十九 几帳
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月影に透ける障子戸の白が新雪のように光を帯びて、夜闇の中の敷布の皺や、板敷の疵をあらわにしている。竟子はそれを目でたどりつつ、庭か青田かで鳴いているらしい蛙の声を聞いていた。
村長の屋敷の離れにある、絃の居室に横たわっている。絃は几帳の向こう側で、もう眠っているようだった。
絃についていた禍の、余分なものをすすぐことができた。はじめに部屋を訪ねたときには、ひとりうずくまっていたそのひとが、顔をあげてことばにこたえた。洞穴にはまだ禍があるが、たいへんに感謝されてしまった。
そのため夕餉を供されたのち、部屋と寝具ばかりではなく湯殿まで借りることになった。ひさしぶりの湯に身体がほぐれ、だるさが少しやわらいでいる。あすの朝には洞穴を訪ね、またすすぐことができそうだ。
滌において無理をするのは、だれの利益にもならぬこと。調子をくずすと、すすげなくなるうえ回復するのに時間がかかる。こまめに休んで確実にすすぐ。遠回りのように思えても、結局のところそのほうがはやい。
ゆっくりと足を動かすと、麻の敷布と磨いた肌がさらりとこすれて心地よかった。竟子は少し、気が咎めた。いまごろ、この屋敷の母屋のほうで、サクは眠れているのだろうか。よく食べていたとは、アコから聞いた。不遜だけれど根はやさしい子だ。おだやかな夢を見ていればよいと、ねがう。それから、そのそばで、重みに耐えているのだろうか。平気です、と言った声音が、ふわりとなぜだか、思い出される。
伏丸をそばにいさせることと、絃のそばにいることは両立しない。絃は吉弥の妻なのだから、近くに男は置きにくかった。そしてどちらを優先するか、決めるとするなら迷わず絃だ。絃のほうが弱っているし、伏丸も絃を先に守ることを、のぞむだろうという気がしていた。のぞみをかなえてやる気はないし、かなえることもできないけれど。
この村の奥のほうには、確かに禍の気配がある。それが、霧の流れるように少しずつ動いているのがわかる。伏丸のほうへ移っているのだ。すぐにどうこうというわけではないが、ここにひと月もいたならば、いのちがあやうくなるだろう。あすにはすすぐし旅の身なので、そのようなことにはならないが。
まぶたをおろし、力を抜く。いまはしっかりと身体を休めて、あすに備えるべきである。朝はやくには洞穴へ行くと、吉弥とさきほど約したのだ。掛布を喉まで引きあげたとき、しゅるりと、かすかな物音がした。
それは衣擦れのようだった。竟子はさっと起きあがる。厚い几帳がかすかにゆれる。
「滌宮さま。よろしいでしょうか……」
いまにも、消えそうな声を拾った。すぐさま几帳へ身を寄せる。
「ええ、どうされましたか。絃どの」
向こう側へそっと問いかけると、几帳がふたたびゆらめいた。
「あの、お休みのところほんとうに、申し訳ございません、宮さま……」
花の散るように声はふるえて、けれどもゆるがぬ芯を持つ。竟子は首を横に振った。
「いいえ、かまわないのです。せっかく互いに起きておりますから、少しお話しいたしましょう」
はい、とかすかな音でこたえて、絃はゆっくりと語りはじめた。竟子は几帳にもたれるように、静かに耳を傾けた。蛙が風と鳴く夜の中、のこしておいてと絃はねがった。禍を村の洞穴に。
場所にとりつく禍ならば、すすいでしまってかまわない。いつもなくしてしまっている。けれども、絃はのこしてと言う。
「吉弥さま……夫は禍をすすぐようにと、それだけおねがいしたと思います。けれど、あれは、村を守ります。いまは広がりすぎているので、すすいでいただきたいのですが、少しのこしていてほしいのです。虫のよい話だとはわかっていますが、どうかおねがいいたします……」
いままで訪れてきたいくつかの場所でも、おなじことを言われた経験がある。そして食事時に会った村長にも、ひっそりとおなじことを頼まれた。
「争いが、あったのですね」
竟子はなにげない調子で問うた。絃が口ごもりながらもこたえる。
「はい……はい、そうなのです……、近くの村と境をめぐって、よく争いが起こっていました。けれど数年前からです、この村にある洞穴に、禍が溜まりはじめたのです」
数年前、と言うが吉弥は、ひと月ほど前と話したはずだ。けれど、吉弥は偽っていない。禍が溜まりはじめたのが、いつからとは言っていなかった。ひと月ほど前から村の中に、おかしな場所があるのだと言った。おそらく、禍が広がりはじめたのが、ひと月ほど前なのだろう。溜まりはじめたのは、数年前。絃は懸命なようすで続ける。
「そのために、ここはおそれられ、攻められにくくなりました。近隣も争いが減りましたし……、わたしはここと争っていた、近くの村から嫁いできました。それは一年前のことです。でも、もしも禍がなくなれば、変わってしまうかもしれません」
竟子は、几帳ごしにうなずいた。絃のことばはよくわかった。けれども、禍があるのかないのか、わかるひとはあまりいない。村への攻撃を防いでいたという禍がなくなったとしても、近隣の村は気づかないかもしれない。この近くには禍の有無を判別するひとがいるのだろうか。それについてたずねれば、どこか苦しげなこたえが返った。
「いいえ……、そのような者はおりません。けれど、有無を確かめるために、近くまで遣られる者ならいます」
それは、そのひとにとってあやういことだ。禍があればとりつかれてしまう。確かめに遣られるひとというのは、一種贄のようなものだろう。これも、ほかの場所でもあったことだった。そうでしたかと返事をすると、絃のうなずく気配があった。そのあと発せられた声音は、いままでよりも強かった。
「ですから、禍がなくなれば、それに気づくと思われるのです。おそれることがなくなるかもしれない。また争うかもしれません。禍がなくなるのも、たくさん減るのもわたしはおそろしいのです」
禍を、すすぎきらない。広がってしまう前くらいには、のこす。村長とおなじ考えだ。それは伝えずに確かめると、絃は、はいと言いきった。
「はい、そうしていただきたいのです」
「では、どうして吉弥どのは、そのようにおっしゃらなかったのでしょうか」
いやなことを、聞いていると思う。だいたい察しがついており、絃自身もわかっているのだろうと、それも察してたずねている。はっとしたように黙り込む絃に、竟子はそっとひとこと告げた。
「先刻も申したことですが。絃どのは禍を集めやすい」
伏丸ほどではないのだが、徐々に溜め込んでしまうようだった。
「お気づきでは、なかったかもしれません。けれど、禍に毒されるあなたを、吉弥どのがとても案じていたことは、お気づきだったのではありませんか」
吉弥が絃を想っていることは、そのようすからもよくわかる。きっと村々の均衡よりも、絃の身のほうを案じているのだ。だから、すすぎきるなと言わない。禍につかれてはいないけれども、村長のことばも聞かないのだろう。だから村長も、滌宮に直に相談をしに来たのだ。でも、竟子が聞きたいことは、もっと奥底のほうにある。
吉弥がまわりのことを忘れて心配せねばならないほどに、禍に侵されていた所以。絃が禍を集めやすくなり、苦しむことになった由縁だ。絃は、きっとほんとうは、それを話そうとしているのだと、感じる。白く光る障子が、几帳へほのかな影を投じる。なめらかに重い布がゆらいで、ごめんなさい、と息がこぼれる。
「わたし────吉弥さまにこんなに、こんなにだいじにしていただくのに、いまずっと、ずっと考えてしまう、べつの、ひとのこと、ずっと想って──」
くぐもり、高くなった声音に、胸の奥底が鈍く疼いた。竟子は几帳をめくりあげ、ふるえるちいさな手を取った。




