捕らわれるは鷹の瞳か、幻影か
屈んでいる腰を引き寄せるように回された腕。
記憶の中のカルティエとは違う男性の身体。
シャリアとして初めての感触。
(襲われる。)
逃げろ、動け、と身体に伝達しているのに腕は垂れ下がったままだ。
その指先がぴくりと動いたことで日常の一幕がよぎった。
(「お嬢様。後ろから拘束された時は――。」)
そうよ。
こういう時は相手の不意を突いて逃げる隙を作らなければ。
相手の足に狙いを定めてヒールを上げる。
「シャリア嬢。暴れられると貴女を濡らすことになる。」
私を狙っていた?
いえ、この声は。
聞き覚えのある声に振り上げていた足は地面を踏む。
恐る恐る声を辿れば金色の瞳が鋭さを増していた。
「、、ウィルヘム殿下。」
息を吐くように漏れた声は彼の名を呼んでいた。
私を覆う彼の前髪は影を落としていることで黒髪のように見える。
そんな前髪から覗く瞳が金色であることに胸が疼いた。
――――逃れたい。
恐怖からではない衝動が身を捩らせる。
「待て。今離れる。」
回されていた腕は無くなった。
それでも依然として殿下の温もりが残っていることに、思わず手を回して自らの熱で上書きしようとしていた。
泉のほとりで殿下には背を向けたまま立ちすくむ。
(「姫様。」)
熱くなる目頭を堪えるために目を閉じ、回した手に力を込めるとドレスに皺が走る。
「申し訳ない。」
声とともに殿下が動いたことを察したが、すぐに振り向くことは出来ない。
一息ついてゆっくりと身体を後ろへ向ける。
息が止まった。
私の影が殿下を黒く染め上げていた。
跪いてうつむく黒髪の彼がそこにいる。
「突然のご無礼であったこと、怖い思いをさせてしまったこと、重ねてお詫びする。」
言うべき言葉を頭でなぞらえても震える唇は声に出せておらず、それは沈黙に過ぎない。
見上げる金色の瞳と視線が交わった。
「シャリア嬢?」
私に問いかける瞳の色に捉えられる。
(「殿下に仕えさせていただいた折には、一生涯お守りすることを誓います。」)
ああ、こんな時にどうして……。
滲む視界の中で彼は私の左手をとった。
革手袋に包まれた大きな手、その親指が甲を優しく一撫でする。
「私を見てはくれないか。」
僅かな木漏れ日に照らされた紺色の髪が風に揺れている。
金色の瞳が逃がすまいと私を見上げてきている。
この瞳は危険。
一度捕えられれば逸らすことは出来ない。
まるで、
―――獲物を狙う鷹の瞳。
ざわめきだつ木々の擦れる音が私達の間を通り抜けていく。
気付けば私は殿下に見下ろされていた。
伏せた目には睫毛がかかり、冷たい瞳に艶を含ませる。
左手で革手袋の手首のボタンを外し、すーっと引き抜くと骨ばった大きな右手が露になった。
瞬いた目が試すように私を覗いている。
拒絶しなくてはならない。
けれど、、、動けない。
肩にかかる髪へおもむろに手を伸ばしてくる。
“お止めください。”
喉まででかかっているこの言葉をなぜ言えないの。
忘れると決めていても心はカルティエだけを想っている。
それなのに今は殿下の手を振り払うことが出来ない。
「貴女が先に私を捕らえたのだ。」
紺色の髪なのに。
金色の瞳なのに。
初めて視線を交わした時も。
どうして重ねてしまうのでしょう。
鷹に似ているからでしょうか。
あの凛々しさが重なるからでしょうか。
その目と合うと貴方に見られているようで――。
私の髪を一房とるとふっと目を細めた。
「「シャリア嬢。(姫様。)」」
「、、、、ェ。」
「ウィルヘム殿下!!」
遠くで微かに聞こえた声に我に返る。
私、今何を口に――。
「どうやら時間のようだな。」
言葉とは裏腹に殿下は髪を手に取ったままだ。
殿下の長い指に絡みつく自分の髪。
それが堪らなく羞恥さを醸し出す。
絡んだ私の髪を堪能するように、ゆっくりと指先から指の間を滑らせていく。
熱を帯びた瞳がその光景を見下ろしていた。
「、、、もうお止めになってください。」
拒絶するにはあまりにも弱々しい声だった。
それを見透かしたように殿下は微笑む。
欲情のような、意地悪なような。
美麗で冷酷な彼がそのように笑えば世の女性は堕ちてしまうだろう。
「はっきり拒絶してくれなければ勘違いしたくなるが。」
はらりと髪が落ちる。
殿下は私を見つめたまま、髪を触れていた己の手の平に口付けた。
その意味合いに全身が脈打つ。
いけない。
このままでは殿下に流される。
頬にさわる髪が銀色に輝いて眼下に流れた。
視線を下げて口角を上げるとその髪を耳へかける。
金色の瞳を真っ直ぐに見つめて口を開く。
「からかわないでください。」
殿下がからかってなどいないことは分かっている。
分かっているけれど、殿下をはねのけるにはこの言葉以外に見つけられない。
「こうでもしないと貴女は私を見てはくれないだろう?」
愛を囁くにはあまりにもその瞳は違う。
「婚約者でもない、ましてや初対面の令嬢にとる行動ではありません。」
「シャリア嬢も分かっているだろう。父は貴女を私の婚約者に望んでいることを。」
「それをご存知ならば余計ここまでする必要はないはずです。」
「、、、そうだな。」
目を逸らして手袋をはめ直した殿下は、横を通り過ぎて泉の前に佇む。
「身分は違えど所詮私達はお家のための駒。」
殿下の言葉に口をつむぐ。
私の一瞬の変化を見過ごすことなく、殿下は「虚しいか?」と尋ねた。
だが殿下は返事を求めてはいない、そんな気がした。
水面に反射した光に目を細める殿下に幼きカルティエの姿が重なった。
(「もうすぐ父上達が来て下さいますから。」)
安心させるように柔らかく目を細めた貴方。
(「見つけてくれてありがとう。マグルド。」)
あの時はまだ貴方をマグルドと呼べたのですよね。
瞬きをするとそこには綺麗な泉があるだけ。
「殿下。私は殿下を見ることはございません。」
心は穏やかなままそう告げる。
「ああ。貴女の心には誰かが居座っているからな。」
(どうしてそれを。)
殿下に問いたくても口にはしなかった。
「ウィルヘム殿下!」
その声を皮切りに駆け寄って来る騎士達の登場で、やっと夢から覚めたような感覚がする。
「殿下申し訳ありません。やはり目を離すのにも限界が。」
一人の側近が謝ったことであえて殿下を単独行動させたと分かった。
「いや。お陰でシャリア嬢と過ごせた。」
私へ向けられた表情に騎士らが息を呑む。
殿下の甘い雰囲気によからぬ疑惑を抱かれそうな気がする。
否定しておかなければ万が一陛下の耳にでも入ってしまったら。
「誤解を招くような発言はお止めになってください。変な噂がたとうものなら――。」
「変な噂とはどのようなものだ?私とシャリア嬢が仲睦まじいと?」
「殿下は王太子であらせられるのです。不用意に女性との噂がたてば品位に関わります。」
「相手が貴女ならば光栄な限りだ。」
のらりくらりと交わしながら私の上をとろうとしてくる。
仮にもあの陛下の子息ですものね。
私の顔を見てふっと笑ったかと思えば、頭を僅かに傾けた。
「そのように困った顔をするのも私のせいか?」
顔には出していないはずなのにどうしてばれてしまうのだろう。
それに初めて挨拶を交わした時との変貌に、何が殿下をこうさせたのかとますます謎が深まる。
「失礼ながら私は殿下と相容れない存在です。」
「それは、、、。」
そう呟き泉に視線を流して再びこちらを見ると、右手をこめかみに添えて口を開く。
「どうだろうな。」
今は革手袋に隠されているその“右手”。
私の髪を絡みつけた長い指に、あの熱い瞳――。
口を閉ざした私を見ると殿下は僅かに口角を上げる。
(わざと見せつけて、、、。)
苦言を呈せない私に殿下は目を細めたが、すぐに冷酷な表情へと変わった。
「戻るとしようか。」
騎士に連れられたリゲルに跨る殿下を無意識の内に目で追う。
違うと頭では理解していても、黒を纏った殿下にカルティエの幻影を見出だしてしまう。
「貴女の馬も待ちわびているようだ。」
殿下の視線の先ではアヴァンがこちらを向いて足踏みをしていた。
アヴァンを放ってしまったことに申し訳なくなり優しく一撫ですると、尻尾を大きく一振する。
「ごめんなさい。今日は謝ってばかりですね。」
早く乗ってと急かすアヴァンに微笑んで跨がると満足そうに首を動かした。
「白と黒か。」
殿下に近付いた私達とリゲルを見比べてそう一言呟いた。
前を行く殿下の後ろ姿を見て残響したのは彼の冷たい言葉。
“所詮私達はお家のための駒。”
ええ痛い程知っていますよ。
だからカルティエへの想いも王家のため、国のために押し殺したのですから。
後ろを向くと水面は内なる光を放ちながら景色を映し出している。
白髪の少女と黒髪の少年が水面に揺れた。
瞳を閉じて前を向く。
ですが、今世では少し抗ってみたいのです。
ウィルヘム殿下、やはり私は貴方の婚約者だけにはなれません。




