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七センチの隙間を越えて  作者: 琵琶こと
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第一部「変わる日常」

 六月三十日(火)

 

 雲が左から右に流れていく日は、良いことがある。

 それは、自分だけのジンクスだった。

 今日の雲は――左から右へ。なら、きっと今日もそうだ。

 

 

 本屋に寄った帰り道。ペダルを漕ぐ足取りはいつもより軽い。ハンドルに引っ掛けた紙袋が、ひと漕ぎごとに小刻みに揺れている。その軽やかなリズムが、足取りとぴったり重なっていた。

「遠回りした甲斐があった。明日は学校だから、帰ってすぐ読むか、明日の夜に楽しむか……」

 頬がゆるむ。表紙のイラストが、まだ目の奥に残っている。どんな展開が待っているのだろう――想像するだけで、また力が入った。

 地上には雨上がりの夕陽が差し込み、アスファルトの水溜まりを橙色に染めている。濡れた路面がきらきらと光を反射して、宝石を散りばめたよう。

 信号は青。このまま道なりに帰れば、あっという間に家だ。

 早く帰りたい。早く部屋で本を開きたい。

 いつもより力強くペダルを踏み込む。


 突然――背後から金属の摩擦音まさつおん。耳をつんざくような、甲高い音。

 振り向く間もなく、腹に鉄塊をねじ込まれたような衝撃が走った。

 息が――止まる。

 身体が自転車ごと宙に浮く。

 重力が消えた。

 視界が回転する。空、建物、地面。空、建物、地面。

 下半身が引き千切られる。

 いや、痛いという感覚さえ追いつかない。

 ただ、何かが壊れた。それだけがわかる。

 地面に叩きつけられた瞬間、全身が白く()けた。

 ガシャン――。

 自転車か。本か。自分の骨か。

 意識が――遠のく。

 

 

 ――カラカラカラカラ。

 いつからだろう。自転車のタイヤのような音とともに、身体が揺れていた。

 目を開けようとしたが瞼が鉛のように重い。うっすらと隙間から光が入る先には、ボヤけて見える白い天井とライトが、雲のように流れていった。

「脊髄に損傷が。完全麻痺ではありませんが、下半身の感覚と運動機能に影響が――」

 遠い。水の中から聞こえるような声。意味が頭に入ってこない。

 意識が浮いて沈んで。指先だけが小さく動く。それより下の感覚がしない。

 下半身が――ない。

 あるはずなのに、感じない。そこだけ世界から切り離されたように。

 ああ――僕、事故に遭ったんだ。

 そう思うと、重い(まぶた)を下ろした。

 暗闇の中で、さっきまで胸を躍らせていた本のことを思い出す。

 あの本は、どこにあるんだろう。

 読めるのだろうか。

 そもそも、また本を読める日は来るのだろうか。

 

 七月十日(金)

 

 手術を終え、リハビリ専門の病院に移った。窓の外の景色が変わっただけで、天井を見上げる毎日は変わらない。

 昼食後の時間には、母は毎日訪れる。

「彩人、そろそろリハビリに――」

「そんな気分じゃないって!」

 声が思った以上にとがった。母はそれ以上何も言わず、新しい電動車椅子をベッドの隣に置く。

 そのまま病室を出ていく母の背中が、いつもより小さい。振り返ることなく、ドアが重い息を吐き出すように閉じた。

「ごめん……なさい」

 小さく呟いた。言ってからいつも後悔する。母は何も悪くない。ただ心配してくれているだけなのに。

 遅れて口にした言葉は、閉じたドアに届くことなく消え去った。

 

 

 真夜中の薄暗い病室。痛み止めが効くまで、気をそらすように車椅子を眺めていた。

 黒いフレーム。大きすぎるタイヤ。頑丈そうな造り。

 この先ずっと、これに乗って生きていくのだろうか。

 もう――歩けない。走れない。階段を上れない。

 それがどういうことなのか、まだ実感が湧かない。でも――今までの人生は、もう戻ってこないことはわかる。

 誰もいない病室で、指先がじんと冷たくなっていく。

 そもそも何でこうなった?

 母から聞いた事故の話を思い出す。

 ビンテージカーのハンドルを握っていたのは、七十を過ぎた老人。交差点を左折する車が死角にいた自転車に気づかず接触した。

 〝高齢ドライバー〟〝死角〟〝気づかず〟

 どれも、ニュースでよく聞く言葉。

 動くようになった拳を強く握ると、爪が手のひらに食い込む。その痛みだけが、今の自分にとって確かな感覚だった。

 腹の底から熱が這い上がってくる。誰に向けた熱なのか、自分でもわからない運転手か。運か。それとも、こんな身体になってしまった自分自身か。

 何もしなくても、目の縁から涙が落ち、枕にシミをつくっていく。

 心のどこかで思ってしまう。

 事故に遭ったのが自分じゃなければよかったのに、と。

 そんな自分が、もっと嫌になっていく。

 固く握りすぎた拳が痛くなり、手を開いた。

 手のひらの皮膚には、月をいくつも刻んだように、爪の白い跡がくっきり残っている。

 自分で自分を傷つけた証のように。

 

 七月十一日(土)


 翌朝。カーテンが七センチほどずれていたせいで、瞼の裏まで届く光を浴び、目が覚めた。

 いつものように右手が枕元へと伸びる。スマホを取ろうとする、体が覚えた動き。

「あれ――ない?」

 わずかな距離をさまよった後、指は宙で動きを止める。

 半目で視線を動かしていくと、スマホは車椅子の黒革のシートにぽつんと乗っていた。

 ――昨夜、充電しようとして置いたはずなのに、寝返りを打ったときに落ちたのか。

 体重を乗せて前へと身を乗り出し、指先が車椅子へと静かに距離を詰める。

 あと少し、あと少しで取れる。

 スマホを掴んだその瞬間、視界の隅で車椅子のフレームが一瞬、白いフラッシュを返した。

「え……今、光った?」

 もう一度車椅子を見た。何も起きない。

 さっき確かに一瞬だけ白く光った気がする。フレーム全体がフラッシュのように。

 幻覚だろうか。いや、確かに見えた。気づけば窓の外からの光が再び顔に当たっている。

 たぶん、太陽の光が瞼に残っていたのだろう。そう結論づけて、意識をスマホに戻した。

 画面を見ると、小説アプリの右上に表示される数字がいつもより多い。

 普段は一桁もない、多くても一桁前半なのに、今日は二桁になっている。

 何かの間違いだろうか。気になってアイコンを押してみた。


『おめでとうございます。貴方の作品「追う恋は終われる恋に勝る」が〝実はBL恋コンテスト〟でピックアップルーキーに選出されました!』


 まばたきの回数が増える。

 行の最初へ、何度も無意識に戻った。文字を追う。また最初に戻る。頬をつねり、もう一度読む。

 思い出した――事故の前日、徹夜で仕上げて投稿した小説だ。

 指先がかすかに震えだした。

 コメント欄を開くと、憧れた白い背景と黒い活字がたくさん並んでいた。

『それぞれの想いが交差して、愛にもいろんな形があると知りました』

『良かった。俺の気持ちを代弁してくれたみたいで、涙出たぞ』

『主人公の葛藤がリアルで、読んでいて胸が痛くなりました』

 一瞬で瞳が潤み、文字がぼやけだした。鼻の根元も熱くなっていく。

 スマホを置き、指先の腹ですくうように涙を拭った。

 ――なんてことだ。

 身体は壊れた。でも――言葉は、まだ生きている。

 ――僕はバカだ。この車椅子だって、本当は敵じゃない。これから一緒に生きていくパートナーなのに。ゆっくりと隣の車椅子に視線を移した。

 さっきまで拒んでいたはずの車椅子が、少しだけ違って見える。

 手を伸ばし、操作レバーにそっと触れてみる。

 冷たい金属の感触のはずが、少し温かく感じ、思わず「よろしく」と話しかけていた。

 

 

 昼食後、目を合わせられないまま母に告げた。

「明日から、リハビリに行く」

 母は驚いた顔を見せた後、何も言わずに静かに僕の背中に手を当てた。

 その手のひらの温もりが、背中から、じんわりと胸の奥まで伝わってくる。

「後ろ押さなくていい。一人でいけるから」

「うんうん」と頷く母の顔を横目で見る。微笑んでいた。涙を堪えながら。

 

 

 夜、明日のリハビリのことが頭から離れないまま、ベッドに身体を預け消灯時間を待っていた。

 そろそろ寝ようかと枕元にスマホを置いたとき、車椅子が目に入り、朝のことが気になりだした。

 ――車椅子が光ったと思うんだけどな。

 じっと見つめていると、レバー下の部分から爪楊枝の背ほどの小さなランプが、ついたり消えたりしているのを見つけた。

 明るさの度合いが朝とは違う。呼吸するように、ゆっくりと点滅している。

「やっぱり光ってる……何かに反応してるんだ」

 手を伸ばしてフレームに触れた。すると今度は、側面のラインが淡く光った。

 いつどこが光るのか、さっぱりわからない。でも――この車椅子は、たくさんの光り方を持っている。

「まるで、生きているみたい」

 動きに反応しているのだろうか。それとも、何か特別な意味があるのだろうか。

 なぜか、肩の力がすとんと抜けた。

 一人じゃない。そんな気がしてしまう。

 

 

<Observation Log #001 / Day −113>

 新規オーナー登録:文月彩人。

 心拍数:高。表情:硬直。判定:精神的ショック状態。生存意欲:低下。

 ――起動開始。

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