第五部「零日、旅立ちの日」
十一月一日(日)
改札を抜けると風が肌に触れた。午後だからか光が温かい。
空気が違う。病院とは違う、外の空気。自由な空気。
「よし、改札口から外へ」
『了解です。アヤトさん、少し緊張されていますね』
「まあね。半年ぶりだから」
ニアに乗って外へ出た。久しぶりの外出。人の多さ、音の多さ、匂いの多さ。目も耳も鼻も、一斉に叩かれているようで、足元がぐらつく。
待ち合わせ場所でスマホを見ると、凛からメッセージが届いていた。
「ごめん。事故で電車が遅れている」
すぐに〝ドンマイ〟のスタンプを押した。仕方がない、待つだけだ。
駅前の広場をぼんやり見渡す。噴水がある。ベンチに座っているカップル。走り回る子ども。
日常の風景のはずなのに、特別に映る。
さっきまでベンチにいたカップルも、走り回っていた子どもも、いつの間にかいない。噴水だけが、同じ音を立て続けている。
『アヤトさん、対象者を乗せた列車、まもなく到着します』
「え! どうやって知ったの!?」
『駅の無線と周辺センサーから受信しました。伊達に高級車並みの価格じゃありません』
「それ、自分で言う?」
こわばっていた口元が、ふっとゆるんだ。
ほんの数分後、駅の構内から小さなざわめきが聞こえた。
「ねえ、あの人見て」
「脚に装具つけてる。しかも、めっちゃイケメン」
目を向ける。黒髪をひとつに束ねた凛は、慌てず、確かな足取りで歩いている。
長身、整った顔立ち、堂々とした歩き方。装具ごと自分のものにしている足取りで、隠そうとする気配はどこにもない。
こっちに気づいた凛はパッと表情を変え、小さく手を上げた。その笑顔が太陽みたいに眩しい。
同じように手を振り返した。鼓動が耳に響くほど速くなる。
「すごいよ凛、本当に歩けている!」
「へへ、驚いた? お互い頑張ったね。それより、遅れてごめん!」
「気にしないで、早く着いただけだから。久しぶりの外泊だから興奮しちゃって」
一時間前からここにいたなんて、言えるわけがない。
「俺もさ。彩人、リハビリお疲れ様」
ひどい言葉をぶつけたあの日がなかったように、凛は親しみのこもった笑顔を見せてくれる。
「お! ニアっち。待たせてごめん。元気していた?」
『元オーナー、こんにちは。〝元気〟という概念は搭載されていませんが、不具合もなく快適に稼働しています』
凛が肩をくっくっと震わす。おかしそうに笑うと、周囲から視線がちらちらと集まりはじめた。
だからなんだと、背筋を伸ばした。自分の力で、ここに来たのだから。
「彩人、今日の服、すごく似合っている」
先に褒められて、一気に耳たぶまで熱くなった。思わず視線をそらす。母に選んでもらった服。少し派手かなと思ったけど、凛が褒めてくれた。
「え、ありがと。凛も、モデルさんみたい」
「そうか?」
髪をかきあげ、凛は、まんざら悪くもなさそうな顔をする。
ドキドキしていると、ニアが水を差す。
『アヤトさん。ワタシも〝ヨイショ〟してください』
「はいはい。ニアも綺麗なフレームだね」
『よく言われますが、それほどでもありません』
素直に喜ぶニアの会話を凛が、からからと笑う。なんかいい感じだ。三人で旅行に来たみたい。
「じゃ、行こう。ニアっち、彩人をよろしく」
『自律走行モード、開始。周囲の歩行者密度から最適経路を算出します』
しばらく進むと、風が頬を刺し始めた。秋の風。もうすぐ冬だ。
「ちょっと寒くなってきたね」
『外気温低下のため、ヒートシーターを作動させます』
背中がじわじわ温かい。技術の進歩は、すごい。
『おしゃれ優先による判断ミスは記録しました』
「ニア、さっきから一言多い。旅館に着くまで黙ってて」
強めの口調で禁止を伝える。
『了解です』
少し言いすぎたかな。左胸がちくりと痛む。ニアには、いつも助けられているのに。
「ほらほら、ケンカしない。俺のも貸すよ」
凛はリュックからブランケットを取り出し、膝にかけてくれた。柔らかい。凛の匂いがする。
「ありがとう……凛。ほんと言うと寒かった。ごめんニア。きみの言う通り、自分のミスを棚に上げて」
ニアは何も言わず、ライトを一回点滅させた。
「やっぱり、彩人の素直なところ、すごいなって思う」
「そうかな」
苦笑した。言わずにいられなかっただけだから。それよりも凛の気配りがヒートシーターよりもずっと温かい。
そっと凛を見上げる。白い肌。長いまつげ。リンゴみたいな唇。秋の光が横顔を照らしていた。
胸の芯が、じわりと疼いた。
できるなら――自分だけのものにしたい。
「どうしたの彩人、顔赤いけど平気?」
急に凛の顔が近づく。近い。近すぎる。
「ヒ……ヒートシーターのせいだよ」
背もたれに身体を預けた。心臓がいつでも全力で駆け出そうと準備をしているようだ。
気を取り直してしばらく進むと、和風旅館の屋根が見えた。それと同時に、ニアがほんの少し速度を落とす。凛の足取りに合わせるように。
――本当に優しいAIだ。
*
「着いたよ。ここが泊まる旅館」
目の前に現れた建物を見て、言葉を失った。
伝統的な日本家屋。格子戸に丸い瓦屋根、控えめなたたずまい。玄関脇には、AI搭載のチェックイン端末が静かに光を放っている。和と最先端が違和感なく融合していた。
「うわあ」
段差という段差が見当たらない。スロープが自然に配置され、床は平ら。車椅子のことを考えて設計されている。
「凛の両親、倫理観はない人だけど、やっていることはすごいね」
少し間を置いて、凛は肩を揺らして、せき込むほど笑った。
「ごめん。本音が出た」
顔を赤くして謝った。
「ははは、ああおかしい。彩人の忖度しないところ、いいね」
お互いが下手に出て気遣うことがない二人は、目を合わせて、もう一度笑い合った。自然と口元がゆるむ。
チェックインを済ませ、玄関を抜ける。静寂そのものの廊下が続く。畳と木の匂いが鼻をくすぐる。
「恥ずかしいから、父に連絡して、今日は部屋の記録をオフにしてもらってくる。そのまま待っていて」
装具とは思えない足取りで、ロビーの奥へ進む凛。その背中は、すぐに見えなくなった。
『参りました。沈黙しばりつらかったです』
沈黙を乗り越えたかのようなニアのつぶやき。そういえば、もう旅館に着いている。
『どうでした、久しぶりの〝推しとの再会〟? 心拍数、今朝の三倍でしたよ』
「ちょっとニア! 誰かに聞かれたら」
周りを見るが、誰もいない。静かな旅館。二人だけの空間。
『大丈夫です。誰かが近づいたら〝真面目AI〟モードに自動復帰します』
「ここにスタッフはいないの?」
『離れの建物に常時、人がいます。基本、呼び出しがあるまでは来ません』
ほっとする。今日は、凛と二人きりでいたかった。
プライベートな時間。特別な時間。
「彩人、こっちに来て」
凛が奥から声を上げた。ニアが静かに動き出す。
「さあ、まずは彩人からこの部屋に入って」
促されるまま進むと、木造のドアが左右に自動で開いた。
広い空間にキングサイズのベッドが一台。車椅子用のテーブル。窓側にサンルーム。どのドアも車椅子が楽に通れる幅だ。
とにかく余計なものは何一つない。シンプルで洗練されている。
テーブルの上に、小さな一輪挿し。秋の野花が、まだ茎の切り口に水滴をつけていた。誰かが、つい先ほど活けたのだろう。
後ろから声がした。
「何もないと思ったろ? 実はこの部屋には、介護もいらず、一人でも入れる露天風呂があるんだぜ」
「露天風呂を一人で!?」
思わず声が出た。入院してから、ずっとシャワーだけだった。もう一度湯船に浸かりたかった。
「さらに!」
凛は窓際のサンルームを指す。外には真っ青な海が見える。水平線が、遠くまで続いている。
「この部屋は花火が見える特別室だ!」
「ええー!?」
口を閉じるのを忘れていた。
「海岸まで行くんだと思っていた」
「小さい花火大会だけど、砂浜は俺たちには少し厳しいよな」
言われてみれば、確かにそうだ。人混みの中を、二人で進むのは容易ではない。車椅子で砂浜は、ほぼ不可能だ。
姿勢をただして、凛に頭を下げた。
「ありがとう。こんなに贅沢させてもらって。何か出来ることがあったら言って」
「何言っているの。ちゃんとレポート書いてくれたらいいって」
「それでも、嬉しいんだ」
この部屋、この景色、この時間。すべてが、夢のようだ。
「ばかだな。そういうところだけ、真面目なんだから」
「そういうところ〝だけ〟だって」
「うそうそ、ごめんって」
すがすがしく笑って逃げながら凛は話を続ける。
「あと、もし、いびきや歯軋り、寝言に寝相がひどかったら隣の部屋も空いてるから」
一人のために――夢のような時間。もう一度、部屋を見渡す。
ここにいる自分は、手間のかかる客じゃない。
特別扱いされる患者じゃない。
ただの、旅行客。
そう思えるだけで、視界がにじんだ。
*
お昼ご飯を食べ、のんびりしていた。美味しい食事、海の幸に地元の味。
「花火まで時間あるから、彩人の小説をDPで体験しようか」
凛が前置きもなく、突拍子もないことを言い出したが、お詫びだから仕方ない。
手を震わせながら、貴重品ボックスを取り上げ手渡した。
小さくて、軽い。この中には、口で伝えたい思いが入っている。自分の気持ち。隠してきた気持ち。
クレイドルの間には机と、リハビリで見た黒いスーツケースほどの装置。凛はメモ帳一式をサイドテーブルに置き、USBをコネクタに差し込んだ。
本体の大きさに比べて小さな読み込み音がしている。
「リハビリの時とほとんど一緒だよ。ただ、全自動じゃないってところだけ」
「DPって医療免許とかいるんじゃないの?」
「いるよ、でも映画など鑑賞用のはいらない。風邪薬でも医師の処方箋がなくても購入できるものがあるだろ? 医療用と違い、脳へのリスクが低いから問題ないんだよ。さあ、クレイドルに座って」
「なるほど、だから病院とはクレイドルの形が違うのか」
車椅子からゆっくり乗り換えをしながら凛に問う。
「ねえ、凛。クレイドルってゆりかごって意味なんでしょ。なんでそんな名前に?」
「ゆりかごは、赤子が乗るもの。つまり再学習・再誕という意味だよ」
「なるほど、そうなんだ」
生まれ変わる――新しい自分になる。
「もう一度簡単に言うと、DPは脳に〝動いたと処理した経験〟を学習させる機械」
凛は丁寧に説明する。
「病院のはリハビリ用に開発されたんだけど、こっちは〝VRより深く、夢より自由に〟をテーマに将来的に映画や小説の世界にも入れるようエンターテイメント用に設計してあるのさ」
「リハビリで使用しているのとは違うのか。少し怖いかも……」
声が、いつもより小さくなる。凛が即答した。真剣な顔で。
「何も変わらない……けど、変えたければ、そこでは変えられる」
握りしめていた手がゆるんだ。変えられる。自分を、変えられる。
配線の準備も終わり、二人はクレイドルに横たわる。
「そうそう、言い忘れてた。リハビリの時のような単純な風景でなくなるため、小説内の仮想空間に入る間、ニアのメインサーバーを借りることになる」
凛は、配線を確認しながら話す。
「その反動でニアは最低半日は、話せなくなる。その後の移動はレバーによる手動運転になるからね」
ニアの側面に撫でるように手を添えた。冷たい金属なのに、初めて触れた時のように温かく感じる。
「ニア、しばらく休んでていいからね」
小さく『ピッ』。ライトが一回点滅する。ニアが返事を投げ返す。
『アヤトさん、正念場です。ファイト』
凛が手を組んで伸びをする。
「ニアっち、システム起動お願い」
『了解です。データ解析後、二分以内に転送を開始します』
光が強くなる。やがて、視界が白く染まっていった。
*
ゆっくりと目を開く。
よく知っている町並みが目の前に広がっている。風が肌に触れた。空気の温度を感じる。木々のざわめき。遠くの車の音。すべてが現実と同じ。いや、現実以上にリアル。
手を見下ろす。細く骨ばった少年の手。これがエンタメのDP。
指を動かす。ゆっくりだが少し動く。足裏にも固いアスファルトの感触がある。ただ、少し鈍い。
これが病院用との差なんだろう。それでも動かない足の感覚がする。思わず息を止めた。
「慌てない。リラックスして彩人」
穏やかな少年の声。振り向くと凛。いや、イメージした〝凛央〟が立っている。
「うまくダイブできたみたいね」
凛央が、さらりと言う。
「凛なの?」
「うん。彩人も姿、変わっているよ」
自分の顔を触る。いつもと違う。手も大きい。自分も既に叶人になっていた。
「さあ、始めよう! ニアっち、観賞用モード起動」
また視界が白くかすむ。足元が浮き、重力が遠のく。
霧のような空間がほどけ、色が差し、輪郭が現れはじめた。黒い道。両脇の屋台。提灯の揺れ。目の前に早送りのように町が建っていく。書いた世界が広がる。
祭りの通り。人物の配置。光の角度。空気のざわめき。すべてが文章で書いた通りに、そこにある。
「すごっ!」
声が漏れた。目に熱いきらめきが入る。
屋台の焼きそばがジュウッと音を立てた。ソースの匂い。綿菓子の機械がくるくる回る。甘い匂い。子どもたちが金魚すくいに夢中。水の音。カップルが手をつないで笑う。幸せそうな笑い声。
身体はうまく動かないが、かわりに魔法のような新たな感覚。胸がはちきれそうになる。
ふいに、夜空に一発の花火が咲いた。
そうだ、行かないと――。
気づいたとき、叶人になった身体が動いていた。にぎわいを背に図書館へ。誰よりも会いたい人に。
頭の中に――声が流れ始めた。
ナレーション。
まるで、主観で観る映画のような、不思議な感覚。
視界の中央に、文字が浮かび上がる。
『偽物から花火へ』
金色の文字のタイトルロゴが、ゆっくりと消えていく。
*
夏の夜空に、花火が咲き始めた頃。道路の両端に並ぶ屋台。浴衣姿の家族や友人たち。手をつなぐ恋人たち。
その横を――叶人はただ一人、花火大会とは逆の方向へ駆けていく。
図書館前。そこに、凛央がいた。周りには誰もいない。一人で夜空を見上げている。
「凛央」
「叶人、来てくれたんだな」
叶人は隣のベンチに座る。七センチの隙間を空けて。
彼はわかっていた。凛央は亡くなった幼なじみ、華を想ってここにいることを。
出会った時から凛央が好きだった叶人。ずっと、言えなかった気持ちを抱えている。
華、凛央、そして叶人は幼なじみ。いつも三人で一緒だった。華は、誰からも好かれていた。
六歳のとき。凛央は華のためにシロツメクサで花冠を作った。照れ隠しに、叶人の分も作ってくれた。
――でも。
叶人は、あとでこっそり花冠の花を減らした。華より少なく。凛央と叶人の花冠だけが、同じ数になるように。
――ずるいよな、僕は。
中学卒業間近。華が病気で入院。
「今年の花火大会で、なんでも奢ってやるから、元気出せ。図書館前、待ち合わせな」
それが、最後の約束だった。
――叶人は花冠をもらったあの日から、凛央を少しずつ意識しはじめて。いつの間にか、好きになっていた。
凛央は親友の華を気にしていると思って、優しく励ましてくれる。こんなにも優しい人を叶人は騙している。
「叶人、ありがとうな。ここに来てくれて」
凛央が言う。叶人は服の裾を強く握りしめる。
ずるい人間だとは自覚していた。これからも、自分の気持ちに気づかないふりをして、ただの親友を演じ続けようとしている。
それは叶わない恋。人とは違う恋だとわかってる。本音を言えば、終わってしまう。だから言わない。
でも、もし、花火に想いをはせている人たちのように、花火に願いを叶える力があるならば。
叶人は願う。凛央の〝そば〟に、ずっといられますように。
叶人は願う。何度でも演じます。この痛みにも、耐えてみせます。
叶人は願う。どうか。この先も〝ニセモノ〟でいられますように、と――。
視界が、白くかすむ。
叶人の姿が、薄れていく。
凛央の姿も、消えていく。
花火の音が、遠ざかる。
右下に、文字が浮かぶ。
『END』
*
DPの中で目を開けた。身体がわずかに震えている。隣を見ると、凛の肩がわずかに震えていた。
「たった数分であんな映画みたいな映像ができるなんて――」
声が上ずる。凛も、無言で頷いている。
叶人が凛央に伝えられなかった言葉たち。あれは、本音。〝彼〟は、自分自身だった。
凛はどう感じたんだろう。目を手元に落とす。
あの世界は〝仮想〟だった。けれど、〝真実〟だった。
性別も、姿も、現実さえも飛び越えた場所に、〝本当の自分〟が立っていた。
凛が起き上がる。僕も身体を起こし、ニアに手をかけた。
拳をぎゅっと握る。きっと大丈夫だと、力を込めて。
小説の中では願った。〝このままニセモノでいられますように〟って。
でも今は、ほんの少しだけ、〝ホンモノ〟に近づきたい。
小説の批評に身構えていたが、凛の第一声は予想とは違った。
「喉が渇いたね、ちょっと飲みに行こうか」
何も言わず、並んで進んだ。談話室に着く。車椅子用のテーブル。見たこともない長いソファー。観葉植物。高そうな絵画。誰もいない、静かな空間に車椅子と装具の音だけが響く。
凛がカップに柚子茶を注ぐ。爽やかで、少し甘い香りが広がった。
「ここの柚子茶、名物らしいよ。飲もう」
車椅子を寄せて向かい合い、カップに口をつけた。温かい陶器の感触が、まだかすかに震える指先から、現実を取り戻させていく。乾いた喉を、柚子茶がじんわりと染み込んでいく。
もう夕暮れが近い。窓の外の空が、オレンジ色に染まり始めている。




