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七センチの隙間を越えて  作者: 琵琶こと
7/8

第六部「零日、真実と告白」

 十一月一日(日)午後六時

 

「さっきの小説」

 凛が口を切り、少し目を細めた。背筋が伸びる。

 ――来た。批評が来る。

「すごく、リアルだったね。叶人と凛央、本当にいるみたいだった」

 凛はカップの水面を見つめながら話す。

「彩人」

 名前を呼ばれて、カップを置いた。

「は、はい」

 心臓が大きく動く。

「あの話。叶人って、彩人自身……だよな?」

 静かで確信のある声。

「うん……、そう」

 小さく、ぎりぎり聞こえる声で答えた。

 凛の表情は変わらなかった。ただ、何かを確認したような顔でこちらを見る。

「やっぱりね。なんとなく、そんな気がしてた」

 思わず顔を伏せた。たぶん、首筋から手、耳の付け根まで、全身が赤くなっている。凛は嫌な態度はしていない。

 今度は、自分が話す番。深呼吸する。

「僕は叶人と同じ……ずるい人間なんだと思う」

 吐き出すように、だけど、言葉がしっかり出た。

「小説の中に逃げて、本音をキャラクターに託して」

 気まずさを隠すように、カップを両手で包む。

「現実じゃ言えないことばかり。でも、あの世界の中だけは、自分を偽らずにいられる気がした」

 凛は何も言わずに聞いてくれていた。ただ、静かに。

「なんで、男性同士にしたの?」

 凛の声は優しかった。責めるような声じゃない。

 すぐに答えられなかった。目をそらして頭の中で何度も言葉を探す。

 正直に言うべきか。あいまいにすべきか。

「わからない。でも、そうしないと、書けなかった。現実として受け入れられなかった」

「じゃあ――今なら現実として受け入れられる?」

 凛の目が、こちらから逸らされない。

 ゆっくりと頷く。心臓が飛び出しそうなくらい激しく打っている。

「俺も〝凛央〟として見てたら、不思議な気持ちになった」

 凛の声が少し震える。

「なんか、叶人のことが他人に思えなかった。彩人と話してるみたいで」

 凛の瞳が真っ直ぐこちらを見ている。逃げない目。

「ずるいとか逃げてるなんて思わない。むしろ、そんなふうにしてまで伝えたいって思ってくれたのが」

 三秒の沈黙。長い、長い三秒。

 そして。

 「――嬉しいよ」

 聞き間違いなんかじゃない。

 ふつふつとたぎるほど熱いものが全身に流れ出す。声に出したら、きっと泣いてしまう。だから歯を食いしばって堪える。

「でもさ、次は小説じゃなく……、直接、俺に話してくれたら――もっと嬉しいかな」

 言葉少なに時間がかかってもいいから、と。ゆっくりと頷く。そう。言葉にできなくても、伝わることがある。今はそれだけで良かった。小説を通して気持ちが届いた幸せを噛みしめる。

「彩人――」

 凛の声のトーンが急に落ちた。それは場の空気を変えるほどに。

 温かかった談話室の空気が、一気に冷える。

 思い詰めた顔をした凛。

 不気味な静寂。

 何か大事な話が来る。

「俺も――彩人に直接、話さなきゃいけないことがある」

 柚子茶の香りが急に遠くなった。

 

 

「あの日」

 凛の声が、確実に変わった。低く。暗く。

 柚子茶のカップを置く。カップが受け皿に触れる音。小さな、陶器の音。

「事故の日――」

 呼吸が止まる。

「俺、車に乗ってた」

 一秒。二秒。三秒。

 意味が――つかめない。瞬きを繰り返す。

「えっ」

 声がかすれた。

 いつもと違う雰囲気に戸惑う。凛の表情が見たことないくらい硬い。

「だ、誰の?」

 喉が絞められたように苦しい。

「どういうこと?」

 凛は答えない。

 震える手をもう片方の手で抑える。その手が真っ白だ。血の気が引いている。

「ねえ」

 もう一度聞く。

「凛。誰の車?」

 固唾を呑んで話すのを待つ。

「……祖父の車」

 めまい。

 世界が、傾く。

 テーブルの柚子茶のカップが、視界の中で揺れる。

 いや、揺れているのはカップじゃない。

 自分の視界が、揺れている。

「祖父……」

 唇がうまく動かない。

「祖父って、まさか」

 凛はゆっくりと首を縦に振る。

 その動きが。

 スローモーションのように見える。

 一秒が。

 永遠のように長い。

「俺も乗ってた」

 凛の声。

「後部座席に」

 凛の消え入りそうな声。

「事故の瞬間、俺も一緒にいた。誰かが轢かれるのも一瞬だけど見えた」

 肋骨が軋む。テーブルの木目が視界に入る。ぼやける。

「でも……俺は未成年だったから同乗者としか報道されていない。もしかしたら、父が報道を規制したのかもしれない」

 一瞬の沈黙。談話室の時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。

 カチ、カチ、カチ――。

 テーブルに手をつく。支えないと倒れそうだった。呼吸が浅くなる。空気が薄い。

「嘘……でしょ」

 凛は目をそらさない。まっすぐ、こちらを見ている。笑顔はみじんもない。

 ――ああ、本当なんだ。

 あの日の雨上がり。ブレーキ音。宙に浮いた身体。リハビリの痛み。動かない足。変わってしまった人生。

 全て。

 全て、凛の家族のせいだったってこと――。

 頭の中で、パズルのピースが次々と嵌まっていく。

 初対面の日。凛が外を見た視線の、ほんの一瞬のこわばり。祖父の送迎。

 すべてが――最初から知っていて、近づいたんだ。

「ふざけ」

 声が出ない。

 喉が締まる。

「ふざけないで」

 自分の髪を掴む。強く。髪が引っ張られて痛い。

 でも。

 心の痛みの方が。ずっと、ずっと痛い。

「ふざけないで!」

 声が大きくなる。部屋中に響く。自分の声が遠くで聞こえる。他人の声のように。

「今さら」

 苦しい。

「今さら、何言ってるの!」

 前がよく見えない。何もかもが、ぐちゃぐちゃだ。

「なんで」

 空気がうまく入ってこない。声の通り道が塞がる。

「なんで今まで」

 知らぬ間に頬に筋が走った。テーブルに小さな染みができている。

「なんで今まで黙ってたの!?」

 叫ぶ。獣のように叫ぶ。

「凛が」

 胸の服を強く握りしめる。

「僕をひいた人間の」

 拳が白くなるほど。

「家族って!」

 世界が歪む。

 この場所に居たくない。ここから逃げたい。凛の顔を見ていられない。

 限界だった。急いでレバーをバックして向きを変えた。

「僕の人生、全部めちゃくちゃにしたの」

 金切り声を上げ、逃げ出すように廊下を進んだ。

 窓の外は真っ暗だった。月も星もない。

「僕を壊した人の孫が、凛だったなんて!」

 記憶が断片的によみがえる。初めて会った日。凛の笑顔。リハビリ室で並んだ車椅子。

 呼び捨てにされた日。手を繋いだ瞬間。BLの本の話。ペットボトルを差し出してくれたこと。

 名前で呼び合うようになった日。衝突して、和解した日。

 全部――嘘だったの?

「彩人、待って!」

 凛の声がした。でも振り返れない。今、向かい合ったら、何を言ってしまうかわからない。自分が怖い。

 もっとひどいことを言ってしまうかもしれない。取り返しのつかないことを。

 廊下を車椅子で走り抜けるニアの駆動音だけが、やけに大きく聞こえる。心臓の音みたいに。

 部屋の自動ドアが開く。急いでベッドに倒れ込んで枕に顔を埋めた。

 枕が、涙で濡れていく。呼吸ができない。息を吸おうとしても、空気が入ってこない。

 胸が苦しい。胸の中で何かが暴れている。過呼吸になりそうだ。耐えきれないおえつを隠すように毛布に包まった。声を出したら、空気まで裂いてしまいそうで怖い。

 

 

 少し遅れて、装具の音が近くで止まる。

 ――凛だ。

 キィ、キィ、と金属が軋む音。その音さえも耳障りだ。すべてが、憎い。装具も、凛も、あの事故も。

「来ないで!」

 顔を上げ毛布の隙間から睨みつけた。凛が手を伸ばしかけて止めている。その手が、宙で震えている。

「今は顔も見たくない! 視界に入れたくない! 僕の側に来ないで!」

 凛は一歩も動かない。ただ、じっと立っている。泣きそうな顔で。いや、もう泣いている。頬に涙の筋が光っている。

 なんで。なんで、そんな顔をするの。

「何のために……僕に近づいたの」

 つぶれた声で凛に聞いた。腕の中で枕がつぶれ、涙も鼻水も出ている。

「優越感を味わいたかったの?」

 凛が小さく首を振る。首を振るだけで、何も言わない。

「じゃあ、何だよ! バカにして楽しんでるの!?」

「違う!!」

 凛が、初めて声を上げた。でも、それだけ。それ以上、何も言わない。

「わかんない……わかんない、わかんない!」

 叫ぶ。何がなんだかわからない。頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。整理できない。

 重苦しい沈黙。部屋の中には、二人の荒い呼吸だけが響く。

 言葉を忘れてしまったように、凛は何も話さない。言い訳も、弁解も、謝罪もせず。ただ黙って立っている。奥歯を噛みしめた。何か言えよ。弁解しろよ。謝れよ。

「どうせ、足さえ治ったら、モデルにでもなって、すぐにいなくなっちゃうんだろ!」

 言葉を刃のように投げつける。

「お願いだから、僕の前から消えてくれ!!」

 一つ、また一つ。凛を傷つける言葉を投げる。

 凛は、逃げずにすべての刃を受け止めた。ただ、立っている。動かない。反論もしない。

 それでも、凛は黙りこくる。話にならない。

 振り上げた拳の行き場がなくなった。

 

 

 そして――。匂いが立ちのぼった。

 鼻を刺すような、ツンとした不快で、生温かい匂い。

 アンモニアの匂い。

 嫌な予感。

 顔をしかめた瞬間、凛も眉を寄せて鼻をひくつかせる。

 凛のジョガーパンツが、ほんのり濡れている。

 太ももの内側に、暗い染みが広がっている。本人には、その感覚がない。

 気づいていない。

 身体の芯から力が抜けていく。

「あはは」

 凛が笑った。でも声が出ていない。乾いた笑い。壊れた笑い。崩れていく笑い。

「事故の後遺症。排泄障害って言うんだ」

 凛の声が自分をあざけるような響きになる。

「軽い圧迫骨折だった」

 凛は続ける。

「でも、神経を傷つけて」

 凛の指が震える。両手を太ももの横で握りしめる。

「トイレのタイミングが、わからない」

「凛……」

 名前を呟く。それしかできない。

「見た目は普通でしょ?」

 自分を笑うように口元を歪める。その笑顔が痛々しい。こんな笑顔、見たくなかった。

「モデルなんて、無理だよ。いつ漏らすかわからない体で」

 凛は近くのクッションを掴んだ。

 床に叩きつける。ボフッという鈍い音。中の羽が舞い上がった。

 白い羽がゆっくりと落ちていく。雪のようで――美しくない。

「顔がいい? スタイルがいい?」

 凛の声が裂ける。今度は逆に凛の感情があふれ出し始める。

「だから何だよ!」

 もう一つクッションを掴む。

「こんな、こんな漏らしても気づかない体で!」

 叩きつける。また羽が舞う。宙を漂う。

「俺に何の価値がある!?」

 涙を拭わず、髪も顔も乱して叫ぶ。知っている凛じゃない。

「彩人を壊して、それでも生きてて!!」

 投げたクッションはテーブルに当たり、メモ帳が吹き飛んだ。

 また一つ。

 羽が部屋中に舞う。

 小説のメモ帳が、床に落ちる。

 生まれて一度も聞いたことのない、感情がむき出しの声に身体がすくんでいる。

「こんな俺を、誰が好きになるんだ」

 肩が小刻みに震えている。いや、全身が震えている。

「何も守れなくて、何もできなくて、トイレもわからない、俺なんか」

 凛は肺の中の空気を全て吐き出すような声で叫ぶ。

「生きる意味ないだろ!!」

 白い羽が、ゆっくりと落ちていく。

 部屋の空気が凍りついた。

 おえつだけが響いていた。

 

 十一月二日(月)午前一時

 

 凛が部屋を出ていった。

 追いかけなかった。

 一人、ベッドに座り続けている。

 どのくらい経ったんだろう。一時間? 二時間? 頭の中が整理できない。

 時計を見た。午前一時だろうか。数字がぼんやりと見える。焦点が合わない。

 あまりにも沢山のことがありすぎて、脳が理解を拒絶している。

 ただ――。

 凛の泣き顔が頭から離れない。叫んだ声だけが、耳にこびりついている。

「生きる意味ないだろ」

 その言葉が。繰り返し再生される。エコーのように。ループする。止まらない。

 窓の外は雨。激しい雨。雨粒が窓を叩く音が、部屋に響く。

 どうしたらいい? どうすれば、この気持ちに折り合いをつけられる?

 二人の心をそのまま形にしたような集中豪雨。

 まだ腹の底に熱いものが残っている。

 どんなに怒っても、嫌いになれない自分が情けなかった。矛盾している。

 自分でも、わからない。何が正しいのか、わからない。

 

 十一月二日(月)午前三時

 

 何も事態は変わらない。それなのに時間だけが過ぎていた。時計の秒針の音だけが、静かに時を刻み、雨は、まだ降り続けている。少し弱くなったけれど。

『ピッ! フォーーーーン』

 無音だった室内に、ファンが回る音がした。

 静寂を切り裂く機械音に、弾かれたように顔を上げる。

『音声機能:復旧中。八パーセント。簡易モード起動』

「……ニア」

 音声は使えないが、基本機能は戻りつつあるのだろう。

 なにもせず、ただ眺めていた。何もかも考える力が残っていなかった。

 小さく振動させて、ニアが動き出す。ひじ掛けの部分から簡易アームが伸び出していく。ゆっくりと、慎重に。生きているように。

 そして落ちたメモ帳とペンを拾い、何かを書きだした。

 カリカリとペンの音が静かな部屋に響く。

 重い身体を引きずって、這うように近づきメモ帳をのぞく。

 そこには不揃いの字で『凛を許したい?』と書いてあった。初めて見るニアの字。機械的だけど、一生懸命書いている。

「今は、わからない……」

 再び、ニアは文字を書く。アームを震わせながら。不器用に。

『あなたは、凛を失いたいですか?』

 胸が抉られるような痛みを堪えて小さく答える。

「失いたくない」

 それは、本心だった。

「でも……許せない」

 それも、本心だった。

 少しずつニアの書記速度が速くなる。慣れてきたのか。

『矛盾していますね』

「わかってる!」

 叫ぶ。知っているそれぐらい。矛盾してることを。でも、どうしようもないんだ。

 また、新しいページに、さっと書かれる。

『人間は矛盾を抱えたまま生きることができます』

「それが答え?」

 また、次のページに。

『いいえ。それは、問いです』

 問い――何を問われているんだろう。

 ニアの手が止まらない。ニアの字が、少しずつ綺麗になっている。

『もし本当に許せないなら、悩みません。即座に拒絶するはずです』

 いつの間にかニアと話すような速度。

「簡単に言わないでくれ」

 声がかすれた。少しの間。ペンが止まる。

『悩むには、理由があります。それは、あなたが凛を』

 そして、ニアはページをめくり、大きな文字で書いた。これまでで一番大きな文字。

『愛しているからです』

 文字を追う目が止まる。ニアのアームを伝い、一滴、ノートの上に染みを作った。涙の染みが、文字をにじませる。でも、読める。

「愛してる……僕は、凛を愛してるの?」

 震える声で問う。

『百十五日間のログデータから判断すると、九十七・八パーセントの確率で』

「ほぼ百パーじゃんか……」

 泣きながら、笑ってしまった。こんな時に。

『ただし』

 ニアが付け加える。

『愛しているからといって、すぐに許す必要はありません』

「なんで……」

『許しは、プロセスです。今すぐ全てを許せなくても、時間をかけて少しずつ許していくこともできます』

「時間をかけて」

 その言葉を繰り返す。口に出して、確かめるように。

『ええ。今夜、あなたが決めるべきなのは〝完全に許すかどうか〟ではありません』

「じゃあ、何を?」

 ニアが、慎重に新しいページをめくる。

『〝凛との関係を続けるかどうか〟です』

 その言葉が、胸に落ちた。

『関係を続ける。それは、許しへの第一歩』

『完全には許せなくても、それでも一緒にいる、と決めること』

 指で目頭を押さえる。

『あなたは今まで、たくさんの痛みと向き合ってきました』

『動かない足、事故のトラウマ、隠してきた気持ち。その全てを乗り越えて、ここまで来た』

 メモ帳のページは最後。ニアは、最後のページに大きく書く。

『だから、この痛みも、きっと乗り越えられます』

 ニアに抱きついた。

 硬いフレームが、不思議とやわらかく感じた。

 いま、はっきりわかる。

 ただ、背中を押してほしかった。

 その勇気を――ニアがくれた。

 

 

 抱きついたニアのフレーム越しに見た窓の外は、雨が止み雲が薄くなりつつあった。

 夜が明けようとしている。東の空が少しだけ明るい。

 何かが動き出す。

 凛の泣き顔。「生きる意味ない」と叫んだ声。

 あれは、自分と同じだった。事故の後、同じことを思った。何度も。何度も何度も。

「動かない体で、何の価値があるの」って。「僕なんか、生きてる意味ない」って。

 けれど、凛が隣にいて笑ってくれた。名前を呼んでくれた。それだけで、前に進めた。生きる意味を、見つけられた。

 だったら、することは一つ。今度は、自分が凛の隣にいる番だ。

 療法士の渡辺さんが言った言葉を思い出す。

「すぐに二極化せずに、相手のことを理解しないといけない」

 深く息を吸う。吐く。

 夫の坂上さんは、一途に愛を貫き通した。

 もう一度、吸って声を出す。

「ニア、凛の部屋まで行ける?」

 ニアはライトを二回点滅して答える。否定の合図。まだ、システムが完全に回復していないのか。

 少しだけ待つ。

 自分の両頬を叩く。痛い。でも、目が覚めた。決意が固まる。

「ニアも、きてくれるかい?」

 もう一度ライトを二回……いや、一回点滅させた。

 よし、一緒に行こう。

 

 十一月二日(月)午前四時

 

 人生の分岐点だ。

 長いニアとの対話を終え、深夜の廊下を進む。静かな旅館に、車椅子の音だけが響く。

 凛の部屋の前で止まり、ドアをノックする。音がやけに大きく響く。

 返事がない。

 もう一度、ノック。少し強く。

「凛、入るよ」

 返事を待たずに、ドアを開けて中に入る。

 静寂。暗い部屋の隅で、凛はうずくまり泣いていた。大きな身体を小さく、小さくして。

 ――あの凛が。

 足元に装具が片方だけ外れて転がっている。

 車椅子を静かに寄せる。

 三メートル手前。凛の肩が、びくりと震える。

「あのね……まだ、許せてない」

 凛が身体を縮める。それでもレバーをゆっくり前に倒す。

 あと二メートル。

「だけど、許せるようになりたいと思ってる」

 一メートル。さらに近づく。

「時間がかかるかもしれない。すぐには無理かもしれない」

 残り五十センチ。凛の歯がカタカタ鳴っているのに気づいた。知っている凛とは違う。

「俺は……自分が許せない」

 か細い声が聞こえ、凛の手に触れる、わずか十センチの距離で止めた。

「……ずっと人を騙し、人前でお漏らしする人間なんて……誰も愛してもらえない」

 消え去りそうな声で。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 凛は何度も謝罪を繰り返す。壊れかけの玩具のように。

 思いとどまってしまう。

 次の一言で、完全に壊れてしまうかもしれない。

 そう思うと、指先の熱が急激に失われていく。

 あんなに、伝えると誓ったのに。 

 ――そのときだった。

 ひじ掛けの下で、車椅子が小さく『カクン』と動いた。

 ブレーキを緩めてはいないはずなのに。

 前輪が、ほんの三センチ前へ傾いた。背中を押すように。

 ニアからは音も言葉もない。ただ、アームレストが蛍のように瞬いているだけ。

 弱々しく、でも確かに光っている。

 勘違いかもしれない。でも、確かに伝わった。

  

 『行け――』と。

 

 気づけば声を上げていた。

「いるよ」

 凛の震えが、ぴたりと止まる。時間が止まったように静かに。

「いるよ、ここにいる」

 喉が締まる。息を吸う。深く、深く。

「僕だ」

 凛の怯えた目が、こちらを向く。

「僕が」

 でも、希望を探している目。

「好きなんだよ――」

 これ以上ないほど単純で、これ以上ないほど重たい言葉。

「凛が壊れてても」

 視線は凛へ。まっすぐ凛へ。

「泣いてても」

 息を吸い叫ぶ。部屋中に響くように。

「漏らしてても、関係ない!」

 声が割れた。でも止まらない。

「そんなの、僕の気持ちには関係ないから!」

「僕は、凛が好きだよ! 今も、ずっと!」

 その言葉が、部屋中に響く。いつの間にかベッドと車椅子の間を詰め、触れるか触れないかの距離。

 凛は動かなくなった。ただ、側にあった枕を強く握りしめている。長い静寂。時間が、止まったみたい。

 やがて、ポツリと凛が呟く。

「嘘だ。それは……嘘だ」

 凛は崩れた顔を、こちらに向ける。涙でぐしゃぐしゃの顔。

「だって……彩人は俺たちのせいで、そんな体になったのに」

 しゃくりあげながら、途中で言葉を止めながら話す。

「許せるはずないだろ。好きになれるはずない」

 首を横に振った。力強く。

「そんなことない」

 凛が声を振り絞る。

「だって、俺……怖かった」

 小さな声。子どもみたいな声。

「事故のことを打ち明けたら」

 真っ直ぐな、視線が揺れている。

「絶対に嫌われるって思ってた」

 綺麗な口元が大きく歪む。

「彩人に近づく資格なんて、本当はなかったのにな」

 僕は躊躇わず手を伸ばした。震える手で。

 そして凛の手の甲に指先を置くと、封じていた事故の日のことを語り始めた。

「あの事故は――凛のお爺さんのせいだけじゃないと思う」

 凛は涙を拭い、驚いた顔でこちらを見る。

「あの日、好きな本が手に入り浮かれていた」

 初めて口にする。誰にも言わなかった真実。

「早く帰りたいと自転車のスピードを上げてしまった」

 警察にも、母にも内緒にしていた。自分が悪くなるのが怖くて。

「もし、もっと慎重に運転していたら防げていた事故だった」

 目から、一筋の線が勝手に頬を伝う。

「だから、僕も悪いんだ……ごめんなさい」

「そんな……そうだとしても、()いたことには変わりはない」

「いや、あるよ……もっと早く言えば、凛をここまで苦しめることはなかった」

 凛は手で顔を覆い鼻をすする。

「ねえ、凛。どうして僕に近づいたの?」

 ゆっくりと質問する。

「最初は……彩人が轢かれた人だなんて気づかなかった……」

 手の甲で涙を拭い凛は答える。

「でも、リハビリ室で名前を聞いて、ハッとした。祖父が話していた名前と同じで」

 言葉が一つずつ紡がれていく。

「見てるうちに気づいたんだ」

 声のトーンが、ほんのわずか上がる。

「彩人は、誰よりも寂しそうだったってことに」

 けれどすぐ、トーンが落ちる。

「それでも笑って、俺に手を差し伸べてくれた」

 こちらを見ながら。

「俺の周りは金のことばかり。嘘偽りの世界で暮らしだった」

 時々、苦しそうに。

「でも、リハビリでケンカした後に気付いたんだ」

 凛は言葉を選ぶように続けて話す。

「彩人は、他の奴とは違う。欲のためではなく、俺個人に興味を持って付き合ってくれる初めての人間」

 少しだけ温かい声に。

「その無邪気さ、純真さに惹かれた」

 なのに、上げた顔を伏せ、また、声が途切れていく。

「事故のことも隠してる、こんな俺に、優しくしてくれて……だから、どんどん、どんどんと」

 ここまできて、凛は目を伏せ、声も掠れて消えていくように黙った。

 レバーを、もう一度軽く前に倒す。ゆるい傾斜を転がるビー玉のように、車椅子が少しだけ前へ、そっと動く。音もなく。そして、もう一度、凛の指に重ねた。

「それでいいと思う、僕もそうだった」

 凛の手を再び握る。さっきより強く。温もりを確かめるように。

「誰かに必要とされたいって、ずっと思ってた」

 見て。

「誰かを好きになっちゃいけないって、思ってた」

 見て、凛。

「でも、凛と出会って、変わったんだ」

 こっちを見て、凛。

「僕も、君と同じ」

 凛の顔がスッと上がる。

「ずっと、誰かに『必要』って言ってほしかった。それが――、凛なんだよ」

 その一言が凛の心の堰を切った。

 ぽろぽろと、堰が切れたように止まらない。声にならないおえつ。それは悲しみだけのせいじゃない。

「バカだよ、彩人」

 凛は、掴んだ枕を胸にぶつけてくる。力のない、でも、温もりのこもった動作で。

「バカだ、バカだ」

「いいよ。もっと、ぶつけても」

 優しく言う。

「大バカやろうだ」

 そう言いながら、凛は枕を抱きしめ、顔を埋める。子どものように。

 バカ――凛はもう一度呟く。とても小さい声で最大の愛情表現のように。

 濡れたパンツ。震える肩。腫れた瞼。すべてが壊れかけているのに、部屋の中には、たしかな温もりがあった。

 痛みも、悲しみも、まだそこにある。でも、それ以上に、愛があった。

「少し泣く」

 そう言うと、凛は声をあげて泣き出した。子どものように。我慢していたものを、すべて吐き出すように。

 今は、そっとしてあげたい。遅れてきた武者震いを隠すように、ひじ掛けの下のハンドリムに手をかけた。手が震えている。でも、やり遂げた。

 ニアは小さく光で応える。小さな光。けれど確かな光。

「ありがとう。背中を押してくれて」

 ニアに語りかける。

 あの一歩は、一人じゃ踏み出せなかった。ニアは今日、本当の〝足〟になった。

 

 

 静かになった部屋で凛が呟く。

「俺、シャワー浴びたい」

 声が少しだけ落ち着いている。

「手伝うよ。僕の手、貸すから」

 自然に言う。

「いいよ」

 照れるように小さく笑った凛の頬には、涙の線が固まって残っている。その笑みは、どこかあどけなくて、そして、ようやく少しだけ、こわばりの取れた表情だった。

 凛は足元に転がっていた装具を拾い上げ、慣れた手つきで()め直した。

「じゃあ、先に入ってくる」

 バスルームの扉が閉まると、再び静寂が訪れた。シャワーの音が、遠くで聞こえる。

 ニアを操作しベッドへ近づいた。濡れたシーツの端を摘んで、丸めるように抱え込む。ニアもアームを使い、ランドリーバスケットに放り込む。

 二人の――いや、人間とAI車椅子の共同作業。

 次に、凛の濡れたパジャマをビニール袋に入れ、代わりに浴衣を一枚選び出す。袖にしわが寄らないよう丁寧にベッドの上に広げて完成。意識を別のことにそらし、少し気が紛れた。

 窓の向こうは雲の切れ間から弱い朝日が覗く。夜が明ける。新しい一日が始まる。

「もう朝か。見たかったな……花火」

 窓辺に寄って開閉ボタンを押す。窓が少しだけ開き、冷たく湿った風が入って、室内の古い空気を押し出していく。

 深呼吸。新鮮な空気が、肺に入る。新しい空気。新しい始まり。

「もしかしたら、今日、花火するかもよ」

 背後で声がした。外を見ながら、凛が濡れた髪をタオルで拭いて慎重に歩いている。さっぱりした顔。

「本当に? ニア、調べてみて」

 ニアはライトを一回点灯させる。スピーカーから、『何度も雨のために延期になった花火大会が再開されます』という声が流れた。

 凛の腰の高さでハイタッチする。手のひらが、触れ合う。温かい。

「ねえ、凛。花火の前にご飯食べて眠ろう」

「そうしよう、俺たち何も食べてなかったな」

 そういえば、昨日の夕食から何も食べていない。談話室で朝食を食べた。

 青空というほど明るくはないけれど、夜の黒さはもう残っていない。曇り空。でも、雨は上がった。

 部屋に戻る。洗われたみたいに静かな、乾き切る前の淡い空色を眺め、二人は一緒に眠ることにした。

 疲れていた。心も、体も。でも、心地よい疲れだった。

 

 十一月二日(月)午後六時五十分

 

 夕刻、二人は窓側のサンルームにいた。

 ニアのスピーカーからざわめきが聞こえる。浴衣のすれる音。子どもたちの笑い声。途切れ途切れで流れてくる。花火大会の会場の音。

『試験花火も終わり、まもなく花火大会が始まりまーす。さあ、みんな、一緒にカウントダウンの準備をしてねー』

 背中にじわりと汗がにじんでいた。湿った前髪が額に張りついている。

 格子柄のシンプルな着物を着て下肢装具の足を慎重に前に運ぶ凛。そして隣まで来て縁側の腰掛けに座った。

 後頭部にざっくりと髪をまとめ、小さめのだんご髪から、毛先をつまみ出したような無造作感がいい。

 あらためて思う、凛は飛び抜けて素敵だと。どんな姿でも、美しい。

 ほんの少し肩が触れ、静かに口を開く。

「ほんとはね……僕、今年の花火、行けるか不安だった」

「どうして?」

 凛が、優しく聞く。

「もっと動けないと思ってたから」

 正直に答える。

 凛は首を振り、ニアのひじ掛け越しに手をついて、ハンカチで額を拭いてくれた。優しい手つき。丁寧な動作。

「来年、もう一度見に来よう」

「うん。僕と凛、それにニアも一緒に」

 小さな声で確かに答える。来年。未来の話。一緒の未来。涙をこらえるように唇をきゅっと引き結ぶ。

 西の空に焼け残りのような橙色が細く残っていた。あれが消えたら花火が打ち上がる。

 花火の上がる前に思い出が浮かぶ。

 病室で差し出されたペットボトル。無愛想で頼もしくて、憎めない声のする車椅子。リハビリのたびに、そっと背中を支えてくれた、療法士さんたち。心配しながらも、信じて見守ってくれた、両親。あたたかなまなざし。

 すべてが、この瞬間のためにあった。

 空の青が一段と深くなっていくが、呼吸が、いつもより深かった。嵐の後の静けさ。

「ニア、もう一度中継を受信して」

 ニアはライトを二回点滅させ、スピーカーから、陽気なMCの弾んだ声が聞こえる。

『それじゃあ、みんな準備はいいかなー! カウントダウンいくよー、せーの!』

「10」

 思い切り声を出した。大きな声。遠慮のない声。

「えっ!?」

 凛が驚く。目を丸くする。

「カウント。凛も言って!」

「あ、ああ……じゃあ、次から」

 深く、息を吸う。

「9」

 ラジオから微かに聞こえる、子どもたちの声と一緒に。遠くの会場と繋がっている。

 大きな口を開けて、声を出した。花火に届けと。

「8」

 凛も負けずに、大きな声で応える。吐き出すように。

 二人の声が、重なる。

「7」

 バカみたいに、大きな声で叫ぶ。恥も何も、捨てて。こんなに大きな声を出したのは、いつぶりだろう。

「6」

 そっと、凛の手に触れる。指先に小さく震えるぬくもり。

 凛も手を握り返す。あの日、リハビリ室で並んだ車椅子。

「5」

 真っ直ぐに見つめてくれた視線。思い出が胸の奥で灯っていく。

 凛の足元で装具が軋む。その音が「ここにいる」と伝えてくる。

「4」

 声が、気持ちが重なる。過去の孤独が、少しずつ薄れていく。

 ニアが、そっと動く。

「3」

 言葉、笑顔、車椅子の上で泣いた夜。喧嘩も、痛みも。

「2」

 全てが今へとつながっている。

「1」

 凛の手が頬をそっと包んだ。温かい手。大きな手で――。

「ゼローーーっ!!」

 夜空に花火が打ち上がり続ける。空も、海も、地上の光があたる全てを染めていく。

 赤、青、緑、金、銀。色とりどりの光が、世界を照らす。

 その中の一つに紛れ、引き寄せられるように、お互いの目がすぐそこに。

 

 そして――。

 七センチの距離が消えた。

 

 唇が触れ合う。

 その瞬間、世界から全ての音が消えた。

 ただ、凛の息遣いだけが聞こえる。柔らかくて、温かく、震えていた。

 目を閉じる。凛の手が、頬を包んでいる。その熱が、じんわりと奥まで沁みていく。

 心臓が跳ねだした。凛の胸に触れた手から、同じリズムが伝わってくる。

 

 そして――。

 世界が、再び音を取り戻した。

 

 花火が次々と夜空に色をつける。

 光が降り注ぐたび、凛の黒髪、頬、ニアのフレームまで色が変わる。世界が色づいている。

 名残を残すように唇が離れた。けれど距離はほとんど変わらない。額は触れ合ったまま。

「彩人が好きだ」

 今度は凛から。至近距離ではっきりと。けれど今度は違う。涙じゃない。笑っていた。

「僕も同じ」

 涙と笑顔が混ざり合う。涙をこらえきれなくなった。

「同じって――ずるいな」

 凛が笑う。

「僕は凛と同じで、少しずるい」

 笑う。

 凛は額を肩に軽く押し当てた。花火の音に混じり問いかける。

「まだ、俺のこと許せてないんだよな?」

「うん」

 正直に答えた。もう嘘はつかない。

「そっか……」

 ぎこちなく笑う凛。でも、その笑顔は前より明るい。

「だよな。これから許してもらえるように、頑張るよ」

 凛の声が、真剣になる。

「俺、彩人に許してほしいんだ。本当に」

「時間、かかっても?」

 凛は即答した。

「いいよ。何年でも、何十年でも」

「そんなにかからないと思うけど……うん」

 小さく笑う。

「だって――」

 そう言うと凛を抱きしめた。できる限り強く。

「もう、嫌いにはなれないから」

 凛が耳元ですすり泣いている。あんなに枯れるほど泣いたはずなのに――だから——つられて泣きだした。

 花火は続く。空を見上げ。手を握り。一本一本、指を交差し絡み合う。

 ニアのライトが、静かに灯っている。祝福するように。

 ――ありがとう。

 誰に向けて言うでもなく、とにかく感謝したくなった。

 花火の音が再び響く。凛が隣にいる。ニアが側にいる。

 だけど、不安も――ある。身体のこと。同性愛のこと。

 けれど、今この瞬間は確かにここにある。

 花火が最後の大輪を咲かせた。夜空いっぱいに広がり、ゆっくりと消えていく光。

 その下で、二人はずっと手を繋いでいた。動かない足。しかし、心は走り出している。

 月明かりを浴びた部屋は、流れた雲にそっと隠されていく。

 未来も、こんなふうに良い悪いを繰り返し、物語は続いていくのだろう。

 明日も、その先も。少しの隙間を抱えながら一緒に。

 七センチの隙間は、もうない。

 でも、新しい隙間はきっとまた生まれる。

 そして、また埋めていく。何度でも。

 

 

<Observation Log #180 / Day +2 - 21:47>

 重要イベント記録:相互告白完了。

 オーナー(文月彩人):心拍数高値安定。

 対象者(柿椿凛):同様の生体反応。

 表情解析:両者とも高い感情的充足を示す。

 記録終了。システム、スタンバイモードへ移行。

 ――ワタシにできることは、ここまで。あとは二人で歩いていける。

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