■□■月星暦一五五二年一月〜五月 誕生そして……
■アトラス
「久しぶりですね、こうして二人でお話するのは」
「そうだな」
長椅子に腰を下ろし、卓を挟んで二人は対面した。
オレンジの街の灯りを見下ろした露台から、冴え冴えとした月を見ていた夜から、もう十五年近くの歳月が流れていた。
「あの頃、わたくしは、貴方に恋をしておりましたのよ」
ネブラは、そう口にして、懐かしそうにころころと笑った。
「一度くらい、踊っていただけばよかった」
「それは失礼したな。当時の俺には、思いも及ばなかった」
密やかな時間は、露台から動いてしまったら終わってしまう。
そんな気すらしていたから、露台で会うことに拘っていたのかも知れない。
「いいのです。分かっていました。あの場所は、ただの避難場所、だったのでしょう?」
悪戯っぽい笑顔を向けるネブラ。
こんな笑みは、当時は浮かべていなかった。
「でも、わたくしは、その時間がとても愛おしかった」
「あの時間があったから、俺は、踏みとどまれたのだと思う」
疲弊した当時を思うと、今でも胸の奥が疼く。
それでも、あの時間は細やかな癒やしだった。
薄闇の中の仄かな白い灯火のように、記憶の中に根付いている。
「感謝していたよ」
言って、その気持ちを口に出したことがなかったことに、アトラスは気づいた。
「それは、光栄ですわ」
そう、口を綻ばせるネブラの笑みに、重なる顔があった。
「ネブラ、もしかして君は……」
アトラスはそれ以上を口に出せない。
続けられない言葉は、ネブラが首を振って終わらせた。
「アトラス様。わたくしは、ちゃんと、アウルム様のことをお慕いしておりますわ」
大きくなってきたお腹に触れる仕草には、紛うことのない慈しみがあった。
「御子を授かったこと、後悔はありません」
身の危険と引き換えにしてでも、と口に出さない思いは決意となって顔に表れる。
「絶対に産みます」
栗色の瞳に宿る覚悟の色を見つけて、アトラスは息を呑んだ。
今更、口にできる言葉は無かった。
「……でも、何事にも万が一というものはあります。もしもの時は、この子のことをお願い致します」
語尾が震えていた。
気づかなかったふりをして、アトラスは言葉を紡ぐ
「俺は支える者だからな。どんな状況下でも、それは変わらない」
「心強いですわ」
ネブラが目を伏せて微笑んだ。
目尻に光るものがあった。
「できるだけのことはする。できる手段はなんでも講じる。だから、君も諦めないでくれ」
「もちろんですわ」
ネブラは微笑んだ。
そこに、迷いは無かった。
「わたくしもまた、アウルム様と共に在る者でありたいのです」
「それを聞いて、安心した」
立ち上がり、アトラスは礼を取った。
「妃殿下」
口調を改め、アトラスはネブラを見据えた。
「御子の誕生まで、私も月星に滞在します。兄には休みを取らせます故、妃殿下はお健やかに、御子を育んでください」
「ご配慮、痛み入ります。アトラス殿下」
そのまま部屋を辞すと、扉の外では、アウルムが壁に寄りかかって待っていた。
「もう、良いのか?」
「あとは貴方の役目だ、兄上」
アウルムは珍しく、王の顔をしていなかった。
苦笑まじりに、アトラスは兄の背中を叩いた。
「仕事のことは任せろ」
「頼りにしているよ、弟殿」
それからの数カ月。
夫としてのアウルムは、それはそれは献身的に、妻に尽くしていた。
その仲睦ましさに、侍女達が赤面していたほどだったという。
その期間は、彼の人生の中でアウルムが肩書では無く、ただの一人の男としての自分を優先した、唯一の時間だっただろう。
□□□
薫風のみぎり、爽やかな青い空の下。
王妃ネブラは産気づいた。
陣痛が始まってからの時間は、長かった。
産屋の外、口少なげに待つアウルムには、アトラスが付き合っていた。
やがて聞こえてきた赤子の声に、前掛けを汚した医官が中から出てきた。
「王子様のご誕生です」
「でかしたっ!」
叫んだのは、到着したばかりのスールだった。
「陛下、おめでとうございます。これで、陛下の御代も安泰でございますなっ!」
孫の誕生を喜ぶだけの声が、耳障りだった。
察したアトラスが、すぐさまスールを追い出した。
アウルムは報告に来た医官の顔を見据えた。
慶事を告げに来た割には、表情が優れないのが妙に気になった。
「それで?」
開いた扉の先からの、濃厚な匂いを鼻が捉えていた。
かつて、嗅ぎなれたその匂いを、兄弟は間違えない。
「ネブラは?」
「それが、王妃様は、出血が多く……」
「……っ」
「陛下、中は……」
止める官を振り切って、アウルムは部屋の中に入っていった。
「陛下っ?」
「陛下!」
アウルムが目にしたのは、赤い床とネブラの白い顔。
産婆から赤子を取り上げると、アウルムはネブラの胸に抱かせた。
「赤、ちゃん……」
「そうだ。王子だ」
「良か、った……」
手のひらで、熱い命の塊に触れたネブラの口許に笑みが浮かんだ。
「わたくしを、母にしてくれて、ありがと、う。レク、ㇲ……」
焦点が定まらなかった。
もう、見えていないのかも知れない。
「ネブラ、よくやったな」
アウルムを探すように、ネブラは声の方に顔を向けた。
「感謝する」
彷徨うネブラの手を、アウルムは握りしめた。
「……ウルム様。ネブラは、幸せで……した……」
吐息の間から、紡がれる声はだんだんと、小さくなっていく。
「あとは……」
「もちろんだ、任せろっ!」
「嬉、しい……」
アウルムはネブラの口許に耳を寄せた。
「……、……」
「……ああ」
「……、…」
「……っ!」
アウルムが息を呑んだ。
泣き叫ぶ赤子の声に紛れて、もう、その声は聞こえない。
■■■
部屋の外から、兄の背中を見詰めるアトラスの隣に、白い医官服を纏ったハイネがすっと立った。
袖口が赤に染まっていた。
「残ったのはこれだけだ」
差し出されたのは一包の竜血薬。一瞥しただけで、アトラスは受け取らなかった。
「それは、アリアンナに飲ませてやれ」
微かに苔色の瞳を見開き、ハイネは頷いた。
黙って、懐にしまう。
「言葉は交わせたのか?」
「幸せだった、と……」
巫覡が視て得たのは、医官たちの努力や秘薬がもたらしたのは、その僅かな時間だけだったのかも知れない。
「そう、か……」
小刻みに震えるアウルムの背から目を反らし、アトラスはそっと扉を閉めた。
※
城下は王子の誕生に湧いた。
それは、賭けに破れながらも、使命を果たした果敢な女性の努力の結実である。
孤独な少年の心を救い、孤高の王に寄り添った彼女の名は、ネブラ・ナン・テルグム。
妃として、王の隣に居た期間はたったの六年だったが、偏見に見誤らない判断ができる、聡明な女性だった。
「王妃ネブラ。私は貴女を誇りに思う」
女神の身許に向かう旅路が安らかなものとなるよう、黒衣の神官服に身を包んだタビスは、密やかに追悼の祈りを捧げた。
※※※
アウルムはその後も、数奇な運命に翻弄されるアトラスの守護者であり続けたが、八十七歳で没するまで、生涯後妻を娶ることはなかった。
アウルムの息子は、レクスと名付けられた。
その名は王妃が生前に決めていたものだった。
残念ながら、母を知らない息子と、妻を喪った父親との親子関係は順調だったとは言えない。
アウルムに王位を譲られたレクスの治世は、叔父のアトラスの支えによって、保たれていくことになる。
『王妃ネブラ』タビスー女神の刻印を持つ者ー外伝
ー了ー
※)本編第七章『偽りの王』で、アウルムに用いた。
お読みいただき、ありがとうございました。
アトラスの物語、そしてレクスのその後は
本編『タビスー女神の刻印を持つ者ー』でお楽しみいただけたら嬉しいです。
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