32 鎮魂歌の前奏曲
光陰矢の如しというが、その言葉はとても正しい。
まだまだ自分が婚礼衣装を着るには間があると思い込んでいたエスメラルダだが、気が付けば五月になっていた。
王と王妃の華燭の典を寸前に控え、人々はある意味殺気立っているといっても良い。
最高の式を! 携わる人々の想いはそれに尽きる。
芸術の国メルローア、人々のプロ意識は海より深く山より高い。
エスメラルダはただただ、華燭の典の後は堂々と誰に遠慮する事もなくフランヴェルジュの隣に立てるというその喜びで身が震えそうだった。
心の何処かが嫌な予感に侵食されている。
しかし、もうすぐ愛する男の妻と成れるのだという喜びはその嫌な予感が見えぬようエスメラルダの目に目隠しをした。
出会って一年と少しでの婚姻。
それでも、エスメラルダは急ぎ過ぎたとは思わない。
レーシアーナが身籠らなければ婚姻はもっと先の話だっただろう。
だから、エスメラルダはレーシアーナとルジュアインに感謝している。
愛し合っているのに、人目を憚ることなく愛し合えない状態を変えてくれたのはレーシアーナとルジュアインだ。種を付けたというのならブランシールにも感謝せねばならないのだが、何故かエスメラルダの頭に彼の名は浮かばなかった。
五月三日、エスメラルダは朝食をレーシアーナと取っていた。
フランヴェルジュとブランシールも参加しての討論はとても面白かったが、レーシアーナの出産の二ヶ月前からはその習慣は一時的な休み、に入っている。
レーシアーナが出産を終え、母子ともに安定したら再開される予定だった。
その頃にはレーシアーナとエスメラルダはブランシールの婚約者と話し相手、ではなく共に妃としてテーブルに着くのだろう。
とても楽しみだが、レーシアーナは元通りの身体に戻るのだろうか。
エスメラルダの心配はまさにそこに尽きる。
朝食を食べ終わると、レーシアーナは可愛くエスメラルダにお強請りをした。
華燭の典に出席する為のドレスの最終チェックに付き合ってもらえないかしら?
エスメラルダは快諾した。
周りはすさまじく忙しく動いている物の肝心の花嫁たるエスメラルダは暇を持て余していたし、レーシアーナと過ごす時間は宝だったからだ。
その頃にはレーシアーナは自力で身体が起こし、少し動き回れる程に回復していた。
出産前の踊るような足取りで動き回っていたレーシアーナには遠いものの、エスメラルダは日々日々元気を取り戻していくようなレーシアーナを見ると幸せな気持ちになる。
レーシアーナは揺り篭にルジュアインを寝かしつけ、衣装室にぶちまけられるだけドレスを並べていた。
侍女達は早々に追い出されている。
レーシアーナにとって侍女達は他人に過ぎず、おまけに言うならば身体さえ本調子ならば必死で仕込んだその侍女達よりレーシアーナの方が何倍も働くことが出来るのだ。
邪魔だと言ってはいけないのだろうけれども、貴重なエスメラルダとの時間を邪魔されるのは真っ平だとレーシアーナは思ったのだった。
「構わなかったのかしら? わたくし、お邪魔ではなくて?」
遠慮しがちのエスメラルダに、レーシアーナは笑った。
「わたくしが貴女を邪魔だなんて思う日は来なくってよ。それこそわたくしの胸の中にある愛情に対して失礼だわ」
「ご免なさい」
謝るエスメラルダを、レーシアーナは愛おしそうに見詰める。
「さぁ、エスメラルダ、一緒に衣装を選んで頂戴。神殿での衣装を。他の衣装はもう決めてイエルテ達にフォビアナのところへ持っていかせたわ。新しく仕立てた衣装、みんなゆるくなってしまったの。子供を産んだばかりだというのに何故こんなに痩せてしまったのかしら? なまじ余裕を持って仕立てただけに悲惨よ」
レーシアーナの笑顔に、エスメラルダも笑う。
「結婚式の七日前に衣装をひっくり返しているだなんてね、レーシアーナらしくないわ。いつも貴女って用意周到なイメージがあるんですもの」
「あら? 勿論ちゃんと用意してあったのよ。でもこんなに痩せるのなんて想定外だったわ。痩せてしまった所為で似合わなくなったものもばかりよ。特に胸の開いたドレスなんて着られないわ。引っかかるところがないから落ちてしまいかねないわ。各国の貴賓の皆様の前でない胸を晒す事になってしまうもの。恥ずかしくて」
「まぁ」
エスメラルダはそう言うとじっとレーシアーナを見詰めた。
「そういえば、かなり痩せたわね」
「でしょう?」
答えるレーシアーナの頬は薔薇色なのだけれども、その顎は鋭く尖っている。
頬自体も、もともとふっくらしていたのに、なんとかこけてはいないという程度だ。
「神殿で行われる儀式で着る衣装だけは、他のどの衣装を着たわたくしよりも綺麗なわたくしでいたいのよ」
レーシアーナの顔から笑みが消える。
真剣な表情が取って代わる。
「夜会のドレスの方が大変じゃなくって? 煌びやかさというのであれば」
エスメラルダの言葉に、レーシアーナはかぶりを振った。
はっきりいってレーシアーナには、神殿での衣装以外の衣装はどうでも良かった。
「わたくしは多分、出られないわ」
レーシアーナの言葉に、エスメラルダは瞠目する。
「どうして……? あ!」
思い当たる事があって、エスメラルダはぽんと手を叩いた。
「ルジュアインをみなくてはならないものね。あの子は幾ら夜会だとはいえ、放っては置けないわ。人見知りするものね。生まれたての赤ちゃんが人見知りするなんて変な話だけれどもね」
勝手に納得したエスメラルダに、レーシアーナは答えずにただ微笑を浮かべる。
答えられようか?
否、答えられるはずがない。
それから二人は猛然と衣装を選んだ。
◆◆◆
何時間もかけて、時には小さな口論をしながらもレーシアーナが選んだのは、瞳の色を引き立てる青いドレスではなく、血のように赤いドレスだった。
そのドレスは、レーシアーナの白い肌を更に引き立てるドレスではあったし、彼女を本当に美しく見せたのだが、エスメラルダは何故か気に入らなかった。
しかしレーシアーナは譲らない。
それが良いと言い、結局根負けしたエスメラルダはそれをフォビアナの許にもって行くという使いの役目まで引き受けたのだった。
ぱたん、と、扉が閉まるのを確認して、レーシアーナは崩れるようにその場に座り込む。
ねぇ、ルジュアイン、母様を許してね。
まただ、また溢れる、涙。
涙が止まらなかった。
泣いてばかりだ。
あの日。
血族の話を聞いて以来毎日のように見る同じ夢。同じ未来。
その夢の示すところは解った。
そして自分がどうすべきかも解った。
問題は、それが出来るか不安になるほどレーシアーナが恐怖に駆られている事だ。
守らなくてはならないものは沢山ある。
そしてそれが出来るのはレーシアーナだけ。
あの夢が妄想でないのなら、自分に出来る事は一つだけ。
解っていても、恐怖が薄らぐものではない。
それでも、自分は必ずそうするだろうという確信めいた思いがある。
恐ろしい話。
その時。
こんこんと扉を叩く音がした。
侍女たちを無視して入ってこれるのは王族と、エスメラルダだけ。
「レーシアーナ、わたくしよ、入ってよくて?」
エスメラルダの弾むような声が聞こえる。
「え、ええ、いいわ」
レーシアーナは大急ぎで涙を拭った。
扉が開く。
「レーシアーナ、実はフランヴェルジュ様がね……どうしたの!?」
エスメラルダは悲鳴のような声を上げた。
「え?」
レーシアーナは思わず間の抜けた返事をする。涙はもう溢れていない。それなのに?
「床に座り込んだりして……どうしたの? 疲れているのなら休んだほうがいいわ」
エスメラルダはそう言うとレーシアーナの許に駆け寄った。
真っ赤な頬に走る涙の後に気付いて、エスメラルダは息を呑む。
「何があったの? それとも泣くほど体調が悪いの?」
「違うわ」
あと数日で花嫁になろうとする親友に、余計な気苦労はかけたくないと、レーシアーナは笑って見せた。
「一寸疲れただけよ、体調は平気。式までには、完璧に元気になって見せるから心配しないでね? 可愛いエスメラルダ」
「式が日延べできないのが何ともいえないくらい口惜しいわ。この日程はルジュアインの為の物だって解っているから自分を納得させようと思ってきたけれども」
ぷぅっと、エスメラルダは頬を膨らませた。
政争の、内乱の、……そんな火種をまかないように、ルジュアインとブランシールが利用されないように、王の正妃と嫡子が必要。
解っている。
だけれども理屈で片付かない事もある。
「貴女の体調が整ってからのお式では駄目だなんて、本当に腹がたつったら。大体、わたくしの結婚式でもあるのに、わたくしは何の意見も求められなかったのよ? 男の人ってそういうものなのかしら? 強引で、ずるい。沢山の人がわたくしの為に駆けずり回ってくれている事を知らなければ、逃げ出したい気分よ。強引だった事を、フランヴェルジュ様は後悔なさったら良いのよ」
エスメラルダの剣幕に、レーシアーナは落ち着いた声で宥める。
「仕方がない事よ。わたくしの体調管理がなっていないことがいけないのであって陛下が悪くていらっしゃるのではないわ。それより、随分早かったのね。フランヴェルジュ様の事を言いかけていたけれども、どうしたの?」
巧みに話題を変えられて、エスメラルダは気付かずそれに乗る。
冷静な時のエスメラルダなら異常に気付いたことであろう。
だがもうじき花嫁になるという喜びがエスメラルダから平常心を奪っていた。
心を侵食していた嫌な予感はすっかり忘れ去られており、代わりに小さな不満がこぼされ、そして、それもすぐに泡の如く消えていった。
残ったのは浮き立つ思いのみ。
レーシアーナと一緒なら不安も不満も忘れられたのである。
「あのね、フランヴェルジュ様がこれからお城を抜け出してブーケを作るんですって。職人の作ったブーケではお気に召さなかったらしいの。だから貴女のドレスを預けたのよ、フォビアナのところにも行くらしいから。ドレスの最終点検ですって」
まぁ、と、レーシアーナは笑った。
「メルローアの国王陛下を使いぱしりにする女なんて貴女くらいよ」
「そうね」
エスメラルダも笑う。
二つの笑い声が重なり、生まれるのはハーモニー。
だけれどもそれは、鎮魂歌の前奏曲。
ねぇ、エスメラルダ。
わたくしの事を、どうか許して頂戴ね




