三十九 天井
大きな、深い穴だった。昨夜泊まったちいさな小屋や、フミの庵は沈んでしまう。あの広かった吉弥の屋敷も、たやすく埋まってしまうだろう。それほど深く、大きな穴だ。周囲を木々がぐるりと囲み、枝葉を垂れさがらせている。まるで下をのぞき込み、ようすを見ているようだった。
空気は流れることがなく、ひたりと、凪いだ水面のようにとどまっている。しかし濁らず、滞っているとは感じられない。ただ、どこまでも、静謐だった。伏丸はとうとう立ちどまっていた。
噴き出す汗が目に流れ込み、沁みる痛みに視界が滲む。泥にまみれた身体ぜんぶに奔る脈動が鈍く響いて、吐き気を催すその感覚に、呑まれそうになり足を踏ん張る。ふるふると情けなくゆれるのは、地面ではなく身体のほうだ。伏丸は衿もとを握りしめ、なんとか座り込まぬようこらえた。浮きあがりそうな身体を動かし、穴のほうへ向かって進む。
七つ目の社とよく似ていた。封じ込められたような透明な空気。ただいるだけで身体の内まで、洗い流されるここちがしてくる。ここはあの七つ目の社より、その感覚が強かった。こじ開けられて食われるようだ。そうしてのこらずすすがれる。なにも、なにひとつのこらない。抜け殻になってしまいそう。軽い足で地を踏みしめて、歩むうち、はっと気がついた。伏丸が立った穴のふち、ちょうど向こう側、真正面。ちいさな黒い穴がある。
遠いので明確ではないが、ひとがひとりやっとおさまるくらいか。よく見れば、それは木の洞だった。真向いにそびえ立つ巨樹の根もとに、ちいさくあいた虚だった。あれが、葬宮なのだろうと、なぜだかすとんと腑に落ちる。巨樹はねじれてひび割れた幹を、くねらせるようにして立っていた。その枝は太く大きく広がり、その葉はひときわ青くかがやき、穴の下へと差し伸べられる。おそれることも忘れてしまって下をのぞいた瞬間に、ずぐんと身体じゅうが疼いた。土の壁が漏斗のように、徐々に細まっていくその底に。くしゃりと、若草が落ちている。
なにかを思うよりはやく、身体が勝手に動いていた。伏丸は穴のふちに駆け寄り、底へ向かって飛び降りた。ふわりと、身体が浮きその直後、土の壁にやわく受けとめられる。塵を撒き散らし滑り落ち、若草色が近づいてくる。ぶつかりかけて、ぴたりととまる。身体じゅうに絡んだ土が、速さを徐々にゆるくしていた。
すぐそば、目の前に、横たわっている。若草色をまとうひと。宮さま、と呼びかけたつもりで、少しも声が出なかった。伏丸は泥と土を引きずり、立ちあがって、歩み寄った。宮は、なにかを抱え込むように、まるまって目を閉じていた。近づいても気がつかないのか、もう、どこかへいったのか。露も目をひらく兆しがない。叫びだしそうな焦燥に駆られ、伏丸は宮に駆け寄った。
「宮さま」
跪き、呼びかけるものの、宮はなにひとつこたえない。衣も、肌もまったくよごれず、しかしその顔は蒼白だった。髪はひとふさ切り離されて、そこだけ短くなっている。伏丸は口を開けては閉じた。喉がゆっくり狭まっていく。胸が千々に裂けそうなほど痛む。宮は、こんなにまるくなっている。いつでも背筋が伸びていて、寝るときさえもそうだったのに。いまは眠れない幼子のように、その身をちいさく、ちいさくしている。伏丸はふるえだした手で、そっと、宮の背にふれた。冷たい。硬い。なぜ、どうして。
頭も身体も真っ白に飛び、伏丸は宮を抱え起こした。ぐったりとした華奢な身体を、力のかぎりに引き寄せた。宮が泥でよごれるのもかまえず、その手をさぐって握りしめる。指がひらかない。固まっている。みやさま。息が喉をこすった。みやさま。
「なにを、しているのですか」
掠れた声が耳朶を打ち、伏丸ははっと顔をあげた。伏丸の泥にまみれた宮が、うっすらと目をあけていた。それをみとめた瞬間に、その首筋に顔をうずめる。冷えて固まった肌の奥、鼓動とぬくもりが伝わってくる。
「なにをしているのですか。伏丸」
いつもより少し弱々しく、やわらかな声で宮は問う。その声にひどく締めつけられる。伏丸は幾度も首を振った。なにもことばが出てこない。
「マガネに、頼んでしまったというのに……あなたがたは、なにをしているのですか……」
宮はちいさくため息をつき、そろりと、握った手を動かした。離すまいと力をこめると、てのひらを指先になぞられる。ぞくりと走ったその手ざわりに、思わず力を抜いたとき。宮の細い指が指に絡んだ。
「来ると思っていましたよ────」
耳もとで告げるその声は、澄んでいながら濡れていた。伏丸は手を握り返すと、耳に口を寄せ、ささやいた。
「遅くなって、申し訳ありません」
ふふ、と宮が笑みをこぼす。花のほころぶような響きだ。そして、頭上に影が差す。
「伏丸。あなたは埋まりませんよ」
宮は微笑んだ声音で言った。ぎょっとして上を仰いでみれば、そこにあったのは妙なる光景。遠く頭上の穴のふちから、葛や草が伸びてくる。するすると、絡み合いもつれ合い、入り組んで結び合って広がる。青い天井を編んでいく。
「禍を溜め込んだ者しか、ここに埋まることはできません」
宮は誇らしげな言いかたをした。
「こうして、ともにいてもいけません。あなたははじかれてしまいます」
天井は大きくなり厚くなり、頭上に垂れた枝葉を隠し、その向こうにある空を消し、徐々に視界を埋め尽くしていく。穴をのこらず塞ごうとする。
「このあたりにあった禍を、すすぎながらここへ来ました。ここはさほど澄んでいないのですよ、この空気はわたくしのせいです。それと、いまからもすすぎます。さいごに、あなたには死なぬ程度にしか、のこしませんから覚悟しなさい。それほどすすげば、あなたもこれから、餌袋ではなくなるでしょう。また集まって溜まるけれども、きっといまほどではなくなります……」
伏丸は首を横に振った。宮がぐったりとしていたのは、ずっとすすぎ続けていたから。さきの社より澄んだ空気は、宮がつくったものだった。宮の頬の土を拭おうとする。目の端を草が青々よぎる。
「名は竟子というのです。覚えておきなさい。伏丸」
命が耳をくすぐったあと。宮は、すうと息を吸い込んだ。泥にまみれて青臭いひと。そこにのこった重いかたまり。
大前に畏み畏み白さく
青人草より生れ出でませる
万千万の禍の群
立つ陽炎に花咲み匂ひ
蔭に露おき鳴きて往く鳥
風に沫雪渡り離る月
雲居に土に悉に
生り成り坐せる禍の叢
荒び猛び給ふことなくして
鎮まり給ひ息ひ給ひ
滌ぎ葬り竟へ奉ることを
平らけく安らけく聴し給へと
恐み恐みも白す
海原のようにおおらかにゆれ、目の前が青く、すきとおる。光の竟を掻き抱く。




