第三部「八十日前、ぶつかる日」
八月十四日(金)
夕食後、廊下で凛とすれ違った。
「あ、凛。明日リハビリで――」
「ごめん、今ちょっと」
凛が手を上げて遮ったその手に、スマホが握られている。画面が光っているのが一瞬だけ見えた。
『送り迎えの悲劇』
(ニュース記事だろうか……?)
凛は急いでスマホを胸ポケットにしまい「またな」と、遠ざかっていく。
なぜだろう――その車輪の音が、やけに耳に残った。
八月十五日(土)
低気圧のせいか、目覚めた瞬間からこめかみの奥に鈍い痛みが居座っている。起き上がろうとすると、世界がわずかに傾いた気がした。
昨日、凛は平行棒を使わずに数歩歩いていた。装具をつけているとはいえ、その足取りは日に日に確かになっている。
順調に回復していく姿を見るたびに、指先が無意識に車椅子のアームを叩いてしまう。
それに比べて自分は――。
太ももを見下ろす。どんなに力を込めても、微動だにしない。
凛は歩けるようになったら、僕の側にいなくなるかもしれない。
頑張っているのに――それなのに、全てが耳障りで、肌にまとわりつくようだった。励ましの声まで、追い込むクラクションのように聞こえてしまう。
「彩人、もう少し頑張ろう!」
その声が、今日は特に耳に刺さった。
手すりから手を離し、視線を床に落とす。
「いいよ」
低く、押し殺した声。
「放っといてくれ」
凛の気配が、ぴたりと止まった。
「なんで? 『一緒に外出できるようになりたい』って、言ったよな」
語気が強い。いつもの柔らかい声じゃない。
太ももをギュッと握る。やっぱり応えない。
「言ったよ」
顔を上げずに答える。
「言ったけど、こんなに痛い思いばっかりして、全然良くならないじゃん!」
感情と共に声が大きくなった。周囲がざわつく。リハビリ中の誰かが動くのを止めた。療法士さんたちの視線が、こちらに集まるのを感じる。
「何ピリピリしてんだよ。落ち着けよ、彩人」
凛の声が低くなる。いつもの明るさが消えている。
「落ち着いてる!」
凛の手を振りほどき、自分の手が手すりに当たり、金属音が鈍く響いた。その音が、リハビリ室全体に広がっていく。
もう止まらない。堰を切ったように、言葉が溢れ出る。
「ちょっと先に歩けるようになったからって――」
息を吸う。喉の奥が焼けつく。
「僕のこと見下してるんだろう!」
手の痛みを隠すように凛に言葉をぶつける。言ってしまってから、後悔した。
もう遅い――凛の動きが止まった。
「俺が彩人を見下す?」
凛の声が低く震えている。その震え方は、ただ傷ついただけではないように見える。
唇がわずかに歪み、眉間には深い皺。
「あり得ない……」
凛は顔を逸らし窓の外を見た。青い空には、夏の雲が流れている。白く、まぶしい雲。
でも、何も映っていないように見える。
喉の奥で言葉が詰まっているのか、何度か口を開きかけて閉じる。
「俺に、そんな資格――」
凛は言葉を切った。
背を向け車椅子に乗ると、振り返りもせず廊下に出て行った。車椅子の音が遠ざかっていく。
止めようと声を出そうとしたが――肝心な時に言葉が出ない。
手が、宙で止まった。
「文月さん」
前に、療法士の渡辺さんが割って入るように手のひらを差し出した。
「ストップ。少しだけ時間を空けましょうか」
渡辺さんを見上げる。彼女の表情はいつになく厳しかった。
*
周りの視線を避けるよう、渡辺さんに付き添われ部屋に戻った。
廊下を進む間、誰とも目を合わせられなかった。すれ違う看護師の足音が、やけに大きく聞こえる。
ベッドに身体を投げ出して、天井を見上げる。
白い。何もない。どうしたらいいか、わからない。
両手で顔を覆う。指の隙間から光が漏れ、涙が伝わっていく。
止めようと思っても、涙が止まらない。何の涙なのか、自分でもわからない。
「文月さん、言いすぎたと思ってるのね。あなたは、どうしたい?」
渡辺さんがベッドサイドの椅子に座り、同じ目線になった。
「仲直り……したいです。でも、僕だってつらいのに、凛は全然考えてくれないんだ」
言葉が、嗚咽と一緒に漏れる。
「なるほど、わかりました。厳しめに答えるけどいい?」
こくりと頷いた。涙で視界がぼやけている。
「まず、リハビリの大切さは何回も言ってるけど、正当な理由なく訓練を拒否し続けるのは甘え。そのことを知ってる柿椿さんは、続けることを大切に思って、つい言ってしまったのかも」
「そんなのわかってる。でも身体が痛いんですよ。渡辺さんはリハビリの痛みを知らないから言えるんだ」
突っぱねるように答えた。
自分でも、子どもみたいだと思う。それでも口は止まらなかった。
「でも少しはわかるわ」
――わかる?
イラッとした。大人は簡単に「わかる」って言う。
「軽々しく言わないでください」
渡辺さんは無表情のまま、白い手袋を脱いだ。右腕を差し出す。
「な、なんですか急に」
「文月さん。これが、わかる理由」
彼女の右腕を見る。
皮膚に血管が見えない。質感が左腕と違う――人工的で、均一。腕の途中に繋ぎ目があり、そこから肌の色が変わっている。
驚いた。気づかなかった。いや、気づこうともしていなかった。
「そう。私も事故で右腕を失って、義手を使用するためにリハビリをしていたのよ」
渡辺さんの声は、静かだった。でも、その静けさの奥に、深い痛みが隠されているのを感じた。
「それなら、最初に言ってくださいよ」
バツが悪そうな顔をして言った。
「文月さん、白か黒かですぐに決めつけないの。コミュニケーションの基本は相手を理解することだよ」
渡辺さんは義手を見つめながら、ゆっくりと話す。
「私が手袋履いてるのは、滑り止めのためでもあるんだけど、リハビリを一緒にしていて、他の療法士の方はしていないのを見て違和感なかった?」
「そんなの、衛生的なものかと思ってたし……」
言い訳がましく聞こえる。
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。だから他者と仲良くなるには相手に興味を持たないといけないの」
渡辺さんは目を見てハッキリと言い切った。
その目は、責めているのではない。教えてくれているのだ。
「さあ、文月さん。柿椿さんの気持ちを考えたら答えは、すぐに見つかるわ。一緒に考えましょう」
何度も渡辺さんと話した。
凛は何を思っていたのか。なぜあんなに励ましてくれたのか。
少しずつ、答えが見えてきた。
そして渡辺さんは、新しい提案を出した。
「うまく話せないなら、思っていることを紙に書いて渡すのはどう?」
はっとした。
そうだ。言葉にできないなら、書けばいい。
渡辺さんは顔を見て小さく頷き、立ち去った。
ドアが閉まるのを見て起き上がり、ノートを取る。
ペンを握る手が震えている。
謝りたい気持ち。伝えたい思い。これからどうしたいか。
書き始めると、油断すると涙が紙に落ちる。文字が滲む。それでも書き続けた。
一行、また一行。思いを言葉に変えていく。
再び戻ってきた渡辺さんに手紙を渡して、何時間も窓から外を眺めて呆けていた。
雲は相変わらず左から右に流れている。
*
よりかかって外を眺め続けていたため、窓ガラスは吐息によってわずかに曇っていた。
不意に、ドアをノックする音がして「どうぞ」と気のない返事で答える。
しかし――予想に反して、入ってきたのは凛だった。
瞼がはれぼったい。瞳も少し赤く見える。泣いていたのかもしれない。
「え……、あ……あの、さっき」
焦って言葉がもたつく。うまく繋がらない。
「さっきは……ごめん。あれも……僕なんだ。臆病で人の心を考えないで、後から後悔してばかりで」
息を吸って、大きく言葉も吐く。
「ごめん……本当に……ごめんなさい」
凛は黙って聞いていた。ただまっすぐ、こちらを見ていた。
その目は、怒っていなかった。ただ、悲しそうだった。
「だめだ。許さない」
思いがけない言葉に、心臓を鷲掴みにされたように息が止まった。
倒れないように、ベッド横のパイプを掴み、踏ん張る。冷たい金属の感触が、手のひらから登ってくる。
「すごく傷ついた。でもな――彩人、それは、俺も一緒だ」
凛がポケットから紙を取り出し、書いた手紙を広げた。少し皺になっている。何度も読み返したのだろう。
「俺のペースに合わせてくれてたのに、気づかなかった。でも、それって、俺が彩人を〝弱い〟って決めつけてたってこと」
凛の親指が紙を撫でる。優しく、何度も。
「対等じゃなかった。俺、勝手に支える側になろうとしてた」
そうかも知れない。だから腹が立ったんだ。自分勝手に見下されてる気がして。
でも、凛にそんなつもりはなかった。ただ、心配してくれていただけなのに。
「焦らせるようなことばかり言って、俺こそ、ごめん」
そして、少し間を置いて凛は言葉を継ぐ。
「思ったんだ、彩人も俺をすぐに許さないでほしいって」
「それは、どういう……こと?」
理解できず視線を傾けた。
「俺、彩人の好きなことは聞いていたけど、でも、嫌いなことは、ちゃんと知らなかった」
凛の車椅子が、じりじりと近づく。タイヤの音が、静かな部屋に響く。
「今回のことは、忘れたくない。二度と同じことを繰り返さないために覚えておこう。だから――この話はもう、おしまい」
凛の手が膝に触れる。何も感じないはずの場所。
でも、その温もりは確かにあった。
「明日から、またよろしく。な、彩人」
気恥ずかしげに、はにかむ凛。
僕は顔をくしゃくしゃにして、毛布で顔を隠した。
「でも……でも僕、凛にちゃんとお詫びがしたいよ」
毛布の中から、くぐもった声で言う。
「わかった。考えとくから泣くなよ」
そう言うと、毛布の上から凛の手が頭に触れた。
布を挟んでもわかる。大きな手。温かい手。
毛布の中で小さく頷いた。
*
<Observation Log #087 / Day −77>
【重要イベント記録】:オーナーと対象者の対立発生。
オーナー(文月彩人):呼吸不規則、体温上昇。
判定:極度の精神的ストレス状態。
【重要事項】柿椿凛仕様の車椅子からの緊急通信記録:対象者・柿椿凛も同時刻に同様の生体反応。
音声記録断片:「見下したことなんて」「羨ましかった」。脚部への接触行動を確認。
――柿椿凛仕様の車椅子とリハビリテーションリンク完了。重要事項のデータ確認。両者とも和解の兆候を確認済み。
八月二十日(木)
「彩人が書いた昔の小説読んだよ。でさ――」
「ストップ! 恥ずかしいから、それ以上言わないで」
「コメント聞かなきゃ意味ないだろ」
「ネットならいくらでも、リアルは恥ずかしいから」
「わかんないな俺。そういうものなのか」
「そういうものだよ」
軽いため息をついて話題を変える。
「ねえ、凛って、いつからリハビリ始めたの?」
何気なく聞くと、凛の手が一瞬止まった。
ペットボトルを持ったまま、少し考えるように視線を落とす。長いまつげが、影を落としている。
「俺? だいたい、彩人の一ヶ月前。五月の最終日」
「そうなんだ。僕より先輩だね」
肘で腕をつつく。軽く返したつもりだったが、思いのほか凛の表情が曇った。
笑顔が消える。
「事故……じゃないんだ」
「え?」
凛は小さく息を吐く。その息に、何か重いものが混じっている気がした。
「階段から、突き落とされた」
手が止まる。ペットボトルを持つ手が固まる。
「ストーカーってやつ。俺、誰にでも笑顔で接しちゃうから」
他人事のように凛は続けた。でも、その淡々とした語り口が、逆に痛々しい。
「勘違いされたんだ。好意を持たれてるって思われて。でも俺、そんなつもり全然なくて」
ああーー凛ならなおさらだ。
「背中を押された瞬間、なんでって思った。俺、何かした? って」
凛の指が震えている。また、ペットボトルの蓋を親指でなぞっている。
「腰を強く打って。脊髄の圧迫骨折。軽度だったけど、神経を傷つけた」
何も言えなかった。
「もう笑顔でいるの、やめようかなって思った。人と距離を取ろうって。でもさ」
凛が顔を上げた。目の縁が、少しだけ潤んでいた。
「それって、俺じゃなくなるってことでしょ。誰かの勘違いのせいで、俺が変わるなんて嫌だった」
凛の声が少し震える。
「だから決めた。前よりもっと前に進もうって。歩けるようになって、堂々としてようって」
こちらを見つめる目は、もう揺れていない。
「そうは言っても怖いよね。そんな時に彩人と出会った。俺のことを知らない人と、一からの関係が嬉しかったんだ」
凛の言葉に、目頭が熱くなる。ごまかすように、目にかかる前髪を左右にかき分けながら答える。
「僕も。凛と出会えて、よかったよ」
二人は少しの間、黙っていた。けれど、その沈黙は心地よかった。
凛が車椅子のポジションを整え始める。
「なあ、外出許可が出たら、どこ行きたい?」
話題を変えるように、でもどこか明るく。いつもの凛に戻ろうとしている。
「うーん、自然を感じるところなんか、行ってみたいかも」
「自然か……あ! 俺いい場所、知ってる」
凛の口元がにやりと緩む。さっきまでの陰りは見当たらない。
「海の近くで上がる花火を見に行こう。地元の人しか知らない場所の」
「ははは。そりゃ、行けたら、見たいけど」
それは無理だろうと笑ってしまう。
車椅子で海岸なんて、砂で動けなくなる。現実は、そんなに甘くない。
「よし、決めた! 目標は〝秋の花火大会〟だ!」
凛が療法士さんのほうへ向き直る。もう、迷いはない。
「すいません、休憩終わりました! リハビリお願いします!」
「ちょっと、凛。僕の話、聞いてた? けどって言ったんだよ」
反論する間もなく、凛はもう手すりにつかまっていた。
これ以上は言っても無駄だ。聞こえていない。
凛は膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。装具が、きしむ音がした。
金属が擦れる音。それは、前に進んでいる証。
止まることより、走り抜けることを選ぶ凛。
立ち止まったら、あの日の痛みに追いつかれてしまうから――。
このままではいけない。いつか隣で歩けるようになりたい。その勢いに引っ張られるように、リハビリを始めた。
一歩、また一歩。痛みに耐えながら。
*
<Observation Log #120 / Day −57>
【重要事項】柿椿凛仕様の車椅子からの通信記録:対象者・柿椿凛(データ受信)
時間:22:03〜22:41
場所:凛の病室
・事故記事ページ閲覧(視線集中)
・画面を伏せて置く
・膝の上で両手を強く組む
・窓外へ再度視線→静止
・深呼吸3回/胸部を押さえる
・ベッドへ横になる
備考:行動のみを記録。事故記事に注目が見られる。
――壊されたままではいけないと、二人の前に進む姿を確認。




