□月星暦一五五一年六月〜十月 落涙
本編ヒロイン
レイナ視点が続きます
□レイナ
「ウェスペルが起きないの」
「ウェスペルさまは、お寝坊さんですからね」
マイヤの訴えを、乳母は笑顔で流した。
「床がね、つるつるなの。滑っちゃうの」
「急激に冷えてきたからな。水溜りとか、気をつけろよ。凍っていたりするからな」
「綺麗な羽が欲しいのよ」
「あら、どんな鳥かしら。見つけたら。教えてね」
「起きないのよ。冷たいのに、おかしいのよ?」
「……?」
六歳の娘が、拙い言葉で訴えていたというのに、 レイナもアトラスも、
気づいてやれなかった。
レイナ自身は無縁だったが、竜護星王家は始祖に巫覡を持つ家系である。
マイヤが巫覡適正があることを、考慮するべきだったのだ。
幸が不幸が、マイヤはそれまで死というものに触れずにきた。
それ故に、『視た』ものが弟の絶命の瞬間だったとは、理解していなかった。
「なぜ、起きないの? ウェスペル。なんでそんなところで寝ているの?」
「起きて。ウェスペル。遊びましょう?」
「欲しかった鳥の羽、見つけたのよ。これが欲しかったのでしょう? ねえ、ウェスペル。ウェスペルったらっ!」
棺に横たわるウェスペルに声をかけ、必死に起こそうとするマイヤの姿を見ていられなかった。
娘に、死というものを理解させるきっかけが、自分の弟という現実を、レイナは受け止められなかった。
それ以上に、息子が幼い生命を散らした現実を、レイナ自身が消化できていなかった。
レイナが泣いてしまったら、アトラスは泣けない。
わかっていても、涙を止めることができなかった。
使いものにならないレイナに代わって、方方に連絡を入れ、葬儀の手配をし、弔問客に挨拶をするアトラス。
その傍らで、彼はマイヤを諭し、レイナを慰める。
鋼の意志ですべきことを優先して、熟せてしまうのがアトラスだった。
いくら心が抉られていても、悟らせない。
多感な少年時代の時間の多くを、戦場で過ごしていたアトラス。彼は当時、自分が傷ついていることすら気づいていないような、歪な精神状態だったという。
経験から、無意識に自分の心を閉ざす方法を知っている。
蓄積するダメージに気づかない振りができる。
良い傾向ではない。
だが、アトラスに負担をかけているのは判っていても、レイナは頼らざるを得なかった。
そうであるほどに、参っている自分をレイナは自覚していた。
※
ウェスペルの死後数ヶ月は、ふわふわと水の中でも歩いているような、実感の無い日々を過ごしていた。
事故だったのだからと、そう簡単に割り切れるわけがない。
ここのところのレイナは、国主としての仕事にも身が入っていない状態だった。
しゃんとければ、と、どんなにそう考えても、身体は正直だった。
それでも、業務が回っているのは、宰相であるモースとその部下たち、そしてアトラスの尽力によるところが大きかった。
月星では残夏を迎えようとする頃に、例年通り、『月の大祭』の招待状が届いた。
『タビス』であるアトラスは当然、出席する。
大祭への出席は、アトラスがレイナとの婚姻で月星を離れる、条件の一つである。
正直、塞ぎ気味だったレイナの気は進まなかった。
だが、気分転換にもなるから行きなさいと、モースに諭された。
出席を決めたレイナは、今年は、マイヤも連れていくことを決めた。
レイナが一時もマイヤから目を離したくなかったということもある。
もし、この娘迄もいなくなったらと思うと、身体の芯が冷たくなるほどの恐怖だったのだ。
月星へは船を使う。
竜を使えば数日で済む距離も、王という体面がある。
天候悪化の可能性も鑑みると、九月中には立たなければならなかった。
女官頭のペルラやその夫である、重鎮のライ。宰相のモースに国を頼んで、レイナは旅立った。
船で行かねばならないレイナに代わって、ぎりぎりまで城での業務を代行し、直前に単身竜を使って月星入りすることも多いアトラスだったが、今回は船旅に付き合ってくれている。
初めての大海原を進む船に、マイヤは興奮していた。
海に落ちやしないかと、欄干には近寄らないように厳重に言い含めた。
海が見辛いと不服を露わにしながらも、マイヤは従ってくれる。
気にしすぎだと、アトラスや侍女のハールには呆れられた。
※
月星王都アンバル入りし、城に到着した一行を王妃のネブラが自ら出迎えてくれた。
アトラスとレイナ、マイヤをアウルムの待つ応接室に案内してくれる。
「痛ましいことがあり、御心も休まらないでしょうに、出席してくださること、感謝いたします」
そう言って、王妃はふっくらとした色っぽい唇を、柔らかく結んだ。
黄色味の強い砂色の髪を高く結い上げた王妃の栗色の瞳には、知的な色が伺える。
ネブラ・ナン・テルグム。
初めて会ったのは、タビスとしてアトラスが六年ぶりに戻った月の大祭で、レイナに求婚をした直後だった。
皆が固唾を飲んで遠巻きにしか見守る中、一人平然と近づいてきて祝福を述べた女性。
その時は大祭の後で、ネブラとは共通の友人であるアウラを介してお茶をする機会があったが、レイナの第一印象は『包容力のある女性』だった。
ネブラと話す時、アトラスの口調が柔らかくなることに気づいていた。
過酷だった少年期のアトラスを、糸一本繋ぎ止めてくれていた人だったのだと、レイナは理解した。
アトラス自身も、ネブラのことは恩人だと言っていた。
少年期のアトラスが息をすることができた、数少ない人間の一人だった。
女性では唯一と言って良い。
アトラスは無自覚だが、おそらくは初恋だったであろう女性。
アトラスと、アトラスに連なる者として、レイナのことも気遣ってくれていることが判った。
王妃という立場でありながら、わざわざ出迎えてくれた心遣いに、レイナは純粋に感謝する。
アトラスはアウルムとの謁見後、そのまま大神殿入りした。
『月の大祭』に『タビス』としての役割があるアトラスは、潔斎に入る。
滞在先としてあてがわれたのは、紫紺宮と呼ばれる離宮だった。
国王兄妹の母、王太后アリアが静養の為に故国に帰ったあと、空っぽになった後宮を取り壊して作られた四つの離宮の一つである。
アウルムによって建設された紫紺宮は、青を基調とした落ち着いた内装でまとめられ、アトラスを想定しているように思えた。
居間に落ち着き、侍女のハールが淹れてくれたお茶を口にしていると、マイヤが不思議そうな顔でレイナを見上げてきた。
「おかあさま、あのおねえさんも、冷たくなっちゃうの?」
「えっ?」
レイナは娘の、どこか遠くを視るような瞳を見つめて固まった。
泡立つ肌に気づかないふりで、レイナはマイヤに尋ねた。
「詳しく、話して、くれるわね?」




