回想:セシリア王女の婚約破棄3
「こちらへ。」
ある一室の前で立ち止まれば温もりは離れていく。
ここまでですね。
短い間でしたけれど、これで。
白い手袋をはめた手がノブを回し扉を開くと彼はもう隣にはいない。
名残惜しくても「椅子まで支えてくだいませんか。」と言うことは許されません。
「ありがとう。」
これを言えば彼はいつもの様に扉を閉めるでしょう。
他の騎士もそろそろ来るでしょうし。
部屋に一歩入っても扉の閉まる音がしない。
不思議に思い振り返ると、合図の言葉を聞いたはずのカルティエは部屋との境界で立ち止まったまま。
彼は私を見つめていた。
「カルティエ?なにか。」
「やはり、椅子までお支えします。」
そう言いきると彼の長い脚が境界を越える。
私に腕を伸ばし、視界一杯には彼の胸元が広がった。
抱き締められると思ってしまうほどの光景。
ふわっと先程よりも遠慮がちに回された腕からは彼の優しさが伝わる。
ほんの今しがた短い時間で感じた温もりにもかかわらず懐かしさを感じてしまう。
彼が部屋の中まで入ってくるなんて。
騎士といえどもなるべく緊急時以外は部屋に二人きりという状況は避けるもの。
それを分かっているからこそ彼の配慮が身に染みる。
「姫様、ご気分はいかがですか。」
座った私に合わせるよう腰を屈めて近づいた彼に思わず目を逸らす。
想像でしかなかったカルティエの腕の感触と温もり。
いまだ腰に残るそれらが否応なしに彼を一人の男性として強く意識させた。
「、、、何かありましたらお声がけください。」
言葉の間から自分のした行動の意味を察してすぐに視線を戻しても、背中は遠ざかってゆく。
何か言わなければと口を開いても喉が締め付けられ口を閉じる。
移ろいだ視界は膝の上にある自分の手先を眺めていた。
引き留めたところで何を言えばよいというの。
私は王女で彼は騎士。
これ以上の意味などないのですから取り繕うのは可笑しいこと。
「、、、カルティエ。」
動かぬ視界のままで漏らしたのは彼の名。
誰にも聞こえない独り言。
悲し気に笑って重ねた手を握りしめる。
それなのに、室内に響いていた離れ行く足音が止んだ。
「いかがなさいましたか。」
他の誰でもない声で私に向けられた言葉に、視界は自然とそちらへ手繰り寄せられた。
かすかに柔らいだ目に締め付けられる胸も今は心地よいとさえ思える。
何度も何度も望んではいけないことと己を律しても、こうして束の間の幸福に身を焦がす。
今だけ、せめて、少しだけ、などと言葉を並べてはただのセシリアが貴方を乞うという矛盾に揺れる。
「いえ、手間をとらせてしまいましたね。」
嬉しさも切なさも貴方に見せることは出来ない。
咄嗟に理由をつけて微笑む。
「私は王女殿下に仕える騎士ですので。」
主君として喜ぶべき忠義の言葉。
傍に控える王女付きの騎士として相応しい名誉。
伸ばされた背筋と騎士の誇りである剣は貴方にとてもよく似合っております。
それが何よりも主従の関係を知らしめる。
至極当然の言葉ですのに貴方の口から改めて伝えられると胸を抉る凶器になるのですね。
「しばらくこちらでお休みください。」
彼は軽く頭を下げて部屋を後にする。
カチャンと閉まった音は、彼と広い室内で一人椅子に腰かける私を断つ。
四角い窓縁から覗くのは星。
ここからはあまりよく見えないのですね。
今宵の星は綺麗でしょうに。
息を吐いて視界を閉ざす。
ヴァルク子息の数々の無礼な言動に我慢して参りましたが、これも―――。
思い出したくもない表情と手の感覚が急に襲いかかり、残っていたカルティエの温もりを蝕む。
反射的に自らを抱きしめて息を整える。
14歳の頃から植え込まれてきたあの目。
汚されてはいないのに、あの目で見られると自分が穢らわしく思えることさえある。
「私は王女なのですからしっかりしなければ。」
かような者に心を乱されるなど甚だ遺憾極まりない。
「ふふっ。」
今の私の表情は王族としてあるまじきものでしょうね。
ルイフェル・ヴァルク侯爵子息。
貴方は私の「婚約者」、、、なのですから。
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