三十八 黒髪
「宮は葬宮の杜へおいでになった。今朝方はやく。貴様が寝ているあいだにな。酒はひさしぶりだったようだな。貴様は多く飲んで寝こけた」
少しも、気づいていなかったのだ。ぐらりと、腹の底がゆらいで、そのときふいに思い出す。宮に、聞かれたことがあった。酒を飲めるのか、弱いのか。
「宮からお預かりしたものがある。貴様に」
一気に力がゆるみ、吸った空気は砂粒めいて。咳き込むことしかできない己を放された腕で殴りかけ、そのとき、身体をまた転がされ、仰向けにされ衿を掴まれた。ぐいと、乱雑に引き起こされる。宮から、預かったものがなんなのか。わかってしまう己が憎い。
「見ろ」
眼前に突きつけられる。それは宮の笠だった。きめ細かく編まれ、柿渋を塗られ水をはじくようにつやめくそれの、内を、忍は伏丸に晒す。頭にのせる五徳がつけられ、なぞりたいほどの曲線を描くそこには、紙が貼ってある。破れぬように蒟蒻の糊で加工の施された紙、葛の絡みあうかのような朱色の、印が押してある。なにも知らずとも見入りそうだと思える、どこかおそろしい色、かたち。帝の御璽である。宮に、見せられたことがあった。
「貴様は、これを持って都へ行けと。さすれば褒美をいただけるだろう」
忍は言うと、御璽のついた笠を伏丸の胸に押しつけた。
「宮はおつとめを果たしに往かれた。貴様の仕事も済んだのだ。用済みの餌袋は疾く去ね。去なぬというなら始末する」
忍の吐き連ねる文句に、肌にふれるだけの、ふるえを感じる。この忍のなすべきことは、宮がつとめを果たすところを見とどけ、知らせることのはず。忍がみずからそう言った。宮の命令があったとしても、つとめのほうが重いのでは。わざわざ笠を渡しにきたり、しゃべったりする必要はあるのか。伏丸は痛い空気を吸った。はやく。急がなければならない。
「宮さまがそう、おっしゃったのか」
胸倉を掴む忍の腕を、問いを投げつけながら掴んだ。細くしなやなかで強靭だった。忍は、目をすらゆらすことなく、そうだと単にうなずいた。
「そう伝えよと仰せになった。伝えた。貴様は従うのみだ。そうでなければ宮のおつとめを、宮を愚弄することとなる」
「わかった」
伏丸はうなずくと、突き出された笠を受けとった。ずりずりと身体をひきずって、うしろへさがる。骨が軋んだ。腕の付け根と背中と胸が、こめかみあたりも重く、怠く、痛むがどうでもよいことだった。笠を抱えて立ちあがる。
「わかった。これ持って、都に行く。都、行って褒美をもらう」
「去ね」
忍はそれだけ言うと、風に紛れるがごとく消えた。雨のにおいののこる風。湿ってやわく、泣きそうな。吹き過ぎていなくなるより前に、伏丸は走りだしていた。笠はその場にかなぐり捨てた。
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男が走り去っていくのを、忍は木陰から見つめていた。迷うことなく走っていける、男の向かう先を見つめた。都とは逆の方向だった。あれでは杜に迷い込むだろう、憐れだ。あまりにも愚かだ。
滌宮を見張り、見とどけ、その旅路の仔細について帝に知らせることがつとめだ。手助けをすることはできず、殺されたらそれを知らせるつとめ。御佩。腰に佩かれた太刀は、抜かれなければ役立たないし抜かれただけでもそれは詮無い。武の心得のある者が、扱わなければ無用の長物。宮には、その心得はない。うまく使おうともしていない。ただただそばに置いてあるだけ、傍観するだけの代物だ。それが御佩というものだった。
そうであるのに、つとめもほうって、宮のことばに従った。あの男に、確かに御璽を預けて、都へ向かえと伝えるように。従わなければ伸すように。それは宮の心づかいで、そして叫びのようだった。
きっと、こうするべきでなかった。わかっているのにもうもどれない。あの男は追いつくのだろうか。わからない、つとめを果たしにいかねば。
闇の、帳をすり抜けてくる。マガネと、呼ぶあの声がすき。
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伏丸は山道を駆けた。強かった雨で道はぬかるみ、足にまとわりつき絡みつき、道そのものが手を伸ばしては、掴んでとめんとするようだった。だがそんなことはかかわりない。行くべきところが確かにあった。ひとつ目指すべきところがあった。伏丸はただ進み続けた。
これが愚かなおこないなのだと、それはよくよく知っていた。こうして追いかけたのだとしても、追いつけるかはわからない。宮は朝はやく発ったと言った。べつの道をたどっているかもしれない。仮に追いつけたのだとしても、宮はいってしまうのだろう。ひきとめることなどできないのだろう。たとえ、ひきとめられたとしても、あの黒い忍の言うとおり。宮を、宮のだいじなつとめを、軽んじることになるだろう。宮を苦しめることになるだろう。知っている。でもわからなかった。わからないから進み続けた。なぜ進むのかわからなかった。でもどうしても、とまれないのだ。どうしようもなくとまれないのだ。泥に足をとられ滑っても、転んで顔から土まみれでも、とどまることがかなわない。
あのひとを失うことができない。そんなことを思い尽くしたところで、なにかの未知の大きな力が、あのひとを連れ去るのかもしれない。もうそうなっているかもしれない。この矮小な獣物もどきに、できることなどなにもない。それでも、冷たく濡れた空気をよごれた臓腑に叩き込み、もがき苦しむようにしながらただ進むことをとめられない。この濡れそぼった土の下、宮のあの色をかたち香りを、ぬくもりを声を、封じてしまう。その由縁だけがゆるせない。あのひとの中に積もり続けて、溜まり続けて埋めてゆくもの。その一部分がゆるせない。幾度殺そうとおなじこと。幾度、痛めつけようと、殺してと泣いて懇願するほどなぶり尽くそうとおなじこと。ゆるせない、やるせない赦せない、この身も心も赦せない。
道は、やがてなくなった。ただの草原となっていた。雨のしずくを散らせ舞わせて、その下の土を一歩ごと、荒く激しく掘り返しながら伏丸はただ進み続けた。木の葉の隙から射し込む光は澄みきってあの声に似ていた。泥にまみれた手を伸ばしても、ふれることなどかなわない。蹴散らす土と、ちいさな露を等しく照らすだけなのだ。
言いようのないおそれがこみあげ、臓腑ごと吐きそうになる。吐き出したものがこびりついたように全身、じっとり濡れている。泥の中泳ぐように感じる。それでも進み続けていれば、やがて草原は深く濃くなり、膝ほどまで草の中沈んで。足が取られて幾度も転げ、それは身体が軽いから。空気も、日射しもあまりに軽く、無くなったようにすきとおり、おそろしいほどにみずみずしい、あおあおとした鮮やかな色、彩りが目を眩ませる。抗うように進み続ける足音と息づかいばかりが響き、あまりの静謐に己のすがたを、狂ったすがたを思い知らされ、酔いそうなほどにかぐわしい、やさしいひだまりのような香りがぎゅうと肺臓を縮ませる。あたたかに迎え入れるかのような、伏丸は杜の中にいた。
ああ、こんなにも麗しいのに、溺れて沈んでそのあとも、いまださまようここちにさせられ思わず足をとめそうになる。ああおそれおおい、草を踏むのは、あまりにもおそれおおいこと。己のようなけがれたモノが、こんな尊い杜を踏むとは、いますぐにここを出ねばならない、出たい。ああ、あまりにも。
大きなおそれに立ちどまりかけ、伏丸はふと、足もとに見た。それはつやめく小蛇のような、ひとふさ。見慣れた黒髪だった。日射しにきらめく草の中、埋もれるように横たわる。黒髪の房だけだった。そのとなりには匕首がある。サクが置いていった匕首だった。これでこの髪を切ってしまった。
伏丸は強くこぶしを握った。宮がここを、通っている。進めば追いつくことができる。根拠もないのに信じ込む。信じ込んだらとまれなかった。伏丸は匕首と髪のひとふさをのこして、ひたすら進んでいった。この世の中ではないような、澄みきった杜の中を突っ切り、そして突然、前がひらける。そこに広がるのは、穴だった。




