↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
滌葬草子  作者: 相宮祐紀
〈一〉 滌宮
2/40

二   若草

 澄みきった気配。清水のような。それは伏丸《ふせまる》のこめかみを打ち、すいと正気に引きもどす。にわかにひらけた朝の景色は、至極当然のものだった。

 霧が晴れ、日の滲み込む野原。照り映える赤。転がるなきがら。刃《やいば》と旗と、晒された肌、うつろと呼ぶのもむなしい瞳。こんなものめずらしくもないのに、なにをおそれていたのだろうか。腹這いのまま顔だけあげる。白けた気分で見回していると花を一輪、見出した。少し離れたところに咲いた、いや、花ではない。草だろう。夏草のように生き生きとして、放つ気配の清冽な。朝の血の原に生《お》うるひと。

 光から逃げることなどしない。受けとめ、己のものにしている。伏丸はただ呆然として、そのひとを見るばかりになった。しゃんと力みもなくそこにいた。ほそやかな線の娘であった。

 頭に笠をかぶっており、黒髪はまるく結ってある。背にはちいさな包みを負って、草鞋《わらじ》は泥に染められている。格好からして旅のひとらしい。まわりに連れの気配はない。ひとりで戦場《いくさば》など歩くのか。いったいなにをやっているのか。伏丸は、いろいろ思いはしたが、ぼんやりとして動けなかった。娘は、伏丸を見ていなかった。若草の小袖に包ませた、細い身体でただ立っていた。

 遠いところを見るらしかった。向けられたのでもないまなざしに、胸の奥底がちりりと焦げる。あこがれのようで鈍く疼いて、それでも離れられず見つめる。着ているものは質素であるし、身体もやせっぽちであるのにどうしようもなく、ひかれてしまう。娘は、おもむろに笠を外した。つい目を細めた伏丸は、朝に縁取らせた横顔が、唇がわずか動くのを見た。こぼれ出たのは、すずしい光、凛とすきとおりあふれ出し、一帯を洗いあげてゆく声。澄みきったままにその声は、歌のかたちをとって流れる。それはさながら清めの流れ。まばゆいような血濡れの野辺の。


 大前《おほまへ》に畏《かしこ》み畏《かしこ》み白《まを》さく

 青人草《あをひとぐさ》より生《あ》れ出《い》でませる

 万《よろづ》千万《ちよろづ》の禍《わざわひ》の群《むら》

 立《た》つ陽炎《かぎろひ》に花《はな》咲《え》み匂《にほ》ひ

 蔭《かげ》に露《つゆ》おき鳴《な》きて往《ゆ》く鳥《とり》

 風《かぜ》に沫雪《あわゆき》渡《わた》り離《か》る月《つき》

 雲居《くもい》に土《つち》に悉《ことごと》に

 生《な》り成《な》り坐《ま》せる禍《わざわひ》の叢《むら》

 荒《あら》び猛《たけ》び給《たま》ふことなくして

 鎮《しづ》まり給《たま》ひ息《いこ》ひ給《たま》ひ

 滌《すす》ぎ葬《はぶ》り竟《を》へ奉《まつ》ることを

 平《たひ》らけく安《やす》らけく聴《ゆる》し給《たま》へと

 恐《かしこ》み恐《かしこ》みも白《まを》す 


 はじめて聞いたはずのことばが、押し迫っては染み込んでくる。さらさらと急《せ》き流れる瀬から、ゆうゆうと流れ満ちゆく大河。鋭いほどの涼しさは、徐々にまろやかにやわらいでいく。それでも気高く透明な、声の余韻に野原は沈む。沈み、ゆるやかに洗われていく。芯からすすがれている気がした。はじめてのその感覚に、伏丸は知らず身を縮めつつ、いまだ娘を見つめていた。

 はじめて聞いたことばで、歌だ。けれども、知らないわけではなかった。幼いころに、言われていたのだ。

 禍《わざわい》というものがある。行き場なく腐れた情から生まれる。あっても感じられないけれど、近づけば、とりつかれることがある。とりつかれると調子をくずす。それは、ひとの寄らない場所や、ひとが死んだ場所に溜まりやすい。気をつけておかなければならない。どうにもできないものなのだ。でも、できるひとがいる。それを清めるつとめを負って、各地を巡るひとがいる。もしそのひとがやってきたなら、村をあげておもてなしをすると、ずっとむかしから決まっている。

 つくり話だと思っていた。「禍」も、それを清めるつとめも、つくりごとだと決め込んでいた。

 娘は、腰から身体を折って、深く恭しく礼をとる。そうして頭をあげたとき、残響が潮の引いていくように、すうと落ち着き、静けさが降る。そこで伏丸はわれに返った。身体がひどく、軽かった。

 なにかに追われてとらわれた、まとわりつかれた重みが消えて、すっきりと軽くなっているのだ。肺臓に滑り込んだ空気が、冷や水のようで咳が出た。きつく泥を握りしめながら、息のしかたをいまやっと、思い出したらしいと知った。ざらついた息はしばらくののち、するりと胸から喉へ流れた。

 洗いたての布みたいな風が、草と娘の袖をゆらした。その中に混じる、血のにおい。いま、ようやく気がついた。血がにおわないはずがないのに。

 錆びた空気を吸って吐き、からっぽのような身体を起こす。そばに倒れたひとのほうは見ず、ぬかるみの中に立ちあがる。衣《ころも》はべったりぬめっているが、心もとないほど楽だった。頬を伝った露かなにかを手の甲で粗く拭って見ると、娘はじっと動かないまま。また遠い目をしているらしい。もう少しばかり近づけば、表情がよくわかるのだろう。どこを見ているかもわかるだろうか。思いつつ、伏丸は突っ立っていた。すると、なんの前ぶれもなく、娘がこちらをかえりみた。

 見られたことは、あきらかだった。べつにかまわないはずなのに、伏丸はその場で固まった。いっぽう、娘はおどろきもせず、伏丸へ身体ごと向けてくる。若草の袖がさらりとなびき、黒髪が日につやめいた。口がことばをかたどったかと、思ったとたん、直ぐにとどいた。

「少し、軽くなりましたか」

 清流が胸を貫くようだ。娘は伏丸のこたえを待たず、軽い足どりで近づいてくる。絶句し、伏丸はあとずさる。すると娘は歩みをとめた。

 ぴちゃりと、濡れた音がした。はっとして顔のほうを見たとき、ちょうどまなざしが結び合う。深く、潤んだ涅《くろつち》の玉。奥ゆきのある大きな瞳。表《おもて》になにを浮かべるでもなく、ひどく静かに娘は言った。

「わたくしについてきなさい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。