三十三 幾度
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宮の歌を聞いたひとびとは、諍いをやめてしまった。満ちゆくような澄んだ声音に、洗われ、やり合う気も失せたのだ。茫然として立ち尽くし、宮のすがたを見つめていた。拝みはじめるひともいたし、途中で引きあげるひともいた。やはりおそれおおかったのか、近づいてくるひとはいなかった。
ともかく、諍いは血も出ず済んだ。道があいたのでまっすぐ進み、それからまた滌をしながら進み、ちょうど五日が経っていた。葬宮のある杜へ、足を踏み入れかけている。それでも、とくべつなことはなかった。歩みのはやさも変わっていない。のどかに思える里山の道を、いつもどおりに進んでいると。ふいに、宮がつぶやいた。
「ほんとうはちがったのです」
はい、と言って聞き返すと、宮は背筋を伸ばしたままに淡々としてことばを継いだ。
「この前、諍いがあったときのことです。わたくしはあなたに、ちがいますなどと言ったのですが覚えていますか」
確かに、歌の前にとどいた。
「はい。覚えています、宮さま」
伏丸がすぐにこたえると、宮はちいさく息を洩らした。少し、笑ったようにも聞こえた。楽しい笑いではなかろうと、うっすら思う。宮は続けた。
「あのとき、滌をする前に、あなたは反対していましたね。そこでわたくしは、滌宮のつとめのために、すすぎたいと言いました。ですが、あれはちがいます。あのときはそう──そうでなくて、あの諍いをとめたかったのです」
すぐに返事ができなかった。おどろいたせいではなかった。そうではないかと、感じていたから。
「ここで歌えばとめられるやもと、考えました。そのとおりになりました。少し思いあがったようです。わたくしは単なる小娘なのに」
聞き流しそうにさらりと言って、宮は笠のふちをなぞった。伏丸は軽くなった身体で、ふわふわとあとに続きながら、こたえた。
「宮さまは宮さまです」
けれども、それでは足りなかった。けれども、足りることはないのだ。宮さまというのは宮のことだが、滌宮のことでもある。このひとは、前に言っていた。滌宮と呼ばれている、真名はほかにあると、確かに言った。
高貴なひとの真名というのは、かぎられたひとしか知ることができない。そう教えられたことがある。生まれたころから呼び捨てにして、もうありがたみもなくなったかと軽く睨まれたこともある。それからは名を呼ばなくなった。夫婦になれば、また呼ぼうかと。
「宮さまは、宮さまでしょう……」
己が知ることなどかなわない。伏丸はおなじことをくり返していた。
「宮さまで、なければとまりません。歌が──」
清水のような歌。流れるようでいて切実で、清冽ながらやわらかい音。聞いていたいのに苦しくなって、痛くなるのに聞かせてほしい。うまくことばに、声にならずに積もる。息さえ途切れてしまう。ひりひりと喉の奥に乾いて。
「伏丸」
幾度も呼ばれてきた名。問いかけるような響きがあった。
「いま、雨垂れの音が」
ちょうど、伏丸も頬に感じた。ぽたり、空からこぼれたしずく。見あげればまっさらだった空には、いつの間にやら分厚い雲がもくもくと広がりはじめている。音もなく日差しが遮られ、すうと足もとを滑った風は、水気を含んで冷えていた。
「雨────」
宮さま、失礼します。早口で言い終わるより先に、伏丸は宮の手を取った。はやくしなければ濡れてしまう。
「まいりましょう」
宮が静かにうなずく。伏丸はそのまま駆けだした。雨粒が追うように降ってくる。宮の笠の上、ぱらぱら鳴って、滑ってこぼれ落ちるのを見る。粒はだんだん大きくなって、ばらばらと絶え間なく砕けては、ほそやかな肩を湿らせていく。若草の色が濃くなっていく。
伏丸は宮の手を引いて走った。向こうのほうに見えていた。粗末だが小屋が建っている。ひとがいるのかはわからないが、きっと雨宿りはできるだろう。視界が徐々にかすんで曇る。夕立のよう。肌が冷たい。
「宮さま、抱えて────」
「おおげさです」
そのほうがはやいと思ったのだが、即座に封じられてしまった。それでも手だけは離さずに、ようやく小屋の軒下へ駆け込む。
「宮さま、少々お待ちください」
伏丸は背から行李を落とし、蓋をこじ開けて手拭いを出した。それから小袖も引っ張り出して、息を整えようとしている宮の細い肩にそっとかぶせる。それを、宮はすぐに脱いでしまった。疲れからか少し落ち着かない手つきで、軽くたたんで差し出してくる。
「これまで濡らすことはありません。手拭いがあればじゅうぶんです」
「ですが」
「平気。じゅうぶんです」
軽く睨むように見あげられ、伏丸は小袖を受け取った。かわりに、乾いた手拭いを、宮のてのひらの上へ預ける。宮はその手をすいと伸ばして、伏丸の濡れた頬を拭った。粗い黄ばんだ布の切れから、やわらかく萌える色が香った。
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小屋の中にはだれもいなかった。角という角に蜘蛛の巣が張り、床に木の葉が転がっているので、ずいぶん長く空き家なのだろう。古びて端の巻きあがっている筵が敷かれた板の間に、細長いかたちの囲炉裏があって灰はそのままのこされていた。薄いが、屋根も壁もまともで、大きな綻びは見られない。雨宿りをするにはじゅうぶんだった。
伏丸は蜘蛛の巣を取ろうとしたが、宮にとめられてやめにした。ふたりして衣は濡れたまま、囲炉裏をあいだに挟んで座る。囲炉裏の灰を掘り返してみると、中から炭が現れた。いつのものやらわからないが、湿ってはいない。火がつくかもしれない。伏丸は行李の中をさぐって、火つけの道具一式を出した。
木箱の中に火打石と、火打金、付木まで入っている。処刑されたあのひと買いたちは、こんな道具を持っていた。伏丸はなにも考えず、石と金をぶつけ火花を散らす。ほぐした麻の火口に落とし、息を吹きかけて火種をつくる。付木に移すとゆらゆら燃えた。その上へ古い炭を置く。こうしてしばらく待ったなら、暖がとれるようになるかもしれない。無言の炭を見おろしながら、ここはどこだと、ふいに思った。先刻までよく晴れていたのに。いまは薄暗い小屋にいる。
雨音の中に、閉ざされている。ざあざあとすべて包み込まれて、ほかの音がよく聞こえない。じつは、この身がこの世の中から薄れていくからだったなら。向かいあっている宮を見る。そのすがたを焼きつけるだろうか。
伏丸はすぐに目をそらし、さきほど行李から引き出した小袖を、やはり宮に渡すことにした。濡れた衣のままでいて、風邪をひいてしまってはいけない。宮は黙って受けとった。それを膝に置き、少し濃くなった若草色から腕を抜く。伏丸はすぐに視線を落とした。
小袖は数枚かさなっており、一枚脱いでも肌はのぞかない。それでも、むやみに見るものではない。宮はなにも気にならないようすで、若草の帯から上を落とした。かわりに、伏丸の渡したほうをふわりと、その肩に羽織った。
「乾いたものはあたたかいですね」
ため息のようにそう言って、そっと衿もとをあわせている。伏丸は炭を見つめながら、おぼえず頬をなぞっていた。宮に拭われたそのときに、やわらかくあたたかいと感じた。いまもほのかにのこっているが、それにしてもなかなか火がつかない。そこで手拭いの乾いたところを裂いて、燃やすことにした。よく燃えた。めらめらと赤い火がゆらぎ、やがて炭にも乗り移る。黒く焦げくずれゆく布切れを、ひとの最期のように見守る。あたたかいですかと、宮に問われて、あたたかいですとうなずいた。宮は目もとをやわらげた。
「伏丸、酒瓶を持っていたでしょう。少し飲んでみてはどうですか。あなたは弱くはないのでしょう。あたたまるかもしれません」
酒瓶。投げてよこされた。真杭又二郎に授けられたもの。あの酒はあまり飲みたくなかった。けれども、炎を瞳に宿した宮が、手を差し伸べているので。伏丸は開けたままの行李から、あの酒瓶を取り出した。太い縄が括りつけられており、まるいがすっきりとしたかたちだ。中は半分ほどらしく、さほどの重さは感じられない。
「椀も出しなさい。注ぎましょう」
そんなことをさせられるわけがない。伏丸はいいえと首を振った。すると宮は眉根を寄せた。
「なにを言っているのですか。わたくしも飲むのです」
そこで、行李から木の椀も出し、宮に渡して酒を注いだ。白く濁ってとぷとぷゆれた。宮は椀に口をつけ、少しだけ舐めるようにした。
「おいしい」
それだけささやいて、宮は椀を伏丸によこす。伏丸はそれを押し戴いて、なぜかあたりまえみたくあおった。熱いかたまりが喉を通って、腹の底へ落ち沈んでいく。ふたたび宮が手を差し伸べる。椀を手渡し、酒を注ぐ。ちびりと飲んだら、宮は伏丸の目をのぞき込み、椀を返した。受けとりあおれば、やはり熱い。
それを幾度かくり返すうち、囲炉裏から臓腑へ飛び火したように、身体の内からあたたまってきた。宮は目もとがほんのり色づき、朱を刷いたように見えていた。炎のせいか、この目のせいか、わからなくともうつくしかった。




