三十二 横道
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海をしばらく眺めたのちに、宮は伏丸の禍をすすいだ。喉のあたりが塞がって、息がしづらかったらしいと、そのあとはじめて気がついた。いつでもそうだ。楽になったあと、そういえば苦しかったとわかる。なにかの苦痛があるほうが、どうしようもなくあいた隙間が満ちるようにも思えてしまう。
伏丸は海に背を向けて、宮とともに歩きはじめた。社は海からは遠いところにある。いままでどおり、道中において滌をしながら往くのだとすれば、五日ほどはかかるだろう。途中でしっかり休息もとりたい。もっと時をかけてもよいだろう。宮が言うには、滌葬の旅に刻限は設けられていない。つまりおわりはいつでもよいのだ。それなら、いつまでも続けていたってかまわぬのではと伏丸は思う。だが、なにかがそれをゆるさない。そのなにかとはかたちがなく、それでいて大きく重いものだと、伏丸はなんとなく察してもいた。己を縛めるようなこと。
ふたりして浜から続く砂地を、ふだんどおりの歩調で進む。おそくもなく、はやくもなく、慣れてきた歩きかただった。ここにサクがいたならば、急に走りだしたりとまったりするので、調子がばらけていただろう。いまは落ち着き、平坦だった。早足になることもない。それでも、近頃は日射しが強く、歩いているだけで汗ばんだ。しかし、前にいる宮はすずしげだ。笠をかぶっているためだけではない。このひとはいつも清涼なのだ。だから苦痛をすぐに見逃す。
それはこりごりだと、思っていた。伏丸は非礼と知りながら、まるくまとめられた髪に秘される白いうなじを確かめる。汗が滲んでいるようではない。衿足のほんのかすかなほつれも、肌にはりついてはいなかった。それでも、休みは必要だ。声をかけようとしたそのとき、宮が突然に歩みをとめた。
「宮さま、どうされました────」
言いさし、伏丸は声を飲み込む。歯に響くような音が聞こえた。よく知っている音だった。刀が、ぶつかりあっているのだ。
金物の硬さと交差するように、罵声や怒声も耳にとどいた。見れば、道の向こうのほうで団子になったひとたちがいる。刀や鎌や木の棒を持ち、簡素な具足のひともおり、男だけでなく女子供も、武器を取っているようだった。ふたつの集団が向きあって、威嚇しあっているらしい。金物のぶつかる音がするのは、手にした武器を鳴らすためだった。
「諍いですね」
宮が言う。伏丸はそうですねと応じた。理由はわからないものの、互いにゆるしがたかったのだ。いまは口喧嘩の様相だが、いつ、武器を使うことになるやら、飛び火するやらわからない。はやく離れるのがよいだろう。
「こちらの道へそれましょうか」
このまままっすぐ進むのをやめ、横道を行くことを提案する。そちらはちょうど木陰になって、ここちよく歩けそうでもあった。宮が静かに振り返り、それではそうしましょうとうなずく。滌は戦いをとめるものではない。刀や力に勝つことはできない。諍いの音が徐々に確かに、盛りあがるのを聞きながら。身を隠すように横道へそれる。
「水のことやもしれません」
宮はひとりごつ言いかたをした。
「地面がずいぶん乾いていますし、草も少し枯れていました。このあたりも雨が降っていないのでしょう。田畑の水が足りぬのやも」
「そう──きっと、そうですね……」
この旅をはじめて半月ほど、いちども雨が降っていない。となりの国がそうだったので、このあたりも渇いているのだろう。だが、伏丸は気がつかなかった。地面や草など見ていなかった。己をかえりみて恥じ入る。まわりにも目を配らなければ、宮があやういときも見逃す。現に、あの諍いに気づくのが遅れた。見逃していた。ふと、思い出す。真杭又二郎があの夜言った。身に染みついたようにして、つねに周囲を見ていると。やはり、買い被りだった。
「やはり、あちらを通りましょう」
宮のことばに、ぎょっとする。宮は平然とくり返した。
「やはり、あちらの道を通りましょう。こちらは草が茂りすぎるようです。行きどまりにも見えてきました」
細い指先が示す先は、鬱蒼として暗かった。枝葉や葛が絡まり合って帳というより壁となり、その向こう側を覆って隠す。ここからでは奥をうかがい知れず、近づいても変わらぬだろうとわかる。湿りけのある静寂の外、諍いの熱がかすかに伝わる。まだ広がってはいないらしかった。宮のほうへ向き直ると、気配も瞳も凪いでいた。伏丸はちいさく息をついた。
「おっしゃるとおりです。でも、宮さま。あちらはあやうい道ですから、ここでいま少し待ちましょう」
先刻も似たようなことを言った。宮は、今度はうなずかなかった。禍が生まれていますと、告げる。
「諍いの中で、生まれています。これから広がり、どこかへ溜まる。滌をしたく思います」
「でも」
「いま少し近づきます」
宮の目もとが、わずかゆがんだ。
「あのようすだと、よそものが行ってとまることはきっとないでしょう。いたずらに身をあやうくすることは、ありません。あなたもおなじです。なれど、滌であれば、それは、滌宮のつとめです。わたくしがなすべきことです」
宮はくっきりとそう言うと、横を通り過ぎていく。伏丸はとっさにその背を追った。伸ばしかけた手を握り込む。
「餌袋があります。宮さま」
宮が立ちどまり、振り返る。ひとふさ、ほどけた髪がゆらめく。伏丸は宮を追い抜いた。
「わたしが集めてまいりますから、どうかこちらでお待ちください。少し近づけばたかってきましょう」
宮に見込まれた餌袋なのだ。返事を待たずに陰を抜け、乾いた砂地の道に出る。まぶしさに目を眇めつつ、さきほどよりも激しくなった諍いのほうへ向かっていく。遠くから眺めるひとたちが見える。集団を指差し話している。加わっていくひとたちもいる。そして土くれが飛び交いはじめる。このまま、突っ込めばどうなるだろう。宮の言うとおり、とまらないだろう。胸のあたりが重たくぬめる。
「ちがいます」
声が空気を裂いた。鋭い、余韻も消えぬそばから、流れくるのは歌だった。研ぎ澄まされて磨き抜かれた、恵みの清水を思わせる歌。数人のひとが、かえりみる。




