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七センチの隙間を越えて  作者: 琵琶こと
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第二部「百日前、出会いの日」

 七月二十一日(火)

 

 夏の光が廊下の床に長方形の影を落としている。窓の外は真っ青な空。蝉の声が遠くで響く。

 車椅子を止め、窓から外を見上げた。

 雲が左から右に流れている。

 あのジンクスを思い出す。雲が左から右に流れていく日は良いことがある――そう信じていたのに、事故に遭った。

 もう信じないでおこう。ジンクスなんて、所詮気休めだ。

 

 顔を廊下の先に向けた。今日は初めてのリハビリ。

 自分よりも年上の人ばかりだろうと思うと、どんな顔をすればいいのか、何を話せばいいのか、想像するだけで胃が重くなる。

「お前も不安だよな?」

 問いかけに応えるように、車椅子はゆっくり点滅している。

 小さな光が、〝大丈夫〟と声をかけてくれているように見えた。

 気持ちを奮い立たせるように深呼吸し、開け放たれたドアをくぐる。

 廊下から漏れてくる消毒液の匂い。リハビリ室特有の、ゴム製品と汗が混ざった空気。

 広々としたリハビリ室に対して、人数は思ったより少なく数えられるほど。十人もいないだろう。

 年配の男性が平行棒につかまって歩いている。中年の女性が療法士さんと一緒にストレッチをしていた。車椅子に座ったまま、窓の外を眺めている老人もいる。

 やはり、自分と同じ年代の人間はいないと思ったとき――目が止まった。

 

 大きな窓枠から差し込む光が、一人の背中を照らしている。

 逆光の中に浮かび上がるシルエット。鎖骨まである黒い髪が、動くたびに柔らかく揺れる。スマートながらも鍛えられた体つき。切れ長の目元。

 彼は無言で手すりを強く握り、立ち上がろうとしていた。その指は、一本一本が雪のように白い。

 両脚には金属製の装具そうぐ。膝まで覆う長いタイプのもの。無機質な銀色が、白い肌と際立つ。

 もっとしっかりと顔を見る。唇を噛みしめて、額に汗が滲んでいる。それでも、瞳はまっすぐ前を見つめたまま――何があっても折れないと決めているかのように。

 周りの音が遠のいていく。

 療法士さんの声も、他の患者の動く音も、すべてが霞んで消える。

 彼だけが鮮明に浮かぶ。

 まるで、世界で彼だけに光が当たっているように。 

 ──この人で、小説を書きたい。

 

「文月さん、どうかしました?」

 療法士さんの足音に、はっとして姿勢を正した。

 我に返る。顔が熱い。初対面の人をあんなにじっと見つめていた。

「あ、はい、大丈夫です」

 急いで車椅子を壁際に寄せる。気になってもう一度振り返ると、すでに彼は平行棒の先で立ち止まり、視線を窓の外に向けていた。

 気になって彼の視線の先を追う。駐車場が見える窓。そこに、古い車が一台停まっている。

 ビンテージカー――詳しくなくてもわかる、クラシックな流線型。

 彼の表情がほんの一瞬、こわばったように見えた。眉間に小さな皺が寄る。唇が開きかける。

 すぐに体勢を整え、リハビリを続けだした。何事もなかったかのように。

 その瞬間、車椅子が光を帯びた。今までで一番強く。

 レバー下が、眩しいほどの白い光を放つ。

 車椅子を見下ろす。

 何を意味しているんだろう、この光は。

 

 七月二十二日(水)

 

 翌日。自分のリハビリをなおざりにしていた。

 昨日と同じ場所で、彼が手すりにつかまっている。

 今日も同じように、立つのも痛そうなのに一歩ずつ確実に進んでいく。昨日よりも少しだけ遠くまで歩いている。何度も視線を向けてしまう。

 気づけば、手が止まっている。リハビリの動作を忘れて、ただ彼を見ている。

 突然、視界に白い手袋が入った。目の前で、ひらひらと振られている。

 

「文月さーん、聞いてる?」

 療法士の渡辺(わたなべ)さんだった。

「もしかして、彼のこと見てた?」

 昨日から担当の渡辺さんの、からかうような笑顔に、慌てて視線を戻す。首筋まで赤くなるのがわかる。バレていた。どのくらい見ていたんだろう。

「いや……はい、そうですね。この病院には同い年の子がいないから、少し」

「まあ、文月さんより年上の人が多いのも事実だし、気になるのは無理ないと思うよ」

 いつもは厳しい渡辺さんの声が、少しだけ優しい。

「でもね、だからって意識が散ったままやっても、リハビリは伸びない。筋トレと同じ。考えながらやるか、流してやるかで、結果ははっきり分かれる。せっかくやるなら、ちゃんと集中しよう」

 短く刈り上げた襟足と、まっすぐこちらを射抜く目。ボーイッシュな渡辺さんの言葉には有無を言わせない説得力がある。

「すいません。気をつけます」

 素直に謝った。

 

 ――この感情はいけない。

 

 頭の隅に浮かびかけたものを押し込むように、リハビリを続けた。

 視界の端に、彼の姿を入れながら。

 

 七月二十五日(土)

 

 リハビリを始めて数日が経った午後。庭の見える休憩所で読書をしていた。

 窓の外には夏の緑が広がっている。遠くの蝉が、また一段と鳴き始めていた。空気の入れ替えによる風が、休憩所のカーテンをふくらませ、時折、からかうように邪魔をする。ページをめくろうとすると、風でページが戻る。また開くと、風が吹く。

「こんにちは」

 風が強く吹き、また膨らんだカーテンの中から、中性的で低い、芯の通った声がした。

 首筋に力を込め、車椅子の(きし)みと共に顔を回す。開いていた本が膝から滑り落ちそうになり、慌てて押さえた。

 視線を上げると、男性がすぐそこにいた。

 鎖骨まである黒い髪。まっすぐな瞳。陽に透けるほど白い肌。あの日、手すりを握っていた――彼だ。

 こんなに近くで見るのは初めて。まつげが長い。目の色は深い黒。鼻筋が通っている。

「ねえ、何読んでるの?」

 その声が耳に届いた瞬間、手が反射的に動いた。本が膝の上に滑り込む。背筋がぴんと張った。

 タイトルは『君の手を借りてでも』。同性同士の恋を描いた一冊。ブックカバーの中の表紙には、二人の男性のシルエット。

「え、えっと。ただの――」

 喉が締まる。言葉がうまく出てこない。

「ただの小説。暇つぶし」

 声が上ずった。自分の耳にも、不自然すぎるほど甲高く聞こえる。頬から耳の先まで、一気に血が上るのがわかる。

 相手の視線が膝の上から足元で止まる。じっと見つめる数秒。装具でもなく、車椅子でもなく、その〝先〟を見ているような――すぐに視線を外し笑顔に戻った。

「ふーん。暇つぶしにしては、真剣な顔してたね」

 彼は器用に車椅子を操り、隣に寄せてくる。タイヤが畳を滑る、かすかな摩擦音。

 スムーズな動き。慣れた手つき。

 両膝が触れ合う前で上手く止まり、横に並ぶ。ひじ掛け同士の距離は、わずか七センチ。

 石鹸の香りが、ふわりと届いた。シャンプーだろうか。爽やかで、少し甘い。

「急に、ごめん。俺、柿椿凛かきつばきりんって言うんだ。よろしく」

 爽やかに話しかける柿椿さんの、透き通るような白い肌を間近で見て、息が詰まった。

 声が届くだけで、肩から首にかけて、ふっと力が抜けていく。

「もし、近づきすぎて怖くなったら言ってね」

 柿椿さんは片手で拝むようなポーズをする。

 小さく頷いた。怖くはない。戸惑っているだけだ――たぶん。

「で、その膝にある本。俺も、同じの持っててさ」

「な!?」

 思わず間の抜けた声が出た。

「『君の手を借りてでも』だろ。そのしおり紐が、初版限定の珍しい三つ編みだから、すぐわかった」

 初版限定だって……!?

 完全に知ってる人だ。それも、かなり詳しい。

 視線が泳いでいく。窓の外、天井、床。どこを見ればいいかわからない。

 初版のしおり紐まで知っている。もしかして――と胸の奥が小さく跳ねた。

「ってことは、柿椿さんは、その……BLとか……百合とか」

「そう。どんなジャンルも読むよ」

 柿椿さんはにっこりと笑う。

「だから声かけた。俺、同じ本読んでる人、見つけたらつい話しかけちゃうタイプなんだ」

 悪びれもなく、晴れやかに笑う柿椿さんの瞳には、濁りが見えない――嘘はなさそうだった。

 ホッとした。この話題を心から楽しんでいるように見える。

「ぐいぐい言っちゃってごめん。こういう界隈って、読んでるって認めるの勇気いるもんね」

 柿椿さんが、小さめの声で話す。

 配慮してくれているんだ。この人は、わかっている。

「うん……でも」

 本を膝の上に置いたまま、まっすぐ前を見た。本音を出す。この人になら、言える気がする。

「好きなものは、好きだから……別にいいと思う」

 自分でも意外だった。いつもなら、もっと曖昧にごまかすのに。

「その強さ──いいね」

 柿椿さんの声が、優しくなる。

「そう……かな」

「そうだよ。俺、好きなことに対して、ちゃんと向き合える人ってカッコいいと思う」

 褒められて、思わずうつむいた。

 カッコいい――そんな言葉、生まれて初めて言われた気がする。

「いけね、今からリハビリだから。また話そう、文月さん」

 手を振って去っていく車椅子を、呆然と見送る。

 まだ、心臓の鼓動が速い。手のひらが汗ばんでいる。

「柿椿……凛」

 初めてフルネームを口に出した。響きが、妙に心地よい。

 そのとき、車椅子全体が強く発光した。周囲の人も気づくほど明るく。

 ――もしかして、僕の気持ちに反応してるの?

 

 七月二十九日(水)

 

 夏のリハビリ室は暑い。窓から差し込む日差しのせいで、エアコンが追いついていない。首と襟の間をタオルで何度も擦るが、次々と汗が滲んでくる。

「おつかれ。これ、よかったら飲んで」

 柿椿さんが笑顔で、よく冷えたペットボトルを差し出してきた。

 水滴がペットボトルの表面を伝っている。軽くおじぎをして受け取る。手のひらに伝わる心地よい冷たさ。

 キャップを開けて口に含むと、冷たい水が喉を通っていく。生き返る。

「文月さん、このあと時間ある?」

 拒む理由なんてどこにも見つからず、自然と頷いた。

 二人は休憩所の端で車椅子を並べて、年齢や好きな本など他愛ない話を始める。

 同い年だとわかった。好きな作家が一人重なっていた。嫌いな病院食も同じ。

 話すたびに、共通点が見つかり、つい前のめりになる。

 気になることがあった。

 柿椿さんの指が、ずっとペットボトルの蓋を撫でている。何度も何度も。無意識の動作のように。

 何か言いたいことがあるのに、言えないでいる。そんな気がした。

「あの……何か言いたいことがあったりする?」

「いや、なんにもないよ」

 柿椿さんは笑ったが、口元がわずかに歪んだのを見逃さなかった。

 笑顔の裏に、何かが隠れている。

 柿椿さんが、急に真顔になった。

「嘘。実はある」

 鼓動がひとつ、強く打つ。

「あのさ……文月さんって呼ぶの、やめていい?」

「へっ?」

 予想外の問いに、またしても素っ頓狂な声が出る。

 てっきり、もっと深刻な話かと思った。

「同い年だしさ」

「あ、うん。彩人でいいよ」

 自分の名前を口にするのは、なぜか照れくさい。

「ああ、良かった。嫌だって言われたらどうしようかと思ってた」

 柿椿さんは本当に安心したような顔をする。

「じゃあ、俺は凛って呼んで」

 さっきの躊躇(ためら)いは、そのせいだったのか。

「彩人、また明日も話そうね」

 去り際の凛は、明るさを取り戻し、手を振って去っていく。 

 ──彩人。 

 自分の名前なのに、凛の声で聞くと、何か違って聞こえる。

 胸の奥が、じんわりと温かくなった。

 

 *

 

 初めて名前で呼ばれた深夜、二十三時。布団をかぶっても眠れないでいた。

 凛の声が頭の中で何度も再生される。

 

「彩人」「彩人」「彩人」

 

 名前を呼ばれるたびに、心臓のあたりが、きゅっと縮んだ。

 枕をぎゅっと抱きしめて、頬を布団に押し付ける。冷たい部分は、すぐに熱くなった。

 目を閉じても凛の顔が浮かぶ。

 笑顔。横顔。手を振る姿。ペットボトルを差し出すときの優しい目。

 寝られない。

 心の中で、蓋に閉じ込めた何かが――目を覚ましていく。

 

 

<Observation Log #030 / Day -102>

 オーナー(文月彩人):対象人物・柿椿凛。

 心拍パターン:高揚。診断:恋愛感情の芽生えを確認。

 対象人物接近時、心拍数向上を確認。

 対象人物との最接近距離:七センチ(ひじ掛け間)

 ――対象人物の前では、異常な心拍数向上を繰り返す。


 八月一日(土)

 

 夕暮れ。窓の外が橙色に染まり始めた。

 室内も淡い橙色に包まれていく。外の色と内の色がゆっくり混ざり合い、床には窓枠の影が長く伸びていた。

 夕食までのわずかな時間。目の前のテレビを母と、いつの間にか母とも打ち解けた凛の三人で眺めている。画面の中では、リポーターが大袈裟な身振りで熱弁をふるっていた。

『AI医療により、仮想空間によるリハビリが確立されました。私たちは歴史の分岐点に立っているのではないでしょうか!』

「すごいわね。私、その仮想空間ってよく分からないけど」

 母の独り言のような疑問に、凛が答える。

「うーん。例えば眼鏡をかけると、まったく違う国にいける感じですかね」

「凛ちゃん、それって、タダで旅行できるってことなの? 今度、三人で、どこか遊びに行きましょうよ」

「いやいや、彩人のお母さん。例えですから」

 病室に笑い声が咲く。

 最近の母は、凛との会話を楽しみにしているようだった。表情が明るくなり、笑う回数も増えた。つられて自分の頬もゆるむ。

「そうそう、忘れてた。彩人に頼まれていたメモ帳とペン持ってきたわよ。聞いてよ凛ちゃん、机の上が散らかっていたから、探すのに苦労したのよー」

「ちょっと、余計なこと言わなくていい!」

 耳の後ろがかっと熱くなる。

「あら、ごめんなさい。そろそろ、母さん帰るわね。じゃあ、凛ちゃんまた」

 上機嫌でドアを出ていく母は、名残り惜しそうに手を振った。

「まったく、恥ずかしい……」

「そうか? 笑顔の可愛いお母さんじゃん。ずっと笑顔って、なかなか難しいんだぜ」

 凛の声のトーンが、ほんの少し沈んだ。

「ふーん……っていうことは、凛も笑顔は無理してたり?」

 少し間を置いて、凛は答えた。

「そうだな……」

 窓の外に視線を向ける凛。いつの間にか、夕焼けが空を染めるのをやめていた。赤みが消え、世界全体が深い青色に包まれはじめている。

  

「なあ、彩人……俺の母親はね。もういないんだ」 

 呼吸が一瞬、止まった。

「……え?」

「小学校のとき、亡くなってるの」

 声を落として凛は続けた。

「急に病気の進行が進んでね」

 言葉が出てこない。何を言えばいいのか、わからない。

「あ、ごめん、ごめん。変な空気にさせて。もう、割り切ってるから心配しないでくれ」

 凛は軽く微笑み、肩を叩いてくる。

 でも、その笑顔の端がわずかに下がっていた。

「でね……母は、最後まで笑ってさ。痛くても、苦しくても、俺の前では笑顔を見せてた」

「……凛」

「だからかな。どんな母親も子どもの前では、無理してるんじゃないかって思っちゃう」

「そうなんだ」

 何も言えない。ただ、聞くことしかできない。

「ほら、笑ってくれてた方が、つられて笑顔になりそうじゃん。だから俺も」

 目が合った。

「なるべく、笑ってようって決めたんだ」

 その言葉の後じゃ、いつもの笑顔が――違って見える。

「俺って、いつも笑ってるだろ」

 突然の問いかけに戸惑った。

「うん……まあ」

「変じゃない?」

 自分の頬に手を当てながら凛が呟く。

「こんな場所にいるのに、いつもヘラヘラして」

 首を横に振った。

「変じゃないよ。凛らしいと思う」

 凛は、また笑った。今度は、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。

「……そっか、そうだよな」

 言葉が途切れ、凛はまっすぐこちらを見つめてきた。

「彩人の前では――素直でいられそうだ」

 裏のない笑顔だった。

 受け入れるしかなかった。

 僕は、この人の笑顔を、もっと見たいと思っていることに。

 

 *

 

<Observation Log #058 / Day -82>

 対象人物:文月彩人。

 対象者:柿椿凛。

 会話頻度、増加傾向。

 非言語接触:視線交差時間、平均値を超過。

 心拍変動:対象者接近時に顕著。

 判定:恋愛感情は安定段階へ移行中。拒絶反応なし。

 ――変化は、静かに進行している。

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