三十五 余韻
振り返った伏丸に、言うべきことなどなにもない。あったようにも思うけれども、もう腐るだけになってしまった。火の粉が案じるように舞い散り、あるいは、からかうのかもしれない。ひらりひらりときらめいている。それを目の端に感じつつ、竟子はしばし押し黙っていた。伏丸は竟子に身体を向けて、ことばを待っているらしかった。
わずかに首を傾けて、目を大きくして聞こうとしている。滌宮がなにを言うのか、拾おうとして待っている。いいえ、なんでもありません。
「こちらへきなさい」
ことん、と。板戸が間抜けな音を立て、小石をはね返したようだった。小屋の中には沈黙が降り、竟子はただ茫然とした。そんなことを言う、つもりはなかった。伏丸の顔をまともに見られず、けれども目をそらすこともできず、伏丸をすり抜け、そのうしろにある古びた板戸ばかり見つめる。
「はい」
やがて、伏丸はこたえた。土間から板敷にあがってくると、静かにこちらへ近づいてくる。竟子はなおも板戸に目を向け、どうすればよいか考えていた。考えたいと、考えていた。こたえなど浮かぶはずがなかった。伏丸は竟子のそばまでくると、すっと片膝をついて問う。
「なにかご用事ですか。宮さま」
竟子はようやく伏丸を見た。はっとした。目が深く潤んで、その下の影もひどく濃い。一瞬、頭の中、夕立が埋め尽くしては去っていく。竟子はとっさに腰を浮かせた。硬そうな頬へ手を伸ばす。みひらかれた目の下にふれかけ、その直前でとどまった。取り払おうとした影は、ゆらいでどこかへうつろっていた。
「なにか、くっついているのかと」
竟子は手を握り込み、座り直しつつ言い訳をした。心臓がいやな音を立てている。なにをしているのかわからない。
「火の影だった、ようですね。つかまえられるはずがありません……」
「宮さま」
低い声が耳を撫で、ふいに冷たい気配が近づく。ふわりと髪をかすめ流れる。伏丸の手がこぼれた髪を耳のうしろへかけていた。こんなことは、はじめてで、思わず固まる竟子の目を伏丸はのぞき込んでくる。濡れているのは、ほんとうだった。
「どこかおつらいのでは、ないですか」
またおなじことを、問うてくるから。脈が、どくどくと強くなる。つらいことなど、なにもない。
「おそろしいゆめか、なにかをみたとか────」
それはあなたのほうでしょう、と。言うことができずしまい込む。おそろしい夢など見ていない。おそろしいことなどなにもない。
とりこんできた禍もろともこの身を葬り去ることも。ひとを捨て置いてきたことも、こちらへ来いと命じたことも。ふれられないこと、ふれられないこと、痛みに寄り添えないことさえも。なにも、つらくない。おそろしくない。
「宮さま」
またも、伏丸は呼ぶ。いつもよりも、さきほどよりも、ずっと重くて湿りけがある。きっと、ようすがおかしいことに、気づいているのだ。それは互いに。いまは互いに、へんになっている。ほとんど正気であるとは言えない。竟子はゆるりと膝を進めて、伏丸の膝にふれるくらいに、近づき、瞳をのぞき見た。伏丸は動かなかった。黒くつやめく満ちた湖がほのかにゆらいだだけだった。見つめて、竟子はちいさく告げた。
「つらいことなどありません」
声がいつもより低くなったのは、ふるえそうなのをこらえたからだと、いまさら、気がついてしまった。唇にうすく笑みがのぼった。
「おそろしいこともありません」
伏丸が細く、息を飲む。竟子は素知らぬ顔をして、指先で伏丸の衿をくすぐり上から下へ、するりとたどり。
「あなたも、そうではありませんか──」
なにを聞いたのかよくわからずに、小袴の紐をたぐって握る。そこへ、冷たい手がかさなって、あっという間に包み込まれる。そしてもういっぽうの手で、すいと顎先を掬われた。
いちばん、すぐそばにある瞳は、それはひき込む力を持って。内の奥底へ誘われるまま、包まれた手さえ導かれ。伏丸は竟子の手を、己の首筋にあてがっていた。そして、おとがいから外れた指にもう片方の手もとられ、おなじように、首筋へ。
上から封じ込められて、伏丸の首を掴んでしまう。ぬるくて、硬くてやわらかく、ちいさく、脈が伝わってくる。とく、とく、とか弱くも、だんだんとはやくなるようだ。この手からもまた、伝うのはいや。伝わないのもなにかいや。思いはおぼろに浮かんで消える、見つめる瞳に消えては浮かぶ、近づく。もとめているのだろうか。こすれあいかける睫毛の先は、おそれるように、すれちがう。
ふれたところがすべて離れて、伏丸はくたりと首を垂れた。額は竟子の肩にふれずに、あいだに澄んだ隙間があった。竟子はもう動く気にならず、脈動に溺れかけていた。すっと、息を吸う音が聞こえた。
「いちどきりですよ」
伏丸は言う。
「いちどきりです。こんな戯れ」
声が耳の奥に響いて、そして額も離れていった。伏丸は立ちあがっていた。竟子は、そこに座り直した。いちどきりなどと言われなくとも、これが最後だと知っている。衿を整えるふりをして、まだ狂っている胸を押さえる。そのまま伏丸を見あげると、すでに背中を向けられていた。竟子は咳払いしてから言った。
「お遊びが過ぎたようですね」
軽い声が出て安堵する。伏丸はまったくですとこたえた。
「少し出てきます。ご用事は────」
「ありません。からかおうとしたのです。もう済みましたから出てかまわない。あまり遠くへは行かないように」
「命の随に、宮さま。それでは」
伏丸は肩をすくめて言うと、振り向かず外へ出て行った。板戸が静かに閉められたあと、忍び込んできた風がひやりと、竟子の手や顎先にふれた。いましがた離れていったばかりの、肌の余韻を浮き彫りにする。思わずきゅっと衿を握った。宍色もともに手の中に。
「名は竟子というのです」
小石が転がるくらいの声で、戸の向こう側へ向かいささやく。やはり端者だと思い知る。




