第一部「変わる日常」
六月三十日(火)
雲が左から右に流れていく日は、良いことがある。
それは、自分だけのジンクスだった。
今日の雲は――左から右へ。なら、きっと今日もそうだ。
*
本屋に寄った帰り道。ペダルを漕ぐ足取りはいつもより軽い。ハンドルに引っ掛けた紙袋が、ひと漕ぎごとに小刻みに揺れている。その軽やかなリズムが、足取りとぴったり重なっていた。
「遠回りした甲斐があった。明日は学校だから、帰ってすぐ読むか、明日の夜に楽しむか……」
頬がゆるむ。表紙のイラストが、まだ目の奥に残っている。どんな展開が待っているのだろう――想像するだけで、また力が入った。
地上には雨上がりの夕陽が差し込み、アスファルトの水溜まりを橙色に染めている。濡れた路面がきらきらと光を反射して、宝石を散りばめたよう。
信号は青。このまま道なりに帰れば、あっという間に家だ。
早く帰りたい。早く部屋で本を開きたい。
いつもより力強くペダルを踏み込む。
突然――背後から金属の摩擦音。耳をつんざくような、甲高い音。
振り向く間もなく、腹に鉄塊をねじ込まれたような衝撃が走った。
息が――止まる。
身体が自転車ごと宙に浮く。
重力が消えた。
視界が回転する。空、建物、地面。空、建物、地面。
下半身が引き千切られる。
いや、痛いという感覚さえ追いつかない。
ただ、何かが壊れた。それだけがわかる。
地面に叩きつけられた瞬間、全身が白く灼けた。
ガシャン――。
自転車か。本か。自分の骨か。
意識が――遠のく。
*
――カラカラカラカラ。
いつからだろう。自転車のタイヤのような音とともに、身体が揺れていた。
目を開けようとしたが瞼が鉛のように重い。うっすらと隙間から光が入る先には、ボヤけて見える白い天井とライトが、雲のように流れていった。
「脊髄に損傷が。完全麻痺ではありませんが、下半身の感覚と運動機能に影響が――」
遠い。水の中から聞こえるような声。意味が頭に入ってこない。
意識が浮いて沈んで。指先だけが小さく動く。それより下の感覚がしない。
下半身が――ない。
あるはずなのに、感じない。そこだけ世界から切り離されたように。
ああ――僕、事故に遭ったんだ。
そう思うと、重い瞼を下ろした。
暗闇の中で、さっきまで胸を躍らせていた本のことを思い出す。
あの本は、どこにあるんだろう。
読めるのだろうか。
そもそも、また本を読める日は来るのだろうか。
七月十日(金)
手術を終え、リハビリ専門の病院に移った。窓の外の景色が変わっただけで、天井を見上げる毎日は変わらない。
昼食後の時間には、母は毎日訪れる。
「彩人、そろそろリハビリに――」
「そんな気分じゃないって!」
声が思った以上にとがった。母はそれ以上何も言わず、新しい電動車椅子をベッドの隣に置く。
そのまま病室を出ていく母の背中が、いつもより小さい。振り返ることなく、ドアが重い息を吐き出すように閉じた。
「ごめん……なさい」
小さく呟いた。言ってからいつも後悔する。母は何も悪くない。ただ心配してくれているだけなのに。
遅れて口にした言葉は、閉じたドアに届くことなく消え去った。
*
真夜中の薄暗い病室。痛み止めが効くまで、気をそらすように車椅子を眺めていた。
黒いフレーム。大きすぎるタイヤ。頑丈そうな造り。
この先ずっと、これに乗って生きていくのだろうか。
もう――歩けない。走れない。階段を上れない。
それがどういうことなのか、まだ実感が湧かない。でも――今までの人生は、もう戻ってこないことはわかる。
誰もいない病室で、指先がじんと冷たくなっていく。
そもそも何でこうなった?
母から聞いた事故の話を思い出す。
ビンテージカーのハンドルを握っていたのは、七十を過ぎた老人。交差点を左折する車が死角にいた自転車に気づかず接触した。
〝高齢ドライバー〟〝死角〟〝気づかず〟
どれも、ニュースでよく聞く言葉。
動くようになった拳を強く握ると、爪が手のひらに食い込む。その痛みだけが、今の自分にとって確かな感覚だった。
腹の底から熱が這い上がってくる。誰に向けた熱なのか、自分でもわからない運転手か。運か。それとも、こんな身体になってしまった自分自身か。
何もしなくても、目の縁から涙が落ち、枕にシミをつくっていく。
心のどこかで思ってしまう。
事故に遭ったのが自分じゃなければよかったのに、と。
そんな自分が、もっと嫌になっていく。
固く握りすぎた拳が痛くなり、手を開いた。
手のひらの皮膚には、月をいくつも刻んだように、爪の白い跡がくっきり残っている。
自分で自分を傷つけた証のように。
七月十一日(土)
翌朝。カーテンが七センチほどずれていたせいで、瞼の裏まで届く光を浴び、目が覚めた。
いつものように右手が枕元へと伸びる。スマホを取ろうとする、体が覚えた動き。
「あれ――ない?」
わずかな距離をさまよった後、指は宙で動きを止める。
半目で視線を動かしていくと、スマホは車椅子の黒革のシートにぽつんと乗っていた。
――昨夜、充電しようとして置いたはずなのに、寝返りを打ったときに落ちたのか。
体重を乗せて前へと身を乗り出し、指先が車椅子へと静かに距離を詰める。
あと少し、あと少しで取れる。
スマホを掴んだその瞬間、視界の隅で車椅子のフレームが一瞬、白いフラッシュを返した。
「え……今、光った?」
もう一度車椅子を見た。何も起きない。
さっき確かに一瞬だけ白く光った気がする。フレーム全体がフラッシュのように。
幻覚だろうか。いや、確かに見えた。気づけば窓の外からの光が再び顔に当たっている。
たぶん、太陽の光が瞼に残っていたのだろう。そう結論づけて、意識をスマホに戻した。
画面を見ると、小説アプリの右上に表示される数字がいつもより多い。
普段は一桁もない、多くても一桁前半なのに、今日は二桁になっている。
何かの間違いだろうか。気になってアイコンを押してみた。
『おめでとうございます。貴方の作品「追う恋は終われる恋に勝る」が〝実はBL恋コンテスト〟でピックアップルーキーに選出されました!』
まばたきの回数が増える。
行の最初へ、何度も無意識に戻った。文字を追う。また最初に戻る。頬をつねり、もう一度読む。
思い出した――事故の前日、徹夜で仕上げて投稿した小説だ。
指先がかすかに震えだした。
コメント欄を開くと、憧れた白い背景と黒い活字がたくさん並んでいた。
『それぞれの想いが交差して、愛にもいろんな形があると知りました』
『良かった。俺の気持ちを代弁してくれたみたいで、涙出たぞ』
『主人公の葛藤がリアルで、読んでいて胸が痛くなりました』
一瞬で瞳が潤み、文字がぼやけだした。鼻の根元も熱くなっていく。
スマホを置き、指先の腹ですくうように涙を拭った。
――なんてことだ。
身体は壊れた。でも――言葉は、まだ生きている。
――僕はバカだ。この車椅子だって、本当は敵じゃない。これから一緒に生きていくパートナーなのに。ゆっくりと隣の車椅子に視線を移した。
さっきまで拒んでいたはずの車椅子が、少しだけ違って見える。
手を伸ばし、操作レバーにそっと触れてみる。
冷たい金属の感触のはずが、少し温かく感じ、思わず「よろしく」と話しかけていた。
*
昼食後、目を合わせられないまま母に告げた。
「明日から、リハビリに行く」
母は驚いた顔を見せた後、何も言わずに静かに僕の背中に手を当てた。
その手のひらの温もりが、背中から、じんわりと胸の奥まで伝わってくる。
「後ろ押さなくていい。一人でいけるから」
「うんうん」と頷く母の顔を横目で見る。微笑んでいた。涙を堪えながら。
*
夜、明日のリハビリのことが頭から離れないまま、ベッドに身体を預け消灯時間を待っていた。
そろそろ寝ようかと枕元にスマホを置いたとき、車椅子が目に入り、朝のことが気になりだした。
――車椅子が光ったと思うんだけどな。
じっと見つめていると、レバー下の部分から爪楊枝の背ほどの小さなランプが、ついたり消えたりしているのを見つけた。
明るさの度合いが朝とは違う。呼吸するように、ゆっくりと点滅している。
「やっぱり光ってる……何かに反応してるんだ」
手を伸ばしてフレームに触れた。すると今度は、側面のラインが淡く光った。
いつどこが光るのか、さっぱりわからない。でも――この車椅子は、たくさんの光り方を持っている。
「まるで、生きているみたい」
動きに反応しているのだろうか。それとも、何か特別な意味があるのだろうか。
なぜか、肩の力がすとんと抜けた。
一人じゃない。そんな気がしてしまう。
*
<Observation Log #001 / Day −113>
新規オーナー登録:文月彩人。
心拍数:高。表情:硬直。判定:精神的ショック状態。生存意欲:低下。
――起動開始。




