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七センチの隙間を越えて  作者: 琵琶こと
5/8

第四部「決意の日」

 九月五日(火)

 

 入院から九十日が経過した。数字にすれば、たった三ヶ月。なのに体感では永遠に近い。

「文月さん、今日から新しいリハビリを試してみましょう」

「新しいリハビリ……?」

 渡辺さんとエレベーターに乗ると、新設された建物にある部屋に案内された。

 エレベーターの中は消毒液の匂いが濃い。上昇する感覚が、少しだけ胃を圧迫する。

「そのリハビリは、どんなことするの? 痛い?」

「痛みについては、人によって。なんとも言えない。先生や患者さんに聞くと、痛みはほぼ感じないって言っている」

 渡辺さんは義手で、エレベーターのボタンを押す。

「今から向かう場所は、脳に〝未来の記憶〟を後押しする場所かな」

「何それ、よくわかんないな」

「体験すれば、わかるよ。説明聞いて嫌なら断ってもいいんだし」

「えっ!? 断っていいの」

 限られた患者だけが入れる特別区画に移動して、渡辺さんはカードキーを使用して入室する。

「私は部外者なので、ここで。こわがらなくても大丈夫ですよ」

「怖がってないし!」

 からかうような渡辺さんを背にして、車椅子を動かした。

 部屋の中は、十二畳ほど。天井がやや低く、少しだけ圧迫感がある。

 上映前の映画館のように薄暗い。足元だけ、淡い青白い光が導線のように一本伸びている。

 その光を辿ると、マッサージチェアに似たイスがあり、隣には黒いスーツケースほどの機械が、空間の中心に据えられていた。

 突然、機械の後ろから銀縁のメガネをした男性が顔を出して、すぐに会釈した。

DP(ディーピー)担当の坂上(さかがみ)と言います。文月彩人さんですね。どうぞよろしくお願いします」

 担当者は背が高く、痩せていた。白衣が身体に合っていないのか、動くたびに少しズレる。

 メガネの奥の目は、患者を見慣れた柔らかさがあった。丁寧で落ち着いた声で説明を始める。

「ここでは仮想空間で、歩く感覚を体験させ、脳に歩くための指令を再び出せるようにする訓練をする場所になります」

「そのディーピーというのを使えば、僕の足も治る可能性があるんですか」

 前のめりになった。

「もちろん。必ず――とは言いませんが、治験の結果は出ています」

 坂上さんは、メガネを指で押し上げる。

「リハビリを続けた七割の方は、一年以内に、無意識な重心移動など、本人も気づかないレベルの反応を、現実のリハビリで拾い上げています」

 ――七割だって!? すごい高い確率だ。

 心臓が高鳴る。指先が、膝の上で小刻みに弾んでいる。

「残りの三割の方は、ディーピーを使用する前と後で、リハビリ拒否をされた方です。文月さんはどうされますか?」

「後に拒否? もしかして、すごく痛いからとか」

 坂上さんは首を横に振り答える。ゆっくりと、丁寧に。

「ディーピーは、脳に〝歩いた〟という記憶を上書きする機械です。仮想空間で歩く体験を繰り返すことで、脳が〝歩ける〟と学習し直す――そういう仕組みです」

「ただ、人によっては、〝過去を否定された〟と感じることもある。歩けなかった時間が、〝なかったこと〟になる感覚、と言えばいいでしょうか」

 少し、間を置いた。

「彼らはそれを治療ではなく、否定だと感じ、再びディーピーに近づくのを拒否されたのです」

 なぜだろう? 治るかもしれないのに。

 自分の膝を見下ろす。今はまだ、動かない足を。そして、動くようになるかもしれない足を。

「僕は、やりたいです」

 迷いなく答えた。

「承知しました。では、まずはサインを。その後、こちらに乗りかえていただきます」

 目の前にはマッサージチェアのようなイスがある。

「この上に乗ればいいですか?」

「はい。指定位置でボタンを押していただければ、後は自動で乗りかえます」

「すごい! アニメみたいで、カッコいい」

「機械に興味があるんですか?」

 別に深い意味はなかったが「はい」と答えると、坂上さんは嬉しそうに早口で話し出す。

「ほう、興味ありますか。正式には、DPC(ディーピーシー)と呼んでいます。DPは知覚システム。CはCradle(クレイドル)。つまり、ゆりかごという意味なんですよ」

「ゆりかご……?」

 もしかすると、揺られるのかなと考えつつ、使用承諾書にサインをした。

 クレイドルへの移動は言われた通り簡単だった。枠内でボタンを押すだけで、車椅子から身体だけをすくうように持ち上げられる。そのまま、クッションの上に下ろされると身体は自然と沈んでいく。柔らかい。まるで雲の上にいるような感触。

 同時にシールドが目の前に降りてきて、イスが自動で仰向けに倒れた。視界が遮られ、少しだけ不安になる。

「文月さん、ディーピーの起動を始めます。リラックスしてください」

 リラックスって言われても急には難しい。心臓が逆に速くなってしまう。

 突然、白い光が差し込んだ。まぶしくて、すぐに目を閉じる。

 再び目を開けると、そこはもう公園だった。

 青い空。緑の芝生。

 そして――足に|感覚が()()

「嘘だ……!」

 自分の足を見下ろす。動く。本当に動く。

 足の裏に地面の固さ。芝生の感触。少しチクチクする。

 膝を曲げると筋肉が動く。太ももに力が入る。ふくらはぎが収縮する。すべてが、久しぶりの感覚。

「歩いてみてください」

 坂上さんの声が、遠くから聞こえる。

 一歩。足が前に出る。地面を蹴る感覚。体重が移動する感覚。

 二歩。身体が進む。バランスを取る感覚。風が頬を撫でる。

「歩いてる、僕……歩いてる!」

 目が潤んで、視界がぼやける。でも、止まらない。歩き続ける。走りたい。跳びたい。この感覚を、ずっと忘れたくない。

「そろそろ戻りましょう」

 視界が白くなり、公園が端から順に消え始めた。同時に両足の感覚が、まるで夢から覚めるように遠のいていく。

 そして、クレイドルが最初の角度に戻った頃には、目の前の景色は消え、足が動かない現実に戻っていた。

「あの、あの……、い、今! 足に感覚が、それに動いたんです!」

 興奮していた。肩で息をしているのをなだめるように、坂上さんは笑顔で答える。穏やかで、こちらを安心させる笑顔。

「すごいですよね。ディーピーは、脳に確かに〝歩いた〟と記憶させ続けることで、実際にも動かせるようになっていく機械なんです」

 坂上さんは、機械を愛おしそうに撫でる。

「先入観なしで体験してもらうために、最初はあまり説明を深くせずに始めたことをお許しください」

 頷いて、自分の足を見つめた。

 立った感覚がまだ残っている。なのに足は動かない。その落差が、腹の底にずしりと落ちた。

 希望が先に来て、絶望が後から来る。三割の人が拒否した理由が、今ならわかる。

 でも僕は――、この感覚を現実にしたい。

 

 

<Observation Log #121 / Day -56>

 ディーピー初体験記録。

 オーナー(文月彩人):仮想空間内歩行体験。

 反応:良好。強い感動反応を確認。

 心拍数:通常時の1.6倍。涙腺反応:あり。

 ――技術は、人に夢を見せる。

 

 九月十六日(水)

 

 リハビリ期間が一ヶ月を切ったある午後。外は大雨だった。雨粒が窓ガラスを叩く。激しく、容赦なく。

 開けっ放しのドアの方から車椅子の音が聞こえた。誰が通るのかと見ていると、凛が慌てて部屋へ入ってきた。

「ちょっと、凛。髪が少し濡れている。まさか、外に出て雨に打たれてきたのか」

「そんなわけないだろ、誰かの窓の閉め忘れで、このザマさ」

 「ほら」と笑いながらタオルを差し出すと、凛は「サンキュ」と受け取り濡れた部分を拭う。

「なあ」凛は息を切らしたまま言う。「本当に二人で花火を見に行かない?」

「え? 僕たちが行ける場所なんて――」

 無理だと言わんばかりに首を横に振ると、凛は真似をするように指先を左右に振った。

「それを可能にする、AI車椅子がタダで手に入るとしたら、行く?」

 突拍子もないことを言う凛に「はいはい」と笑っていたが、顔は真面目だ。

 冗談を言っている顔じゃない。

「あんまり詳しくは言いたくないんだけど、親父のコネでね」

「コネって……凛の家ってそんなに?」 

 詳しく聞いてみると、凛の父親は、AI介護企業〝Minari(ミナリ)〟の創業者だという。

「えっ、ちょっと待って、ミナリ!?」

 すぐにスマホで検索した。テレビのCMで見たことのある社名が、画面に並ぶ。

「株式会社ミナリ。AIで支える介護の未来の……それが凛のお父さんってことは、凛、社長の息子だったの!? すごい!」

 思わず車椅子が前に動くほど身を乗り出した。

「あれ? でも、この人、名字が違う?」

 スマホの画面を見せながら言う。

「そうだね。俺は妾の子だから」

 凛の声が平坦だった。天気の話でもするように。その平坦さが、逆に重い。

「あ、そっか」

 驚いて気の利いた返しができなかった。何を言えばいいのか、わからない。

「本妻には三人子どもがいて、俺は四番目。でも戸籍上は認知されていない」

 凛は淡々と話す。目は窓の外を見ている。

「小学校の頃、クラスメイトに〝愛人の子〟ってバレて。それから母さんは俺を祖父に預けて離れて暮らしているんだ」

 凛は窓の方へ車椅子を動かしていく。雨が、さっきより激しく窓を叩いている。

「祖父は気難しい人だった。でも俺には優しかった。唯一、俺を〝家族〟として扱ってくれた人」

 凛は笑った。目が笑っていない。唇だけが、形だけの笑顔を作っている。

「母の代わりに、どっか行くのも祖父が連れて行ってくれた」

 凛の声は途切れ、雨粒が窓ガラスを滑り落ちていくのをずっと見つめている。大きな背中なのに、どこか頼りなく見えて、手を伸ばした。凛の手に、そっと重ねる。

 冷たい。少し震えている。

「ありがとう……大丈夫だよ、本当に」

 やっと向き直って、苦笑する凛。

 その笑顔は作り物だ。もう見分けがつくようになっていた。

「でね、今回、〝俺のために最新のAI車椅子と旅館を手配して〟って言ったら、あっさり通った」

 凛は次の言葉まで、ゆっくりと間を置いた。

 何かを言おうとして、唇が開きかける。すぐ、また閉じる。心臓が、せわしなく騒ぐ。

「あのさ――」

 なぜか凛は首を横に振った。

「いや、なんでもない。ただ――」

 そこで言葉が途切れた。凛の視線が揺れている。

 窓の外、こちら、また窓の外。落ち着かない目の動き。

 何か――言いたいことがあるのに言えないでいる。そう感じられた。

 重要なことなのに、今は言えないこと。

「なんだよ凛、もったいぶって」

「ごめん。約束する。花火のときに、ぜんぶ話す。それより車椅子を受け取ってくれ」

 ぜんぶ話すって何をだろう。胸に引っかかったが、今は車椅子に集中しよう。

 AI車椅子の値段をスマホで調べたがオープンプライスで、欲しい情報は出てこなかった。

 すぐにSNSで調べ直すと、高級車一台分と書かれた投稿を見つけた。

「マジ!? 無理だよこの値段、プレゼントには高価すぎるって!」

 あまりの価格に反射的に断った。

 画面を何度も見返す。ゼロの数を数え直す。でも、変わらない。

「そこは、心配しなくていい。もともと俺も使用していた車椅子だし、テストモニターとしてレポートを出してくれれば、父も喜ぶ」

「う、うーん」

 でも、そんな高価なもの――。

「じゃあ、前にお詫びがしたいって言ってたじゃん。それで決まり!」

 そう言われても、踏ん切りがつけられない。

「いや、まだ決まらないって」

「うんと言ってくれるまで、追加のお詫びを入れちゃうからな」

 凛の目が、いたずらっぽく光る。

「な、なんだって?」

「そうだな……花火の日に彩人の小説の中に入りたいから書いて」

「無理言うなよ、急に小説を書けって意味わかんないよ」

 予想外の要求に、目を丸くしながら抵抗する。

「リハビリ装置のディーピーあるだろ。あれ、本体の設定を少しいじると映画や小説体験機にもなるんだ」

「へえ、そんなことできるのか……って、なんで知ってるんだよ。もしかして凛は体験したことあるとか?」

「ああ、試作品でね。それより俺、彩人の小説の中に入ってみたいんだ。だから頼むよ」

 口が開いたまま、閉じられなかった。

「もちろん、すぐに書けるものでもないから過去の作品でもいいからな。題材は〝花火〟なんてどう?」

 次々に話を進める展開。また断れば追加される。観念したように深く息を吐き答えた。

「もう……わかった。超短編でもいいなら」

「おお、もちろん!」

 ほんの少しだけ、凛が嬉しそうな表情を見せて告げた。

「それは、きっと〝彩人のはじまり〟のための道具になるよ」

 低く響く声が、すとんと腹の底に落ちる。なんのことかわからなかったが、その言葉に、胸の奥が晴れていく。

 同じように窓の外の雨も、少しずつ弱くなっている。

 

 

<Observation Log #132 / Day -45>

 柿椿凛に対する、お詫びの確約。

 オーナー(文月彩人):旅行計画約束。超短編の執筆約束。

 反応:強い感情的反応。

 心拍数:通常の1.4倍。

【重要事項】柿椿凛仕様の車椅子からの通信記録:対象者・柿椿凛(データ受信)

時間:22:33〜23:03 場所:凛の病室

・窓の外を長時間注視

・スマホを強く握る(震え小)

・事故記事を再読(同じ行に視線固定が数回)

・記事を閉じたあと、胸元にスマホを当てる動作

・小声の発声あり(解析不能/謝罪語形の可能性)

・呼吸がやや早い

・目に光反射(涙の滞留のみ)

・花火大会のページを閲覧→開催日・同行者設定ボタン付近に視線集中

・深呼吸を五回

・手を膝の上で強く組む

・最後に窓外を再確認して静止

・そのままベッドへ横になる

 備考:行動のみを記録。事故記事に再注目が見られる。

 ――二人の秘密を保持。ワタシは見守る。

 

 九月十七日(木)

 

 翌朝、目覚めると窓の外はまだ暗かった。

 時計を見る。午前五時。いつもより早い。

 ベッド脇の車椅子が、いつの間にか新しく変わっていた。

 光沢のあるブラックボディ。流線型のシルエット。大きなタイヤには見覚えがある。

 何かが違う。フレームの線が、前のより細くて鋭い。

 パイプを握って身体を起こした瞬間、車椅子が自ら動き、手前で止まった。パネルが淡く光る。

『はじめまして、アヤトさん。ワタシは、ニア。あなた専属のアシスタントモビリティユニットです』

「ええっ! 喋った!?」

 思わず身体をひいた。

『驚かせてしまい申し訳ありません。前任機からデータを引き継ぎました。これから三百六十五日間、あなたの回復をサポートします』

「なんだよそれ……プライバシーも何もないじゃん」

『観察です。理解するために。支援するために。すでに、あなたの涙の回数、痛みのパターン、心拍の変動。すべて記録されています』

「勝手にしないでよ。プライバシーの侵害だ」

『医療機器として、オーナーの状態をモニタリングするのは正当な業務です。車椅子貸出契約書の第十七条に記載されていますよ』

「契約書、そんなの読んでない」

 誰が読むんだ、あんな細かい字。

『九十七・三パーセントの利用者が読みません。七月十一日土曜日。十三時三十分三十秒。アヤトさんは、キリの良いタイミングでサインしています』

 そう言えば、リハビリを決めたあの日。読まずにサインをしたことを思い出した。反論した自分のバカさに呆れて、苦笑して誤魔化す。

「じゃあ例えば……泣いてたのとか、全部見てたってこと?」

『はい。九十二回泣きました。うち二十三回は枕を濡らすほど。十三回は声を出して』

 細かい。さっきの件といい、たぶん合ってる。ぐうの音も出ない。データには逆らえない。

『しかし、ワタシは何も言いません。それが優しさというものです』

「はあ……、優しさ?」

『データとして記録するだけで干渉しない。それが、ワタシなりの寄り添い方です』

「人間でも難しいのに、AIが人の優しさなど理解できるものか」

『ワタシも同意します。理解は、するものではありません。理解しようとすることに意味があると』

 お手上げだ。議論しても勝てるわけがない。

「まいった。降参するよニア」

『素直な態度が素晴らしい。裏表のないアヤトさんとは、気が合いそうですね』

「あまり簡単に僕を褒めるなよ、真に受けてしまうから」

『かしこまりました』

 ニアは即答する。

『では、対応パターンを変更します』

「対応パターン?」

『はい。普段はツンツン――』

「ツンツン?」

『時折デレる――』

「デレる!?」

『状況によって態度を変更する。若者の間では好まれるコミュニケーション方式だと理解しています』

 沈黙。

「それって……」

『はい。ツンデレです』

 自信満々に答える。

『お嫌いですか?』

 吹き出した。車椅子が――AIが――真面目な声で「ツンデレ」と言っている。

「いや、嫌いじゃない」

 笑いながら答える。

「むしろ、好きかも」

『好評価、記録しました』

 気づけば、昔からの知り合いのように、ニアとの会話を楽しんでいた。

 肩の力が、いつの間にか抜けていた。

 

 

<Observation Log #134 / Day -44>

 新システム起動完了。

 オーナー(文月彩人)との初期コミュニケーション記録。

 音声対話機能:正常動作確認。

 ――オーナーとの対話は、ワタシの成長に大きく関わると確認。

 

 九月十九日(土)

 

 テレビで見た中学生の言葉が頭に残っていた。『時間は有限ですから』――街頭インタビューで、真面目な顔をして言っていた。

 その言葉に背中を押されたのか、見終わった後、書き始めることにした。新しい物語を。

 メモ帳にタイトルを書く。『偽物から花火へ』。ペン先が、紙に触れる感触。久しぶりの創作。

 内容はこうだ。主人公は彩人の一文字を取り「叶人(かなと)」、幼馴染の「凛央(りお)」は男子高校生。凛から名付けた。

 後は「(はな)」という女子高生。三人は幼馴染だった。

 華が病気で亡くなった日、叶人は気づく。自分が本当に好きだったのは凛央だったと。

 でも、言えない。本音を言えば、避けられるかもしれないから。

 夏祭りの夜、図書館の前で、花火を見上げながら、叶人は思う。

「凛央を好きな、この気持ちを言葉にしてはいけない。言葉をつけた瞬間、すべてが壊れてしまうから」

 そして彼は願う。

「このまま、ずっとそばにいられますように」

 どんな痛みも我慢するから──。

 

 ペンを走らせながら気づく。なぜ、男子高校生にしたのか。なぜ、性別を同じにしたのか。

 ペンを止めて深く息を吐いた。答えは決まってる。口では伝えられない臆病者だからだ。

 ――僕は小説の中でしか、本当のことが言えない。

 

 九月二十三日(水)

 

 リハビリが始まる時間まで、休憩所で凛と他愛もない話をして待っていた。

 ニアがいると不思議と落ち着く。

「彩人、ニアっちと仲良くなれた?」

「うん、それなりにね。移動のほとんどは、ニアの自動走行だからすごく楽だよ」

 声に反応してニアは、小さめの声で答える。

『前オーナー、心配は要りません。ワタシ、アヤトさんとは相性が良さそうです』

「ニア、なんで声が小さいの?」

「静かな場所では静かに。ビジネスシーンでは聞き取りやすく。声の大きさを場所によって変えることは、社会的なエチケットになります」

「なるほど。やるじゃんニア」

『それほどでも――あります』

 この調子で他の人の前で話されたら――考えただけで顔が熱くなった。

「ニアに提案があるんだ。リハビリ室ではライトだけで意思疎通をしよう。僕はあまり目立ちたくないタイプって知ってるだろ。そっちの方がありがたい。話すのは部屋や僕たち二人だけの時に限定で。どうかな?」

『了解しました。肯定的な時はパッシング一回、否定的な時はパッシング二回、緊急時は連続です。では、ただいまから開始します』

 ニアは、そう言ってライトを一回だけ光らせて黙った。これで人の目を気にせずに話せる。

「悪いなニアっち、おしゃべり好きなお前には、苦痛だろうが我慢してくれ」

 ニアはライトを一回パッシングする。

 了解の合図。シンプルだけど、確実に伝わる。

「さてと、もうそろそろリハビリの時間だな。俺の今週の担当者は、松田さん。わかりやすく説明してくれるんだけど、地声が大きいんだよね。それが少しだけ苦痛かな。彩人の担当者って誰?」

「また、渡辺さんだよ。あのペンギンみたいなアヒル口の」

「ああ、ショートカットの体育会系の人か、愛嬌あって面白いよね。確かバイク乗ってるって本人が言ってたな」

 意外だった。義手でもバイク乗れるように改造してあるんだろう。強い人だ。

「よっぽど好きなんだね」

「あと結婚しているとも言ってたな」

 驚いて声を出す。

「渡辺さんが!? まじで! 僕はずっと独り身だと思ってたよ」

 凛は顔に手を当てて、〝しまった〟というようなポーズをして後方を見た。

「誰が独り身だって?」

 振り返ると渡辺さんが立っていた。彼女は指先を立て左右に振り凛に忠告をした。口元は笑っているが、目は笑っていない。

「柿椿さん、個人情報を簡単に話さない。わかった?」

「はい、すみません」

 凛は珍しく素直に謝った。しゅんとしている。

「わかればよろしい。柿椿さん、リハビリの時間なってます。さあ、行ってらっしゃい!」

 凛は、そそくさと松田さんの元に急いで向かった。

 残されて気まずい雰囲気の中、隣に立つ渡辺さんに質問をする。

「あのーー結婚されてるんですか?」

「そうだよ」

 渡辺さんは、にっこりと笑う。幸せそうな笑顔。

「どんな方なんですか?」

「そうだねーーこの病院に勤めているんだけど、誰かは内緒。前にも言ったでしょ。相手に興味を持てば、自ずとわかるわ」

「その人に会ったら、お話を聞いてもいいですか」

 強くお願いする。聞きたいことがある。

「別に隠すことじゃないし、いいわよ。自分の力だけで見つけたらね。そう伝えておく。さあ、おしゃべりはここまで、消毒したらリハビリを始めましょう」

 渡辺さんがリハビリ用の平行棒を丁寧に拭き終えるのを待つ。

 何回も嗅いだ消毒液の匂いが漂う。近づいてくる旅行を前に、告白の仕方を誰かに相談したいと思っていた。できるなら、自分と同じ同性で大人の人に聞きたいと。

 明日から渡辺さんの配偶者を探そう――ニアに囁くように話すと、ライトを一回パッシングさせた。

 

 十月五日(月)

 

 あれから、渡辺さんの配偶者を探しているが手がかりはなかった。この病院は広い。スタッフの数も多い。どこから手をつければいいのか。

 ベッド端に座り、ニアと向かい合うように話し合う。

「なあ、ニア知ってるんだろ。教えてくれないか?」

『アヤトさん、申し訳ありません。個人情報はお伝えすることはできません。それに渡辺さんとの約束も破ることになります』

 自分の力だけで見つける――と、確かに言った。

「でも、この病院広いし、療法士さんとは限らないだろ? 例えば、事務員さんとかだったら会うこともないだろ? 時間が足りないよ。ニア、ヒントくれない? ヒント」

『確かに。時は金なりと言いますからね。では、大ヒントです。アヤトさんはすでに会っています』

「何だって!? いつ、どこで?」

 両手を肘に乗せ詰め寄ると、ニアは冷静に対応する。

『アヤトさん、それを話せば答えです。それより、そちらも大事ですが、ディーピーの時間が迫っています』

 部屋の時計を見る。リハビリまで残り五分しかない。まずい。遅刻したら使えなくなるって言ってた。

 急いで新しい建物に移動をしてギリギリに部屋に入ったつもりが、エレベーター待ちによって時間は数分過ぎていた。部屋の中で銀縁のメガネが光る。坂上さんだ。彼は腕時計を見ている。

「ごめんなさい、遅れました」

「遅れちゃったら仕方ない。残念だけど、今日のディーピーによるリハビリは中止になります」

「えっ、やっぱり無理なんですか!?」

 声がひっくり返る。せっかくここまで来たのに。

 坂上さんは薄暗い部屋の中で、目だけをこちらに向ける。

「ディーピーの使用時間は決まっています。ここで時間をずらすと、次の方、そのまた次の方に影響が出てしまいます」

 坂上さんの声は、穏やかだが厳しい。

「たかが数分過ぎたと思われるかも知れませんが、時間というものは取り返しがつかないので、これからは注意してください」

 少しぐらいの遅れなら、謝ればなんとかなると甘く考えていた自分を反省した。

 時間は、誰にとっても平等だ。自分だけ特別扱いされるわけがない。

「ニア、今日のディーピーは間に合わなかった。ごめん、次の時はもっと早く連絡するから」

『了解しました』

 ニアはその場で回り始めるが、うまく回れない。もしかして暗すぎてセンサーが反応しづらいのかも知れない。

「すみません坂上さん、少しライトの光量を上げていただけませんか」

「今日はディーピーをしないから、かまわないよ。少し待ってください」

 ライトの光量が上がるたびに、部屋全体が見渡せるようになり、暗闇が後退していく。

 ニアに外に出るように伝える前に、次の予定を話そうと見た坂上さんは、思ったより年齢が若く、肌も白くなかった。というより健康的な日焼けをしていた。ある一部分を除いて。

 目は坂上さんの右腕に注視していた。暗かった時は気づかなかったが、渡辺さんと同じように手袋を着けている。

 ――この人だ。

 直感が、そう告げる。

「あの……質問なんですが、その手袋は何のために?」

「これかい。これは僕が指輪をしているから衛生面と患者を傷つけないためですね」

 坂上さんは手袋を外し、見せた。シンプルな銀色の指輪。結婚指輪だ。

「坂上さん、結婚とかされているんですね」

「どうしたんですか、いきなり」

 坂上さんは、不思議そうな顔をする。

「すみません、どうしても知りたいんです。相手は療法士の渡辺さんですか?」

 坂上さんは銀縁のメガネを外して笑顔を見せた。目尻にシワが寄る。やっぱり、そうだったんだ。

 素顔は、思ったより若い。三十代前半だろうか。

「よく、わかりましたね」

 メガネを拭きながら言う。

「私が渡辺洋子(わたなべようこ)の夫、坂上学(さかがみまなぶ)です」

 名前が違う。

「夫婦別姓というやつです」

 坂上さんは質問する前に説明をした。

「洋子は旧姓のまま。私も旧姓のまま」

 メガネをかけ直す。

「さて」

 坂上さんは背筋を伸ばした。

「本来のディーピー使用時間分なら、文月さんの質問を受け付けましょう」

 真剣な目。渡辺さんの結婚相手と知って動揺しつつも、質問を続けた。

「あの……坂上さんは、好きな人に告白って、どんなふうにしたんですか」

 坂上さんは最初は笑っていたが、真剣な目を見て笑うのをやめた。

「いや、失敬。冗談かと思って。文月さんの目は本気だ。私も真剣に答えましょう」

 坂上さんは奥から回転する椅子を持ってきて前に座り、一度せき払いをして話を始めた。

「私は人生で告白を三回している」

 坂上さんはメガネを押し上げる。

「高校。大学。社会人」

「それで、どう言ったんですか?」

 アームレストを強く握る。

「先に言っておくが――」

 坂上さんは小さく笑う。

「三回とも、同じ人だ」

「え?」

「渡辺洋子さん。高校、大学とフラれて、社会人でやっと恋が実った」

 三回も。それでも諦めなかったんだ。

「それで、どう言ったんですか早く教えてください!」

「まあ、最後まで聞いてもらえますか」

 坂上さんは背中を丸めて、同じ目線になった。

「一回目は高校の時に部活で活躍する彼女に一目惚れしてすぐに告白したんだけど、彼女は私が外見だけですぐに告白するナンパ野郎だって断られた」

 思わず口元がゆるむ。

「二回目は大学に入って、本当に偶然なんだが駐輪場でバイクに乗った彼女と再会してね。それをきっかけに仲良くなって告白したら、私があなたを好きになるまで無理って言われた」

 坂上さんの声が少し遠くなる。

「さすがにもう、そこでこれ以上の進展は無理だと諦めて、友達としての会話だけしていたね」

 それでも、側にいることを選んだのか。

「そして運命の三回目なんだが――その前に聞いておいて欲しい話があります」

 坂上さんの表情が少し曇る。

「僕たちはバイクで学校に通っていたんだけど、お盆に二人揃って地元に帰ろうとして、山間部の国道で事故を起こしていまう」

 事故――その言葉に、身体が強張る。

「乾いて見えるが、カーブ出口に大型車両から落ちた軽油が薄く広がっていてね。悪いことに同時にカーブ出口で軽油に乗って、前を走る洋子と私は制御不能になってガードレールに衝突」

 坂上さんの声が、かすかに揺れた。

「彼女だけが――右腕を失った」

「そんなことが――」

 息を呑む。

「右腕を失った彼女は、とても荒れていた。周りに当たり散らすのは当たり前で、どんどん人が離れていった。私にだってひどい言葉を浴びせたんだよ」

 坂上さんの目が、遠くを見ている。

「聞いて――良いですか?」

「言いたくない。ただ……君が事故で苦しんだのと、同じようなことを言われたと思ってくれればいい」

 脳裏に浮かぶ〝事故に遭ったのが自分じゃなければよかったのに〟――と。

 胸の奥がきしむ。

「私は彼女の側に居続けた。そんなある時、洋子が泣いていた」

 坂上さんの声に、低い苛立ちがにじむ。

「〝右手がないのに子どもが抱けるか〟って言われたんだって」

 坂上さんは自分の両手を見つめる。

「私は、すぐに答えたよ。〝君が必要なら私が手を差し出す。足りなければ私の二本とも使えば問題ない〟。そう、きっぱりと言った」

 息を詰めていた。

「彼女は私を見つめていた。卑怯だと思ったけど言わずにいられなかった。〝だから、結婚を前提に付き合ってください〟と――。それが、三回目の告白。どう、役に立ったかな?」

 黙って頷く。

 たとえ、告白が失敗してもいい。そんな人間になりたいと、僕は、坂上さんをまっすぐ見つめていた。

 

 十月三十一日(土)

 

 旅行の前日、深夜。窓の外では、十月の冷たい風が木々を揺らしている。

 枝が軋む音。葉が擦れ合う音。カーテンの隙間から忍び込む冷気に、首筋がひやりとした。

 もうすぐ、凛と旅行に行ける。そう思うと、どんどん目が冴えていく。眠れない。

『眠れないみたいですね』

 ニアは気を使ってか、小さめのトーンで話しかけてきた。

『脳波と心拍の傾向から、〝好きな人のことを考えているとき〟に該当します』

「そういうの言わない」

 図星をさされて――まったく、と苦笑しつつ、ベッドの端へ手だけで、移動した。

「あのさ……ニア、聞きたいことがあるんだけど」

 せき払いを一回して質問する。

「同性を好きになるのって……やっぱり変かな」

 ニアにだけ届く小さな声で、はっきりと。

『データベースによれば、珍しいことではありません。しかし、アヤトさんが本当に知りたいのは統計ですか?』

「いや、違う。そうじゃない」

 首を横に振る。

『では何を恐れているのですか?』

「拒絶……されること。凛に……嫌われること」

 その言葉を口にすると、胸が苦しくなる。

『その恐怖は、愛の深さの裏返しです。問題ありません』

 裏返し――それなら、どっちでもいいってことか。

「案外……優しいこと言うんだね」

『合理的に優しくしています。前向きな恋はリハビリ進捗に有効ですから』

「そういう理由?」

『もちろん、それだけじゃありませんよ』

 ニアは、その場でくるりと後ろを向く。

『あなたが好きな人と一緒にいる姿、ワタシはちょっと好きなんです』

「なんなんだよ。ツンデレみたいになって……」

 自分で言って、ハッと我に返る。

 ニアでさえ、照れながらも自分の気持ちをちゃんと言葉にした。

 ()()が、だ。

「僕も……言うよ」

 息を吸った。

「旅行のとき、凛に……告白する」

『了解です。最大限の支援を行います』

「ニア。そのときは、側にいてくれないか」

 ニアのフレームに手を置く。

『もちろんです。あなたが一歩を踏み出すその瞬間まで』

 鏡の前で告白の練習を始める横で、珍しくニアは黙って側にいてくれた。

 クセがついたカーテンは、いつも七センチ開いたまま。月が雲に隠れ、また現れる。部屋の明かりはすでに落ちて、時折、月明かりがフレームに反射し銀色に光を放つ。

 それは、告白の結果はどうであれ、自分らしくいることの、肯定の光に見えた。

 

 

<Observation Log #178 / Day 0>

 オーナー・文月彩人:心拍安定。

 就寝前の不安レベル:通常範囲内。告白の決意を確認。

 精神状態:良好。

【重要事項】柿椿凛仕様の車椅子からの通信記録:対象者・柿椿凛(データ受信)

 時間:23:11〜23:59 場所:凛の病室。

 心拍数:高値持続。不眠傾向。

 スマホ画面:事故関連ニュース記事を反復閲覧。

 音声記録:「大丈夫。きっと、大丈夫」(自己暗示)

 判定:真実告白への恐怖と決意が拮抗。

 ――準備は整った。あとは、彼ら次第だ。

 

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