■月星暦一五五二年一月 秘薬
■アトラス
「アトラス、貴方、しばらく月星に戻りなさい」
新年を祝う空気も落ち着き、日常が戻ったある朝、アトラスは唐突にレイナに言われた。
竜護星の国主であるレイナの、その立場に相応しい命令口調とはいえ、アトラスは戸惑いを隠せない。
「レイナ?」
「アウルム様の初の御子の誕生でしょう? 王妃様も初産で色々と心細いでしょうし、きっと、寄り添っていたいことでしょう。ずっと働いてきたお二人には休養も兼ねて、ゆっくりする時間をさしあげるべきだと思うのよ」
レイナは嘘が得意ではない。
他の人間は誤魔化せても、アトラスが見間違える筈がなかった。
海青の瞳の奥にあるものを見定めて、アトラスは今一度、妻の名を呼ぶ。
「レイナ。知っていることを、話せ」
それでも、レイナは微笑みを貼り付けたまま、話を進めた。
「何があるかわからないし、アトラスはこれを持っていってね」
アトラスは手の中に押し付けられたものを見て、顔を強張らせた。
「これ、は……」
竜血薬と呼ばれている秘薬の包みの束だった。
王が竜から《《頂いた》》血から精製され、基本、王族にしか使われない。
古くは万能薬と信じられていたそれは、竜護星王家に伝わる、門外不出の秘薬だった。
「ただでさえ、出産は命がけの仕事ですもの。ましてや王妃様の年齢を考えると、あらゆる可能性を考えて、対処方法は数あったほうが良いと思うの」
あくまでも一般論を説くレイナだったが、その顔にはもう、誤魔化しきれない苦いものが浮かんでいた。
アトラスは察した。
「マイヤか……」
巫覡が視た。
その意味を、アトラスは間違えない。
「……使い方は、ハイネが知っているわ」
否定はせずに目を伏せるレイナの、声が震えた。
「事前に飲んでおくこともお勧めする。……理由は、分かるわよね」
「ああ……」
アトラスは頷いた。
この薬は、婚礼時に葡萄酒に混入されており、王の伴侶——アトラスも摂取している。
万能薬にはならなくとも、感染症予防くらいにはなる。
「レイナ、感謝する」
すでに事例(※)があるとは言え、この薬を国外に持ち出す為にレイナは、官の説得に骨を折ったのだろう。
抱きしめると、背中に腕が回された。
「しっかり、支えてきなさい」
耳元で囁かれた声に、アトラスは頷いた。
「ああ、行ってくる」
※
船では何日もかかる距離も、竜でならば最短で一晩で翔け抜ける。
さすがに、搭乗者が到着した途端ひっくり返り、竜にも負担をかける無茶をすれば、の話だ。
そこまでではないが、そこそこの無茶をしてアトラスは翔け抜けた。
さすがに、三度程休憩は挟んだが、朝出立して夕方には月星の地に足を下ろしていた。
強靭な体力と精神力で、疲労は感じさせない。
城に到着するや、王の執務室に乱入したアトラスは、「これから数ヶ月、王妃の出産までアウルム兄上の『王様業』は休みだ」と宣言した。
「何を仰っているのですか。そんなことをしたら、国が立ち回りません」
先日宰相になったばかりのネウルスが、青褪めた顔で抗議した。
「いいや、決定事項だ。国はお前と私が回せばいい」
「えっ?」
「殿下がやってくださる?」
断言するアトラスに、ネウルスやその場にいた官は呆けた。
アウルム自身は苦笑はしていても、口を挟まなかった。
「今日の業務は終いだ。『タビス』が命じる。明日、引き継ぐから、現状を纏めておけ」
言い放って、アトラスはアウルムを連れ出した。
「相変わらず、時々やらかすよな。お前は」
「こうでもしないと、貴方は休めないでしょう」
少年時代は、『タビス』の言葉の使い方で悩んでいた時期もあったアトラスだが、人間経験を積めば学ぶこともある。
例え、アトラス自身は『女神』の言葉が聞こえないとしても、必要とあれば『タビス』として『言葉』を使うようになっていた。
月星人を従わせるには、これが一番手っ取り早い。
「アウルム。出産まで、貴方は王妃についてやってください。私が代わりを努めますから」
「……お前、何を聞いた?」
「何も。ただ、レイナに例の薬を渡されて、戻れとだけ」
アウルムは、僅かに目を瞠り、肩を竦めた。
「わかった。今回は、甘えるよ」
「そうしてください」
兄弟は並んでネブラの元に向かった。
※
「今日はお早いのですね」
私室に戻ってきたアウルムの後ろに、アトラスを認めてネブラは驚いた顔をした。
「アトラス様、いつお戻りに?」
「つい先程、です」
アトラスは、テーブルの上にある、水瓶に目を止めた。
「これは、果実水?」
「ええ、はい。そうですが」
アトラスは竜血薬を一包、目の前で杯に入れ、果実水に溶かした。
一口口に含み、顔を顰めた。
「やっぱり、美味くはないな」
呟きながら、アトラスはネブラに杯を手渡した。
「飲んで下さい、妃殿下」
戸惑い、ネブラは、隣に立つアウルの顔を伺った。
「毒では無い。母体に影響があるものでは無い。私も飲んだことがある。竜護星の、本来なら門外不出の秘薬だ」
「進行性の病には効かないが、傷や毒には有効。身体が持つ抵抗力を底上げし、自己治癒力を高めると言われています」
アトラスは、ネブラの栗色の瞳を見据えて、ゆっくりとはっきりと説明する。
「気休めかも知れない。でも、出来ることは一つでも多く試して欲しい。少しでも、確率を上げて欲しいんだ」
懇願に近い声色だったろう。
ネブラは二人の顔を見比べ、手元の杯に目を落とした。
「……分かりました」
頷くと、躊躇なく煽り、大きく息を吐いた。
「美味しくありません」
「だよな」
飲み干したネブラに、アトラスはほっとした顔をした。
口直しに、果実水をもう一杯注いで渡す。
お代わりを一口だけ口に含むと、ネブラはアウルムに顔を向けた。
「アウルム様。アトラス様とお話したいことがございます。二人きりにしてくださいませんか?」
アウルムは何も言わずに、部屋を出ていった。




