二 若草
澄みきった気配。清水のような。それは伏丸のこめかみを打ち、すいと正気に引きもどす。にわかにひらけた朝の景色は、至極当然のものだった。
霧が晴れ、日の滲み込む野原。照り映える赤。転がるなきがら。刃と旗と、晒された肌、うつろと呼ぶのもむなしい瞳。こんなものめずらしくもないのに、なにをおそれていたのだろうか。腹這いのまま顔だけあげる。白けた気分で見回していると花を一輪、見出した。少し離れたところに咲いた、いや、花ではない。草だろう。夏草のように生き生きとして、放つ気配の清冽な。朝の血の原に生うるひと。
光から逃げることなどしない。受けとめ、己のものにしている。伏丸はただ呆然として、そのひとを見るばかりになった。しゃんと力みもなくそこにいた。ほそやかな線の娘であった。
頭に笠をかぶっており、黒髪はまるく結ってある。背にはちいさな包みを負って、草鞋は泥に染められている。格好からして旅のひとらしい。まわりに連れの気配はない。ひとりで戦場など歩くのか。いったいなにをやっているのか。伏丸は、いろいろ思いはしたが、ぼんやりとして動けなかった。娘は、伏丸を見ていなかった。若草の小袖に包ませた、細い身体でただ立っていた。
遠いところを見るらしかった。向けられたのでもないまなざしに、胸の奥底がちりりと焦げる。あこがれのようで鈍く疼いて、それでも離れられず見つめる。着ているものは質素であるし、身体もやせっぽちであるのにどうしようもなく、ひかれてしまう。娘は、おもむろに笠を外した。つい目を細めた伏丸は、朝に縁取らせた横顔が、唇がわずか動くのを見た。こぼれ出たのは、すずしい光、凛とすきとおりあふれ出し、一帯を洗いあげてゆく声。澄みきったままにその声は、歌のかたちをとって流れる。それはさながら清めの流れ。まばゆいような血濡れの野辺の。
大前に畏み畏み白さく
青人草より生れ出でませる
万千万の禍の群
立つ陽炎に花咲み匂ひ
蔭に露おき鳴きて往く鳥
風に沫雪渡り離る月
雲居に土に悉に
生り成り坐せる禍の叢
荒び猛び給ふことなくして
鎮まり給ひ息ひ給ひ
滌ぎ葬り竟へ奉ることを
平らけく安らけく聴し給へと
恐み恐みも白す
はじめて聞いたはずのことばが、押し迫っては染み込んでくる。さらさらと急き流れる瀬から、ゆうゆうと流れ満ちゆく大河。鋭いほどの涼しさは、徐々にまろやかにやわらいでいく。それでも気高く透明な、声の余韻に野原は沈む。沈み、ゆるやかに洗われていく。芯からすすがれている気がした。はじめてのその感覚に、伏丸は知らず身を縮めつつ、いまだ娘を見つめていた。
はじめて聞いたことばで、歌だ。けれども、知らないわけではなかった。幼いころに、言われていたのだ。
禍というものがある。行き場なく腐れた情から生まれる。あっても感じられないけれど、近づけば、とりつかれることがある。とりつかれると調子をくずす。それは、ひとの寄らない場所や、ひとが死んだ場所に溜まりやすい。気をつけておかなければならない。どうにもできないものなのだ。でも、できるひとがいる。それを清めるつとめを負って、各地を巡るひとがいる。もしそのひとがやってきたなら、村をあげておもてなしをすると、ずっとむかしから決まっている。
つくり話だと思っていた。「禍」も、それを清めるつとめも、つくりごとだと決め込んでいた。
娘は、腰から身体を折って、深く恭しく礼をとる。そうして頭をあげたとき、残響が潮の引いていくように、すうと落ち着き、静けさが降る。そこで伏丸はわれに返った。身体がひどく、軽かった。
なにかに追われてとらわれた、まとわりつかれた重みが消えて、すっきりと軽くなっているのだ。肺臓に滑り込んだ空気が、冷や水のようで咳が出た。きつく泥を握りしめながら、息のしかたをいまやっと、思い出したらしいと知った。ざらついた息はしばらくののち、するりと胸から喉へ流れた。
洗いたての布みたいな風が、草と娘の袖をゆらした。その中に混じる、血のにおい。いま、ようやく気がついた。血がにおわないはずがないのに。
錆びた空気を吸って吐き、からっぽのような身体を起こす。そばに倒れたひとのほうは見ず、ぬかるみの中に立ちあがる。衣はべったりぬめっているが、心もとないほど楽だった。頬を伝った露かなにかを手の甲で粗く拭って見ると、娘はじっと動かないまま。また遠い目をしているらしい。もう少しばかり近づけば、表情がよくわかるのだろう。どこを見ているかもわかるだろうか。思いつつ、伏丸は突っ立っていた。すると、なんの前ぶれもなく、娘がこちらをかえりみた。
見られたことは、あきらかだった。べつにかまわないはずなのに、伏丸はその場で固まった。いっぽう、娘はおどろきもせず、伏丸へ身体ごと向けてくる。若草の袖がさらりとなびき、黒髪が日につやめいた。口がことばをかたどったかと、思ったとたん、直ぐにとどいた。
「少し、軽くなりましたか」
清流が胸を貫くようだ。娘は伏丸のこたえを待たず、軽い足どりで近づいてくる。絶句し、伏丸はあとずさる。すると娘は歩みをとめた。
ぴちゃりと、濡れた音がした。はっとして顔のほうを見たとき、ちょうどまなざしが結び合う。深く、潤んだ涅の玉。奥ゆきのある大きな瞳。表になにを浮かべるでもなく、ひどく静かに娘は言った。
「わたくしについてきなさい」




