□月星暦一五三六年 兄の想い
□ネブラ
あの人は来ない。
分かっていても、来てしまう露台。
突然姿を消したアトラスを追って、ネウルスの指揮による捜索隊が出されたが、足取りは掴めなかったという。
オレンジ色に灯された街の灯りを見下ろしながら、ネブラは嘆息した。
アトラスは苦しみを担っていることを、見せてはくれた。
だが、彼は苦しい胸の内を、ネブラに吐露したことはない。
その理由を、話してくれるほどの存在では無かったことが、ネブラは悔しかった。
ふと、背中に感じた人の気配に、心臓がドクンと跳ねた。
戻ってきた。
そんな期待で思わず振り向いてしまう。
アトラスが居た。
そう思った。
だが、次の瞬間、人違いに気づいた。
よく似た顔。
だが、髪の色が違う。
あの人は青みがかった砂色の髪をしていた。蜂蜜色ではない。
あの人の青灰色の瞳には、憂う色があった。
隠しきれない翳りがあった。
だが今、一点の曇りなき碧い眼を自分に向ける、その人をネブラは知っていた。
「アウルム様……」
正式に月星の王となった、アトラスの兄を目の前にして、胸に込み上げるものがあった。
それは、王に対しての態度としては無礼なものだっただろう。
それでも、臆さずにネブラは声をかけた。
「どうして、アトラス様を行かせてしまったのですか?」
思わず出てしまった、非難するような声。
だが、アウルムは怒らなかった。
「『タビス』が望むのなら、阻めないだろう?」
建前だと思った。
この人は、アトラスが出ていくのを知っていたのだと、ネブラは感じた。
その上で行かせたのだと思った。
じっと、見詰め続けるとアウルムが肩を竦めた。
「ネブラ殿が、ここで、あの子が逃げ込める場所になってくれていたのは知っている」
アトラスに似た顔が、彼は見せたことが無い柔らかさで、ネブラを見詰めた。
「礼を言う」
「アウルム様。アトラス様は……」
言いかけて、ネブラは息を呑む。
アウルムの顔に、苦いものが過った。
「父の治世で、アトラスはずっと息を殺して生きてきた。自分の意見を言えず、感情も表せない。『タビス』だからそうでなければならない。——その在り方に、私はずっと怒りを覚えてきた……」
僅かに碧い瞳が揺れた。
そこにあるのは、前王の手前、状況を改善できなかったことへの後悔。
「『タビス』である以前に『人間』なのだから。私は、あの子には、もっと自由に生きて欲しかった」
十一歳で初陣を迎え、十二歳で弓月隊の隊長に就任し、十五歳で終戦を迎えるまで、アトラスがどんな風に戦い、どんな風に武勲を上げてきたのか。
そうだったのだと噂話で聞く内容しか、ネブラは知らない。
前王アセルスは、厳しい方だった。
その下で戦い続けることは、それが息子でもタビスでも、ただただ、過酷だっただろうことは、想像に難くなかった。
「だからって。もう前王様はいないのに……」
思わず本音が溢れてしまった。
押さえつける人はいない。
幸い、次の王は弟想いのアウルムである。
ならば、これからは、肩の荷を下ろしてゆっくり生きることだってできただろう。
「いいや。いようがいまいが、『アトラス』は求められる」
顔に出ていたらしい。
ゆるゆると、アウルムは首を横に振った。
「私は、あの子が幸せになってくれるのなら。その場所はここで無くても良いと思っている」
血気盛んな女性たちが、会場では今もアウルムを探している。
ここにいたならば、これまで以上にアトラスは政治の道具として、求められただろう。
女神の加護を受けた『タビス』であり、『終戦の英雄』である彼は、影響力も強い存在である。
また、神殿も放って置くわけがない。
「ネブラ殿。貴女はアトラスの素顔を見ているはずだ」
ならば、分かるだろう? と、アウルムはネブラを窺い見た。
ここに居て、アトラスの心が休まるはずはない。
「だから、私の元で無くても良いのだ」
アウルムは繰り返した。
そう言い切れるアウルムが、ネブラは眩しかった。




