールは口づけた。

 段々、レーシアーナは自分が何故泣いているのか解らなくなってくる。

 それでも涙は止まらない。


 ブランシールの胸は温かく逞しく、自分を包み込んで、そして雨のようにキスが降ってくるというのに。


 何が悲しいの?


 こんなにこんなに幸せなはずなのにね。


 今まさに抱き締められていて、今だけはわたくしだけのブランシール様だというのに、不思議ね。本当に不思議ね。


 




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ