二十九 初心
明かりもなく町の闇は濁って、音がくぐもって耳にもぐった。伏丸はそっと戸を閉ざし、店先に立って空を仰いだ。曇っているので星は光らず、月ものぞかず腫れぼったい。壁にもたれてまぶたをおろす。上を向いても下を向いても、前後も左右も息がしづらく、なにもない夜はろくでもなくて、封じたものがふと顔を出す。そろりとその手を伸ばしてくると、あっという間に底へ引き込む。
餌袋として宮のそばにいるが、ほんとうはいてよいものではない。ほんとうは獣物どころでもない。あまりに憐れで愚かであってあまりに弱くおぞましく、はじめからそうだったのではない、おちた。好んで堕ちたのだ。あるいは、はじめからそうだった。堕ちずにこらえて生きていたのに、こらえることを辞めてしまった。
ふるさとの村は、ずっと遠くだ。もう二度ともどることはできない、ごくふつうの村だった。近くの村と争ったり、戦のときには山へ逃げたり、田畑を焼かれたりしたこともあった。それでもなんとか生き抜いていた。よくわからないひとがいた。
武人の娘で、身の上がちがう。けれども、一緒に村の野山を駆けずり回る幼なじみで、互いに十四になった日からは主で、それから数年経ったら許嫁にまでなったひと。ゆき。そのひとはゆきといった。名ほど清らかなふうではなくて、うるさく、うつくしいひとだった。冬よりも春を思わせた。春、可憐ながら強く咲く花、あともう少しで夫婦になって、ともに生きていくはずだったひと。
やわらかな日の差すころに、祝言をあげる支度をしていた。あるとき、ゆきを村にのこして、町のほうへ出かけていった。用事を済ませてもどってみると、そこはもうもとの村ではなく。ご祝儀を狙った野盗に襲われ、焼かれて踏み荒らされていた。
村のすべてというわけではない。ほんの一部だけだった。ほんのいちぶだけ。あそこだけ。ゆきの住んでいた屋敷のまわり。屋敷の中にゆきはおらず、さがして村を走り回った。村を出るところあたりに見つけた。倒れて、ものも言わないままで。赤く染まって衣を剥がれ、目を半分ほどひらいたままで。たおやかな花の中死んでいた。淡紫が散り濡れていた。
きっと、攫われかけたのだ。きっと懸命に抗ったのだ。力及ばず、腹いせのように遊ばれ、踏み躙られたのだ。ひとをひととも思っていない、いやしいおぞましいひとでなしどもに、こんなすがたにされたのだ。
ゆき、と露を浴びて思った。春の花園が凍てついていた。狂った。気も身も狂い尽くした。この世ごと葬ると誓った。だが、そんなことはかなわなかった。この世を葬る力などない。そんな大それたことかなわない、それならせめて、奴だけは。奴らだけはとこの手ですべて。
すべて、葬り去ると誓った。そのとき、ゆきとともに死に、ふるさとを捨てて野盗を追った。春の花よりうつくしいひと、そのなきがらさえ捨て置いて。
そのひとを殺した野盗どもは、付近で名の知れたものたちだった。襲われた村びとが言っていたのだ。その根城のある場所はわかった。そこへたどり着き、潜り込んだ。かならず、みな殺しにするために、内側に入り込んだのだ。仲間だ。野盗の一味となって、伏丸と名を与えられた。
それから、いくつもの村に火をつけた。盗んだ。殺した。殺すため。犯すことだけは、しなかった。しないというよりもできなかった。「仲間」には初心と笑われていた。反吐を飲んでも殺したかった。
泥啜っても毒食らっても、どうしても殺し殺したかった。だから、一緒になって笑った。わからなかった。すべてが嘘か。
伏丸は秀でた野盗であって、「仲間」の手ほどきを受けながら、さらに強くしたたかになった。「仲間」の信頼も厚かった。多少どこへ行きなにをしようと、だれひとり訝しむものなどいない。伏丸は薬を調達した。飲めば身体が痺れてしまい、しばらく動けなくなる薬。戦利品の多かった夜、祝いの酒にそれをとかした。ほどなく、すべてが地べたに転がり、それらすべてを血みどろにした。
伏丸に目をかけていた頭が、もっとも手強く、しつこかった。いくら刺してもおとなしくせず、首に手をかけ絞めあげてきた。血走った目で睨みつけ、血の泡吹いてはなにかを言った。なにがなにやら聞こえなかったし、聞かなかった。やがては死んだ。伏丸は血の原になった根城に、火を放ってからそこを離れた。
頭は、伏丸に生きかたを教えた。だれかを虐げたとしても、それは確かに生きかただった。よく飲み、よく笑うひとだった。ともに、笑ったひとがいた。笑って踊って罵り合って、ともに語ったひとがいた。ともに盗んで傷つけて、分け合って称え合ったひとたち。ともに殺めた。寝て覚めた。芯からおそれる目をして見つめた。信じられない、どうしてと。すべてがこの身を縛めて。
そして歩いて、走って歩いた。己の身体も血みどろのまま、ひたすら歩き、走り歩いた。なにがなんだかわからなくなり、血が乾きぽろぽろ剥がれはじめて、その後もただただ歩き続けた。どこをどう行ったか覚えていない。延々、重くてしかたなかった。身体が重くてしかたなかった。その重みからは逃げられぬのに逃げるようにしてとにかく動き、あるとき、ふいに思い至った。もう、おわりにせねばならない。
崖が目の前にあったせいなのか、いきなりわれに返ったように、そうしなければならぬと信じた。足が竦んで目が回り、草に反吐などぶちまけた。そうすれば、ゆるされるとでも言うか。
血みどろにした。すべて殺した。殺した。罪のないひとさえも。守れなかった。捨て置いてきた。だれよりうつくしいひとすらを。いけない。ゆるされるはずがない。捨ててゆるされるほどの値打ちが、このいのちにはすでにない。
伏丸はそこから起きあがり、ふらふらとまた歩きだした。己がなにかはもう知れず、身体が動いているだけだった。そうしなければならぬと信じた。そうすれば、どうなるのだろう。あるとき、ふいにそう思った。生きて苦しめばよいとでも。そんなことなんの意味がある、その苦しみに値打ちなどない。もうどうしようもなくなっている。ずっと、わかっていたはずだった。
あがないきれない。つぐないきれない。むくいをうけきることもできない。なにをしようと、もどりはしない。二度となにひとつ、かえってこない。死んでいようと生きていようと、変わらない。ではどうすればいい。どちらもまったく意味がなくとも、どちらかになりたい、なりたくない。すべて詮無い、そんなことない、そんなことないと思い込みたい。とけあうことのない情動が、ぶつかり互いを食らいあい、毒牙を突き込みあって腐れた。そのいやしいおぞましい汚泥に、たかってまとわりついてきた。禍が、禍を呼んでは重く、どこまでも重く沈んでいった。そこに現れたのが宮だった。




