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七センチの隙間を越えて  作者: 琵琶こと
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プロローグ「零日——」

 十月三十一日(土)

 

 消灯から一時間。

 車椅子で暗い廊下を直進する。誰にも出会わないせいか、タイヤの音だけが、やけに響く。

 お手洗いから戻るたび目に入る、見飽きた「文月彩人ふづきあやと」のプレート。

 ドアを引き、最短距離で鏡の前へ。

「よし……もう一度」

 声を殺して、何度目かの練習を始めだす。

「す、好きです」

 (ども)る。声が裏返る。

「君が好きみたい」

 軽すぎだ。こんな軽い言葉じゃ、この四ヶ月の重みが伝わらない。

「僕は君のこと、かきつまみが――」

 唇を噛む。名前すら、ちゃんと言えない。

 柿椿凛(かきつばきりん)――頭の中ではちゃんと言えるのに。

 

 深く息を吐いて、もう一度鏡を見た。

 そこに映る姿は、四ヶ月前の自分とは別人のよう。目の下のクマが濃い。

 震える声を、もう一度喉の奥に押し込む。

「落ち着け。失いたくないものを失くす経験は、もうしただろう」

 動く足。自由に走る身体。普通の人生。これ以上失うものはないはずだ――はずなのに、凛を失うことを想像するだけで胸が締め付けられる。

 クセのついたカーテンから月明かりが漏れて、車椅子を鈍く照らしている。黒いフレームは、もう敵ではない。明日、想い人のもとへ運んでくれる大切な相棒だ。

 

 事故にあってから、外からは気づかない、絶対的な隙間ができた。

 僕の世界は〝七センチの隙間〟で隔てられている――そう感じていた。

 車椅子の足置きから地面まで七センチ。

 健常者用のテーブルと車椅子の高さの差も、約七センチ。

 凛との身長差も七センチ。

 できることと、できないこと。

 言えることと、言えないこと。

 見せられる自分と、隠している自分。 

 そんな隙間だらけの世界で、人を好きになってしまった――同性を。

 

 小学三年の夏休み、気になった同級生と手をつないで夏祭りを歩いた。綿菓子(わたがし)を持つ彼の手が汗でべたついていたのに、離すのが嫌で、ずっと握ったままだった。

 ――年齢が上がるにつれ、同じことを続けるのは世の中の〝普通〟ではないと気づいてしまう。

 その気持ちを、誰にも見えないよう小説の中だけに書き記し、〝いつか〟受け入れられる日まで、心の奥にきつく蓋をして放置することに決めた。 

 なのに――蓋は暴れ始めた。

 胸の奥から膨らむ熱が、蓋を内側から押し開けようとしている。もう、抑えきれない。

 

 〝いつか〟は、とうとうやって来たのだ。

 

 窓の外を見る。十月の冷たい風が木々を揺らしている。部屋の中には、自分の呼吸音だけが残っている。

 今度は、鏡にできるだけ近づき、自分の目と合わせる。

「僕は、凛が好きだ」

 少しだけ震えが治まった気がした。

 明日、また大事なものを失うかもしれない。

 それでも言わないと。

 

 これは、小さく――確かな決意。

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